第四章 呪術師ザルーム(4)
窓からは午後の穏やかな陽射しが入り込んでいた。
開け放したそこを通って吹き込むのは、微かに草の匂いのする初夏の風。明るい室内に、二人の人間が向かい合って中央に置かれた椅子に腰掛けていた。
「──やはり、行かれるのですね」
少し離れた所から子供の声が聞こえる以外は、音らしい音のないそこに、落ち着いた静かな声が紡がれる。この地方神殿を預かる主位神官のものだ。
その問いかけに対し、その向かいに腰掛けていた人物──ティレーマはゆっくりと頷いた。
光を受けて輝く金の髪は邪魔にならないようにきっちり結い上げられ、身に着けている服も神官のものだ。その姿はいつもと変わらないはずなのに、何処か違うように感じるのはきっと気のせいではないだろう。
「はい、主位神官様」
笑顔を湛えたその顔に、それまであった迷いや一種の義務感のようなものは一切ない。
ミルファ率いる反乱軍がパリルの復興を支援している間、神殿の代表として神殿とパリルを行ったり来たりする日々を過ごしていたティレーマだが、今日はパリルの復興状況を報告するだけの為に主位神官の元を訪れた訳ではなかった。
長く世話になったこの地を離れる──その暇の挨拶をする為に今、この場にいる。
「パリルの重要な箇所の復旧は数日もすれば終わるようです。ミルファはそのまま帝都を目指すようですし、わたくしも共にここを離れるつもりでいます」
「……ここに残ろうとは考えないのですか?」
ミルファと再会した後のティレーマの様子から、そうするだろうと予測はしていたものの、主位神官はそう尋ねずにはいられなかった。
皇女ミルファが進む道は、平坦なものではない。多くの人々が傷付き、血が流れ──時として命も失われる事だろう。そんな人々を前にして、ティレーマが何もせずにいるはずがない。
パリルの人々を救ったように、可能な限りの人々を救おうと考えるに違いないのだ。そうする事で、自身の命が危うくなろうとも。
対するティレーマも、主位神官が何を心配してそんな事を言い出したのか理解していた。その危惧が間違ったものでもない事も。
けれど──。
「わたくしは、今まで皇女である事を他人事のように捉えていました」
生まれ落ちた時から『皇女』である前に『神官』だった。今でも自分ではそう思っている。おそらく、これから先もそうだろう。
「けれど……、気付いたのです」
ティレーマは赤瑪瑙の瞳を細め、窓の外に向けた。
明るい光。誰もが恋い求めるもの。けれど、それはそれが恩恵を与えてくれるからだけではない。
暗い闇を知るからこそ、光の持つものの良さがわかるだけなのだ。闇があるからこそ、光は必要とされる。それはまた、逆も然りだ。
「わたくしは、皇女であって神官。そのどちらもがわたくしの真実だと。……『皇女』だからこそ、出来る事もあるのだと」
だから、もう目を反らさないと決めた。
「ですから、もうここで一人、守りに入っている訳には行きません。ミルファと約束したのです。最後まで……見届けると」
ミルファがこれから犯すであろう罪──『親殺し』。それを止める事が叶わないのであれば、せめて何らかの形で一緒に背負いたいと思ったのだ。自己満足である事は承知している。
けれどそれを出来るのは、皇女であり姉である自分以外にいない。この世にもう、皇帝の血を引く人間はティレーマとミルファの二人しかいないのだから。
再び視線を主位神官に戻すと、ティレーマはそのまま立ち上がり、一礼した。
「今までありがとうございました。ここで受けたご恩は、一生忘れません」
その何処か晴れやかな表情を見上げ、主位神官はふう、とため息をつく。そしてその口元に微苦笑を浮かべた。
「やれやれ……。本当にこれと決めたら頑固な方だ」
「主位神官様……」
「そこまで覚悟を決められているのなら、引き止めはいたしませんよ。ただし……一つ、私とも約束して下さいますか?」
「約束、ですか?」
「──たとえ目の前に死の淵に立つ人間がいても、むやみに《癒しの奇跡》は使わないで欲しいのです」
「……それは」
その約束は簡単には頷けないものだった。否、頷く事は出来る。ただ──守れるかどうか、自信はなかった。
たとえば、目の前でミルファが死に掛かっていたとしたら。
……考えるまでもなく、自分はその力を使うに違いない。しかもすでに一度行使し、どのようなものか自分でも理解した力だ。だが、主位神官はそんなティレーマの気性を知った上で、更に念を押した。
「絶対に使うな、とまでは私には言えません。ですが──これから先に待つ人々は、パリルの人の比ではない。ラーマナの教義に則れば、一人を救うなら他の全ての手を取らねばならない。ですが……、そんな事は不可能です。それは聖女ティレーマ、あなたにもわかるでしょう」
「……はい。ですが……」
言わんとする事はわかるが、やはり素直に頷く事は出来ない。そんなティレーマに、主位神官は真面目な顔のまま、予想外の言葉を口にした。
「──聖女ティレーマ。これから先は、神官である事を忘れなさい」
「え……?」
一瞬、何を言われたのかわからなかった。
そのまま呆然と主位神官の顔を見つめ──やがて頭が意味を理解すると、さあっとその顔から血の気が引く。
「それは……、どういう意味ですか」
動揺を抑えきれず、微かに震える声で問い質す。主位神官の言葉はそれだけの威力を秘めていた。
神官である事を忘れろ──それをこの神殿の頂点にある主位神官から告げられたという事は、神官に相応しくないとみなされたようなものだ。
ティレーマは青褪めた顔のまま、それでも視線を下げる事なく主位神官を見つめた。
「わたくしは……、神官の名に恥じる行いはした覚えはありません」
確かに一度、禁を破った。
西の主神殿を預かる主座神官からも、使ってはならないと言われた力を解放した。
それでも──それが間違いだったとは思いたくない。助かるかもしれない命を、自分の都合で見過ごす方が余程罪深い事だったと今でも思っている。
それは主位神官とて理解してくれたはずなのに──。
突然の事に動揺するティレーマに、主位神官はゆるりと頭を振った。
「今のあなたに、神官という枠は邪魔になるだけです」
「そんな事は……!」
「落ち着いて聞いて下さい、聖女ティレーマ。私は何も、あなたが神官の資格がないと言っている訳ではないのですよ」
言いながら主位神官も立ち上がり、そのままゆったりとした足取りで窓辺に向かう。そのまま窓の外を眺めながら、落ち着いた口調で続けた。
「先程も言ったでしょう。ラーマナの教義はあなたの行いを阻害する。あなたの手は、二つしかない。……だから、神官であろうとする事をやめなさい」
それは今まで神官であろうとしてきたティレーマとっては、何よりも辛い言葉だった。思わず俯き、唇を噛み締める。
だが、その後に続いた主位神官の言葉は、慈しみのこもったものだった。
「ここから先は神官ではなく──皇女として、行きなさい。あなた自身も今言った事ですよ。『神官』でもあるが、『皇女』でもある。今まで神官として生きてきたのなら、逆にこれから先を皇女として生きる事を優先したとしても構わないでしょう。ラーマナの教えなどに囚われず、自分の心の赴くまま……自由に」
「……主位神官様?」
「その上で、先程の約束を守って下されば良いのです。神官である限り、教義という枷からは逃れられない。神官も、また人間です。全ての人間に対して公平であるなど、そうあろうと努力しても出来るものではない。そうなればいつか──あなたは追い詰められ、身動きが取れなくなるでしょう。……私はそちらの方が恐ろしいのですよ」
それは、約束という形を取った主位神官からの餞の言葉。『神官』である事に囚われる事はないのだと、言葉遊びのような逃げ道を示してくれたのだ。
これから先、ティレーマが『神官』として教義に外れた行いをしたとしても、『皇女』として正しいのであれば、それもまた許されるべきなのだと。
主位神官の深い思いやりのこもった言葉に、ティレーマはただ一言しか口にする事は出来なかった。
「ありがとう……ございます……」
胸の奥が熱く、詰まったような感じがしてうまく声が出ない。
そんなティレーマを振り返り、主位神官はいつもの人好きのする笑顔で微笑んだ。