第四章 呪術師ザルーム(6)
「簡単に言うけれど……。ルウェンさんはミルファの騎士でしょう? 他の兵士の方々だって別の目的があってここまで来ているんですから、こんな事でわざわざ面倒を増やすなんて……」
「面倒、じゃないです! ティレーマ様はミルファ様の姉君……、皇女殿下なんですよ? 兵士様がその身を守るのは当然じゃないですか」
眉を吊り上げて説教めいた事を口にしたかと思うと、一体何を思ったのかフィルセルは思わせぶりな事を付け加える。
「と言うか……、ティレーマ様の護衛なら、むしろ誰もが進んでやりたがると思いますよ?」
含み笑い混じりの言葉に、何一つ思い当たる事のないティレーマは不思議そうに首を傾げた。
「……? 楽だから、ですか?」
「違います。……本当に自覚ないんですね、ティレーマ様……」
ティレーマの認識がずれまくった反応に、フィルセルは自分で言いながら相手が皇女である事を忘れて思わずため息をついた。
皇女という身分と神官という立場から、誰もが表立っては接近しないが、黙って立っているだけでも華のあるティレーマの人気は高い。
その事実を裏付けるように、ティレーマと親しくなった辺りからフィルセルは兵士達によく声をかけられるようになった。理由は語られずとも明らかである。
大抵、話のついでのように話題に上るのはティレーマの事なのだ。あまりにもわかりやす過ぎて、からかう気にもなれない。と言うか、いっそ涙ぐましい。
彼等が従うミルファも十分整った外見をしているし、同じ皇女という身分なのだが、年若さの為かそれとも何処か人形じみた華奢な外見の為か、はたまた南領妃サーマの娘だからか──どうにも庇護欲の方が先行してしまうらしい。
セイリェンの戦い以来、統率者として心酔する者も随分増えたようだが、その事が逆にミルファに向かう感情にそうした甘さがない事を示していた。
……それ以前に、ミルファにはそういう感情を抱かせる隙がない、とも言えるが。
対してティレーマは、神官として育ってきた為か人に対する壁がない。庶民に近い生活をしていた事も理由の一つだろう。
結果として、今ではすっかりティレーマは反乱軍の兵士達の憧れの存在となっている。知らぬは本人ばかりだ。
(そんなティレーマ様だからこそ、あたしも声をかける事が出来たんだけど──……!?)
そこまで考えたフィルセルは、ある事に気付き、大きく目を見開いた。歩みも自然と止まってしまう。
──形だけとは言え、神官でなくなったという事は。
「……ティレーマ様」
立ち止ったばかりか、急に深刻な声を出したフィルセルに、何事かと窺ったティレーマはその顔色に目を見開いた。
「どうしました、フィル? 何だか顔色が……」
「大丈夫です、何でもないですから。それより……、神官を辞めた事は、ミルファ様以外には言っちゃ駄目ですよ!?」
「え?」
急にそんな事を言われ、ティレーマは面食らった。唐突とも言える話題の飛躍に付いて行けないながらも、いくら何でもそれは無理があるだろうと思う。
先程のフィルセルのように、いつも首から下げていたものがなければ聖晶がない事に気付く人間が出て来るだろうし、その理由を尋ねられたら答えない訳には行かないではないか。
第一、その事を秘密にするとしても、利点が特に思い当たらない。確かに皇帝側に知られると問題があるかもしれないが、こういう事は黙っていてもその内知られる事だ。
「どうしていきなりそんな事を?」
全く理由がわからずに質問すると、フィルセルはぐっと言葉に詰まった。
「え、ええと……、ほら、だからですね?」
「???」
(い、言えない……! 変な『虫』がつくといけないから、なんて……!!)
神官でないという事はすなわち、『手出しOK』とも取る事が出来る。
もちろん、あくまでも形式上の話という事であるし、神官に戻るつもりのティレーマがその気になるとは考えられないが、そうと知って暴走する人間が出て来ないとは言えない。
そしてどう見ても、ティレーマはそうした事には免疫がなさそうである。仮に勇気ある(無謀な、とも言う)兵士が良からぬ事を考えて迫ったとして、この様子では口説かれているという事も理解せずに状況に流されそうな気がしてならなかった。
それを心配しての忠告だったが、少々裏目に出てしまったらしい。
もっとも、別の意味で世間知らずのティレーマである。その通りに説明した所で、『虫』が何を示すか理解出来るか怪しい所だが。
「神官ではないと公表しなかったら、先程フィルが言った『誰かに守ってもらう』方法も出来ないんじゃないかしら?」
「うっ、そ、それはそうなんですけど」
再び歩き出しながら、フィルセルの心配を余所にのほほんと言葉の矛盾点を突いてくるティレーマに、心の中でどうしたものかと頭を抱える。
変にティレーマを構えさせず、かつ、そうした『身の危険』に対する注意を喚起するにはどうしたら良いのか、うまい具体策が見つからずに困り果てたその時だった。思わぬ所から助けの手が入った。
「──フィル、止まって」
不意に表情を引き締めたティレーマが、ぐっとフィルセルの腕を掴んで再び歩みを止めさせる。
「……ティレーマ様?」
「シッ、……黙って」
ふと気がつくと、周囲は木立に囲まれた視界の悪い場所に差し掛かっていた。街道の両横に広がる木々が道の上に枝を伸ばし、重なり合い、陽射しを遮って視界を薄暗くしている。
サワサワという葉擦れの音がする以外は、他に音らしい音がしない。
だが、西の主神殿から単身旅をした経験のあるティレーマは、そこに紛れた微かな気配を感じ取っていた。
それは──殺気。
(後ろと……、もしかして横にも? 囲まれてはいないとは思うけれど……)
ちらりと横にいるフィルセルを流し見る。ティレーマの様子から何かしら感じ取ったのか、緊張した顔で周囲を不安そうに見回していた。やがてその目がティレーマに向き、抑えた声が尋ねてくる。
「あの……、もしかして……何か、いるんですか?」
「──ええ」
怖がらせたくはなかったが、変に期待を持たせるのも良くない。そう判断して言葉少なに肯定すると、フィルセルはきゅっと身を竦めた。そしておそるおそる口を開く。
「ま、魔物でしょうか?」
言われてその可能性がある事に気付いたが、すぐに違うと否定する。もしそうなら、わざわざ気配を殺すとは思えない。
だとしたら獣だろう。人の行き来があった頃は避けて出没しなかったそれ等が、行き来が途絶えた事で現れるようになったのかもしれない。
立ち止まった事で相手に警戒心を抱かせたのか、すぐに仕掛けてくる様子はないが、このままではその内襲ってくるだろう。ティレーマは自嘲気味の笑みを薄く浮かべた。
(聖晶を手放してすぐこういう事になるなんて、ラーマナも試練をお与えになるものね)
油断した思った所で、もはや後の祭りだ。
──この窮地をどうやって切り抜けるべきか。ティレーマはすぐに決断した。
「フィル、落ち着いてわたくしの言う事を聞いてください」
「は、はい」
落ち着けと言われても、簡単に出来るものではない。しかし、フィルセルは硬い表情ながらもしっかり頷いた。人の命を預かる仕事を志しているからか、同じ年頃の少女より自制心があるらしい。
その事に感謝しながら、ティレーマはゆっくりとこれから取る行動を説明した。
「これから目くらましの術を使います。……流石に呪術師程の威力は期待出来ませんが、時間稼ぎにはなるはずです。怖いとは思いますが目を閉じて──わたくしが走るように言ったら、すぐに走って下さい。この木立を抜ける事だけを考えて。……わかりましたか?」
「はい……っ」
ティレーマの抑えた声の説明に、このような危機的状況を前に自分を見失わないどころか状況を打破する方策を考えられる事に感心しながら、フィルセルは言われた通りにぎゅっと目を閉じた。
それを確認するとすぐさまティレーマは聖句を唱え始める。
「──唯一の神ラーマナよ。我は汝に永遠の忠誠を誓う者なり」
日々の勤めで口にするその言葉は、ティレーマに集中を齎した。おそらくそれは長年の信仰がなせるものだろう。
「我、ここにその御力を貸し与え給う事を求めん」
ふっ、と身体の内に熱が湧き上がる。《癒しの奇跡》とは異なるその感覚は、随分と久し振りに感じるものだった。
(……フィルだけでも助けなければ)
当のフィルセルが聞いたなら、『立場が逆ですから、それ!!』と即座に突っ込んだに違いない事を考えながら、時期を窺う。
せめて今が夜なら、多少距離があっても効果が期待出来ただろうが、今はまだ明るい時分である。出来るだけ相手との距離が縮まる必要があった。
気配はじりじりとこちらに近付いてきている。向こうもこちらを襲う時期を推し量っているのだろう。
……あと、もう少し。
なかなか動かない気配に僅かな焦りを感じるが、ぐっと堪える。守る対象がいるからだろうか、もう身を守ってくれる聖晶がないのに、不思議と恐怖は感じなかった。
──そして、それからどれ程の時間が過ぎた頃か。
ザッと繁みの鳴る音と共に、ついに背後の気配が動いた!
「……っ、我が手に光を!!」
間を置かず、振り返りざまに手を背後に向けると、それを中心にして瞬時に眩い光が放たれる。薄闇を切り裂く光のナイフは、まさに飛びかからんとしていた獣達の目を焼いた。
ギャン!!
そんな叫びが上がる中、ティレーマは鋭く言い放った。
「走って!!」
言いながら、自身もフィルセルの腕を引いて走り出す。ティレーマの声に慌てて目を開いたフィルセルが、自分で走るのを確認してから手を離すと、ちらりと背後を確認した。
あの光に驚いて逃げてくれれば──そんな希望的観測は、残念ながら叶わなかった。
光の衝撃でよろめきながらも、獣達は逃げる事なくそこにいた。濃い灰色の体毛でそれが何か判断したティレーマは、そっと唇を噛み締める。
(ガーディ……!)
それは帝都周辺の森林を主な生息地にする、獰猛さで知られる獣。よくよく考えれば、今は夏。この春に生まれた仔が、親について狩りを学ぶ季節だ。
目的が目的である為、この時期のガーディは空腹でなくても生き物を襲う。しかも獲物の弱点を教える為にか、一噛みでは仕留めず嬲り殺しにする事が多い。
狙った獲物は逃がさない。それが、この時期のガーディの特徴だ。
やがて光の衝撃から立ち直った成獣達が、体勢を立て直す。その目にあるのは思わぬ反撃をしてきた獲物に対する怒りだ。
そして灰色の獣は大地を蹴って駆け始める。人と獣、どちらの足が速いかなど比べるまでもない。
──事態は最悪だと言えた。