第四章 呪術師ザルーム(8)
「──お話とは何でしょうか、ルウェン殿」
人々が休息に入り一時の静寂が支配する中、そんな言葉で呼び止められた。
声の方に顔を向けると、朝の薄い光の下、先程見たばかりの赤黒いローブ姿が佇んでいて──。
「……待ち伏せか?」
話がしたいと言ったのは自分の方だったが、よもやこんな所で待っているとは予想していなかった。思わず口からそんな言葉が飛び出す。
会談を持つにしても、てっきりこちらが彼の所在地(後でジニーに確認するつもりだった)へ向かってからだと思っていたのだ。まるで自分が皇女ミルファの元を退出するのを待っていたかのような様子に、少し意外な思いを抱いた。
何と言うか、何か急いていると言うか、余裕がない──そんな感じを受けた。あくまでも直感に過ぎないので、理由を述べよと言われても答えられないのだが。
「そう受け止めて頂いても構いません……。先程、話があると言っておられたでしょう。動き出す前が宜しいかと思ったのですが」
「ああ……、そりゃ気を使わせたな」
特に急ぐ話でもなかったが、彼の方から姿を見せてくれたのだ。この機会を逃す理由はない。ルウェンは早速本題に入る事にした。
「──あんたにはちゃんと聞いておきたい事があるんだ。だが、その前に……左腕を見せてくれないか?」
「……!」
よもやそこに話が及ぶとは思っていなかったのか、それとも気付かれる事を恐れていたのか──全身を布で覆い隠したその肩が、小さく揺れたのをルウェンは見逃さなかった。
「先刻、あんたが現れた時に血の匂いがした。地方神殿を見に行った時に怪我でもしたのか?」
「……お気づきでしたか……」
微かに苦笑の混じった言葉には、先程までは感じさせなかった疲労感が漂っていた。
「流石はルウェン殿……。誰にも気付かれないだろうと思っていたのですが」
「いいから見せてみろ。その様子じゃどうせ大した処置もしてねえんだろ」
「必要ありません。……出血はもう止まっておりますから」
「そういう問題か?」
ザルームの見せた少々意外な無謀さに、ルウェンは眉を顰めた。
時と共に周囲も明るくなり、ザルームの袖に広がる黒い染みの範囲が予想よりも大きい事がわかる。
袖の先だけかと思いきや、実際には左袖全体が他よりも黒味を増していた。身に着けているローブに切り裂かれたような様子はなく、一体どうやって傷を負ったのかも謎だ。
相手がザルームでなければ、そのまま無理矢理にでも袖をめくって傷を確認する所だが、相手は自在に姿を消したり現れたり出来る呪術師である。ここで逃げられたら、尋ねたい事も尋ねられずに終わりそうで、ルウェンは追求を諦めた。
「まあ、いい。後でちゃんと手当てしとけよ? ……それじゃ本題に入るぜ。あんた、セイリェンで言ってたよな──『今の所は』味方だってな」
「……はい」
「今度は逃げるなよ。あれはどういう意味か、真意が知りたい。──あんたは皇帝側の人間なのか?」
単刀直入に尋ねられた問いに、ザルームはゆるりと頭を振った。
「いいえ……。信じて頂けるかわかりませんが、陛下との繋がりはございません」
その否定はルウェンの予測通りと言えた。最初こそ疑ったルウェンだが、ミルファへの献身は偽りのものには思えなかったのだ。
これでもそれなりに人を見る目はあるつもりだ。だからこそ──疑問は募ったのだが。
「じゃあ、何故あんな事を言ったんだ?」
あの状況であの言葉は、『疑って下さい』と言わんばかりだった。深入りするのを牽制するのが目的だとしても、もっと他に言い様はあっただろう。
「……それは話せません。セイリェンでも忠告したはずです、ルウェン殿。事はあなたが思うよりも深刻だと」
「ああ、確かに聞いた。だが俺も言ったはずだぞ。──相手がどんな化け物でも、手を引くつもりはねえ」
互いに一歩も譲らない二人の間に、しばし沈黙が落ちる。睨み合うような激しさはなかったが、短くも息詰まるひと時だった。いつまでも続きそうだった均衡は、それでもやがて破られる。先に口を開いたのはザルームの方だった。
「……。それ程にソーロン様の敵を討ちたいのですか?」
試すような言葉に、ルウェンはにやりと口元に本来の笑みを浮かべた。
「それもある。でも今は……ただ、手助けしたい気持ちが強い」
誰の、が抜けていても、その思いは伝わったようだった。ふと、張り詰めたような空気が緩む。
「そう思うならば……支えて差し上げて下さい。あの方には支えが必要です。より近くで心を許せる誰かが──」
だが、続いた言葉はルウェンの予想を超えていた。思わず目を見開く。その言い様ではまるで、自分ではそれが出来ないと言っているようではないか。今まで誰よりも側にいたはずなのに──。
「あんたがいるだろう? あんたが支えになればいい」
言いながらも思い出すのは、皇女ミルファが時折見せる孤独な顔だった。
「皇女ミルファも、あんたにこそその支えになって欲しいと思っているんじゃないのか!?」
言いながらも何故か無性に腹が立ってきた。
確かにミルファは、初めて顔を合わせた時よりは柔らかな表情を見せるようになった。側に近くに仕える自分や姉であるティレーマに対しては、少しは気を許せるようになったのか、本来の少女らしい顔を見せるようになった気もする。
だが、それだけだ。気がする、程度でしかないのだ。
「あんたが一番長く、側にいたんだろう? なら……!」
「──それは出来ないのですよ」
感情のままに訴えた言葉を途中で遮るように、ザルームは静かに言い放った。
「私は……『影』です。これから未来を作って行く『光』と共に在る事は許されません。ミルファ様に必要なのは、同じ場所で支えてくれる手です。こんな──汚れた血で塗れた醜い手では駄目なのですよ」
「……!!」
言いながらまるで見せつけるように持ち上がった左手は、本来の色を失くして全体がどす黒い色に染まっていた。
「やっぱり怪我を!?」
普通の出血ではこうはならない。傷の範囲はわからないが、何針かは確実に縫う怪我に違いない。
「施療師に診せるぞ! すぐに手当てを……!」
強引にでも連れて行こうと伸ばした手を、ザルームはするりと後ずさって避ける。
「……ご心配ありがとうございます。けれど、先程も申しました通り、それは必要ありません」
「な……!?」
驚くルウェンに、ザルームは平然とした様子で再び左手を下ろした。そしてそのまま、話は終わったとばかりにすうっとその姿を消してゆく。
「おい!? ちょ、ちょっと待て!! まだ話は終わってねえぞ!?」
そのまま掴みかかるが、伸ばした手はローブの端を掴む事も出来ない。結局、ルウェンはまたしても話の途中で逃げられてしまったのだった──。
+ + +
──あの会話から半月が過ぎた。
あんな風に消えた以上、向こうから姿を見せる事はないような気がして、すっきりとしない思いを抱えたままで今日まで来たのだが、よもや自分以外にも姿を見せなくなっていたとは思わなかった。
思い出すのは赤黒く染まっていた左腕。
ジニーの様子を見るに、あの負傷は他には誰にも知られていないようだ。果たしてちゃんと手当てをしたのだろうか。今更ながら少し心配になった。
どのような状況でどんな風に傷を負ったのかはわからないが、あれだけの出血である。まさか自分で縫ったりはしないだろう。だとしたら、やはりそのまま放置している可能性が高い。
──無謀もいい所だが、否定出来ない辺りが恐ろしい。無謀さではルウェンも相当なものだが、流石に傷を放置まではしない。小さな傷一つと侮って、剣が握れなくなっても困るからだ。
(傷の具合が悪い訳じゃねえよな……)
うっかり失念していたが、ザルームはあの様子ではそれなりに高齢のはずだ。つまり自分よりも体力は劣るだろうし、回復力も低いはずである。
やはりあの時、無理にでも捕まえて治療させるべきだったのでは、と思っても後の祭りだ。それが無理でも、せめてミルファに報告でもしていれば──。
万が一の事など起こってはいないと思うが、もし起こっていたら寝覚めが悪いどころではない。何より、今後に大きく影響しかねない話だ。
(……後で確認した方が良さそうだな)
いくら何でも主であるミルファの呼びかけなら、あのザルームも姿を見せるはずだ。まだ何処か不安そうなジニーを励ましながら、ルウェンは密かに決意していた。