第四章 呪術師ザルーム(9)
さらさらと時間が零れ落ちてゆく。引っ繰り返した砂時計の、残りの砂がどれだけ残っているのか誰にもわからない。
けれど確実にその時は迫っている。……刻々と。
──……食われるぞ、何もかもを。
かつて聞いた言葉が、次第に現実味を帯びてゆく。それは果たして『契約』を無視した結果なのか、それとも単に『終焉』が近付いている為なのか。
そっと、ローブに包まれ隠された左腕に触れる。
先日の術で犠牲にしたそこは、動かす事は出来るものの、感覚が麻痺し、触れる指の感触を感じない。彼は容貌を隠す布の内で、小さくため息をついた。
果たしてあとどれ位、側にいる事が許されるのだろう。
果たしてあとどれ位、自分を失わずにいられるだろうか。
わかっている事はただ一つ。
審判の日は──近い。
+ + +
ここは森というほど樹木が密生している訳でもなく、しかも歩きやすいように足元が整えられた街道だったけれど──。
『森の番人』という別称を持つ獣は、その名に相応しい動きで前方を走る『獲物』に向かって駆け出した。不意打ちで受けた光はそれなりの威力を秘めていたが、殺傷力はまったくない。回復してしまえば、彼等の動きを制限する事もなかった。
人間の、しかも体力的には男に劣りがちな若い女達の足は、彼等が普段狩る生き物に比べればずっと遅く、その差は見る間に縮んでゆく。
追いかける六匹の内、二匹は他と比べれば身体が二回りは小さい。おそらく、この春生まれたものだろう。数だけを見れば、群れを作って生活するガーディにしては少ないと言えたが、その獰猛さが変わるはずもなく──。
(追い着かれる……!!)
獣の荒い息遣いを身近に感じながら、ティレーマはひやりとしたものを背筋に感じた。
目くらましはもう効かないだろう。彼等が『森の番人』と呼ばれるのは、その獰猛さもさる事ながら、非常に賢い生き物だからだ。まったく無効ではないだろうが、油断していた先程とは違う。
そうなると──攻撃手段を持たない二人に取れる手段はほとんど残されていなかった。
(わたくしが……、足止めをすれば……)
聖晶はなくても簡易な障壁を張れば、相手がガーディだとてその攻撃を凌ぐ事は出来る。現に、ティレーマは過去に何度かそれで難を逃れてきた。
だが、そうしても六匹のガーディが全てティレーマに向かうとは限らない。もし、一匹でもフィルセルの方へ行ってしまったら──。
(……出来ない)
あまりにも危険性が高過ぎる。
せめて自分以外の人間も含めて結界が張れれば良いのだが、それにはそれなりの集中と精神的な余裕が必要だ。だがこのままでは二人ともガーディの餌食になるのは目に見えて明らかだった。
(どうしたら……)
うまい解決策が見つからないまま、出来る事はひたすら前に向かって走るだけ。だが、いくら二人が若く体力があろうと、ずっと全力疾走など出来るはずもない。
「きゃあっ!?」
僅かに前を走っていたフィルセルの足がもつれた。
体勢を取り直そうとするものの、勢いがつき過ぎてうまく行かず、そのまま地面に転倒してしまう。
「フィル……!」
「い、ったあ……」
小さく呻くフィルセルを抱き起こし、抱え込むように走ろうとして──ティレーマの目はまさに自分達へと迫る、灰色の生き物を捕えていた。
(──……っ!!)
反射的に身体が動いていた。フィルセルの身体から腕を放し、そのままガーディの牙から庇うように広げる。
唾液に濡れて輝く白い牙が、その咽喉元目掛けて飛び掛る──!!
「っ、ティレーマ様っ!?」
フィルセルのそんな細い悲鳴が耳に届く。ここまでか、そんな風に覚悟を決めたその時だった。
「──メイ・プロス・テス」
何処からともなく、そんな声が聞こえたかと思うと、まさにティレーマの咽喉笛に噛みつかんとしていたガーディが、その直前で跳ね飛ばされた。
ギャウッ!!
仲間の悲鳴で第三者の介入に気付いたのか、後に続こうとしたガーディ達が動きを止め、低姿勢のまま周囲を見回す。
(い、今のは……?)
ガーディに噛まれる激痛を予想していたティレーマも、何が起こったのかわからず、呆然と立ち尽くす。その少し乱れた髪を、優しい風が揺らした。
(風……?)
西領でもこの辺りは穏やかな風が吹く事で知られているが、木立の中にまで吹き込んで来たにしては、周囲の木々は静かだ。ティレーマとフィルセルの周りにだけ、風が取り巻いているようだ──まるで二人を守るように。
「ティレーマ様っ! ぶ、無事ですか……っ!?」
先に我に返ったのはフィルセルだった。
先程転んだ拍子に膝が擦り剥け、僅かに血が滲んでいたが、それに構わず立ち上がり、呆然と立ち尽くすティレーマに駆け寄る。
「あ、あたしを庇うなんて無茶しないで下さい……!! ティレーマ様に怪我とかされたら、あたし……っ」
ぎゅっとしがみ付かれ、半泣き状態のフィルセルの顔にようやくティレーマも自分を取り戻した。
確かに今のは無茶以外の何物でもなかった。無意識の行動だったとは言え、今更ながら冷たい汗が流れる。
「……、取り合えず怪我はしてませんから。それよりも誰かが助けてくれているようです。今の内にここを離れましょう」
「あっ、そ、そうですね……!」
ガーディはまだ目の前にいる。だが、その賢さ故か、再び襲い掛かろうとはしてこない。
小さく威嚇するような唸り声を上げながら、周囲を警戒している。ティレーマとフィルセルの行動も気にはなるようだが、第三者の存在の方が気になるようだ。
そこに再び暗い声が響く。
「……メイ・ピューレ・デンジェ・プロティアン・ナ・ウィルタ……」
「あ……!」
ともすれば風に紛れてしまいそうなその声を拾ったフィルセルが、驚いたような声をあげる。
「フィル?」
「この声、もしかして……。ティレーマ様、逃げましょう! きっと、もう大丈夫です!!」
「え? ええ……」
一体何が理由なのか、途端に表情を明るくしてその腕を引くフィルセルに面食らいながら、慌ててティレーマも足を動かす。
逃げようとするその動きに、ぴくりと若い二匹のガーディが反応する。しかし、周囲の大人達の警戒する様子に、追いかける素振りは見せたものの、結局その場に留まった。
再び駆け出しながら、ティレーマは何かを知っていそうなフィルセルへ尋ねかけようとして──やがて再び聞こえてきた不可解な言葉に質問を飲み込んだ。
「ウィルタ・ラピティータ・ペルセム・リアス・イ・アリム──」
(これは……。もしかして、古代語?)
耳に聞き慣れた響きではないが、特徴的な発音は何処かで聞いた覚えがあった。それは確かまだ、西の主神殿にいた頃──。
「……メイ・シリング・シリンクル・ナ・フィーチス……」
ざわ……っ……ざざ──ざあああ……ぁぁああああ──っ!
「……っ、な、何!?」
何処で聞いたかと記憶を辿っていると、突然前触れもなく周囲の木々が激しくその枝を揺らし始めた。
まるでそこだけ風が吹き荒れているかのように、葉擦れの音がその場を支配する。だが、身体にはそれだけの風は感じない。
音の嵐に思わず耳を塞ぎながら、二人は先を急ぐ。ガーディにというよりは、その音に追い立てられるような形で二人は前だけを見て足を動かす。
その背後で、まるで意識の糸を断ち切られたかように次々にガーディが地面へ倒れ伏していったが、ティレーマとフィルセルがそれを目の当たりにする事はなかった。