第四章 呪術師ザルーム(3)
手合わせを始めてから、まだ半刻も経っていない。いくら何でも切り上げるには早すぎる。怪訝そうなミルファに、ルウェンは小さくため息をついて首を振った。
「止めましょう。自覚がないようですが、顔色が良くないですよ。どうも集中しきれていないようですしね。真剣を使う以上、無理は出来ません。……怪我をしてからでは遅いですし」
「……」
図星だったのか、ミルファはきゅっと唇を噛んで視線を下げる。
実際、ルウェンの言葉に間違いはなかった。ルウェンに剣を打ち込みながらも、心の半分は別の事で占められ、精神的な疲れが肉体にも影響を与えつつある。非は明らかにミルファにあった。
「……ごめんなさい」
謝罪を口にすると、ルウェンは困ったように頭を掻いた。
「いや、その……謝って欲しい訳ではないんですが。しかし、どうしたんです。体調でも?」
気遣うような言葉に、ミルファは小さく頭を振った。
そう、体調が悪い訳ではない。確かに疲れてはいるが、剣を振るうのに支障が出る程でもない。
「大丈夫です。……ただ……」
「ただ?」
「少し夢見が、悪かっただけです。心配は無用です、ルウェン」
出来るだけ何でもない事のように、努めて軽い口調で答える。しかし脳裏に焼きついた悪夢は、そんな努力を嘲笑うかのように再び甦る。
──黒い地面に滲み、広がってゆく、真紅……。
無意識にミルファの手が動き、縋るように胸元を掴む。硬い表情とその仕草にルウェンは疑問を深めたが、それ以上突っ込んで聞く事はしなかった。
話して楽になる事は確かにあるが、ミルファの状態を見るに、聞く方がかえって追い詰める気がしたからだ。もっとも、心配は無用と言われてもこの様子では心配しないでいる方が難しい。
仕方がないなとルウェンは小さくミルファに気付かれないようにため息をつくと、ぼそりと呟いた。
「……皺になりますよ?」
「え……?」
不意打ちの言葉に、ミルファがはっと我に返り、ルウェンに視線を向けて来る。そこに安心させるように微笑み、ルウェンは自らの胸元を指で示した。
「服。そんな風に掴むと、皺になりませんか?」
「あ……っ」
ようやく自分のしている事に気付き、ミルファは胸元を掴んでいた手を離した。
「そうね、そうだわ……」
「もしかしてそれ、癖ですか?」
いつだったかもそうしていたのを見た覚えがあって尋ねると、ミルファは頷いた。そして首からかけた鎖を引き上げ、そこに下げているものをルウェンに見せる。
爪半分ほどの小さな石。空の色を映したそれを目にし、ルウェンは目を見開いた。それによく似たものを彼は知っていたからだ。しかし──。
「それって……、もしかして聖晶、ですか?」
言いながらも、そんなはずがないと思う。
神官の事は相変わらずさっぱりだが、聖晶は神官の資格を持つ者が生まれ落ちた時に手にしているという石で、それ以外が持つ事はない事は確かなはずだ。
以前帝都にいた時ですら、皇女ミルファが姉であるティレーマ同様、聖晶を持って生まれたなど聞いた事がなかった。
先日反乱軍に加わったティレーマがいつも首からかけている淡い桃色の聖晶を思い浮かべながら、ミルファの指先にある石をまじまじと見つめる。
見れば見るほどそれは『本物』のような気がしてならない。一体どういう事かと答えを求めるようにミルファに目を向ければ、ミルファはあっさりと答えを口にした。
「ええ、聖晶です。……当然ながら私の物ではありませんが」
再び服の内へ仕舞いながら、ミルファは微かに表情を緩めた。
それは笑顔というにはあまりにも淡いものだったが、初めて見せるミルファの素の表情と言えた。ルウェンはそんな表情の変化に内心驚きながらも、ミルファの言葉の続きを待った。
「これは……、お守りなのです、私にとって。不安な時に握ると、何故だか心が落ち着く気がして──気がつくと癖になっていました」
「誰のなんですか? あ、その……、差支えがあれば答えなくても結構ですが」
純粋な疑問から思わず尋ね、慌てて付け加える。今のは流石に無遠慮だった。相手は気心の知れた友人や知人でなく、仮にも剣を捧げた主である。
だが、ミルファは特に気にした様子もなく、しばらく考えるとぽつりと答える。
「……幼馴染、いえ友達です。……たった一人の」
その目は遠い日を懐かしむような光を宿し、手はそっと大切そうに布の上から聖晶を押さえる。その様子だけでも、それが単なる友達だとは思えず、ルウェンは再び素で尋ねていた。
「もしかして初恋の人、ですか」
口にした後で、しまったとは思ったが、かつて同様の事を尋ねて何故か怒り出した相手──ソーロンとは異なり、いきなり殴りかかってくるような事はなかった。
その代わりにきょとん、と何を言われたかわからないような顔をしてルウェンに目を向け、次いで一瞬にして真っ赤になる。
からかうつもりで言った訳ではなかったのだが、その反応に思わず『面白い』と思ってしまったのは否定出来ない。しかし、これ程わかりやすいのも珍しい。
「ち、違います……! 何を、一体……、ケアンは神官ですよ!? こ、恋心とかそういうものが生まれるはずがないでしょう!!」
いつも沈着冷静なミルファの取り乱しように、珍しさも手伝ってルウェンは更に図に乗った。
「何を言っているんです、ミルファ様。神官だろうと皇女だろうと、人間には変わりないではないですか。確かに神官は恋愛はご法度と聞きますが、こちらから想う分には何の問題もないのでは? 第一、人を好きになるのに、肩書きや理由が必要ですか」
「……っ、そ、それはそうかもしれませんが……!」
ルウェンのやけに実感のこもった言葉に、ミルファは目を白黒させ──やがて疲れたように俯くと、唸るように呟く。
「……確かに、ルウェンの言う通りかもしれません」
そう、今までそうした方向で考えた事がなかったが、彼の死の予感を感じてこんなにも怯えているのは──友情以上の感情を、ケアンに対して抱いているからなのだろう。
ただ、本当にそれが恋愛感情なのか、それとも別の何かなのか、ミルファにはわからなかった。今までそうした事を無意識に避けて通って来ていたのだから尚更だ。
何しろケアンは神官で──しかも、最高権威である主席神官から目をかけられ、『神童』との誉れも高かった。正神官になった暁には、そのまま大神殿の役職付になるのでは、と言われていた位だ。
神官は婚姻も恋愛も禁じられているという。当然だろう、『あらゆるものに平等であれ』というラーマナの教えに対して、それは正反対に位置するものなのだから。
それはつまり──万が一にも、ミルファが抱いた恋が実る可能性はないということ。
だからずっと、自分の気持ちから目を背けて来た。自覚してしまったら、苦しむのがわかっていたから……。
「その神官は、大神殿に?」
「……ええ、おそらくですが」
そうであればいいと願いながら、ミルファは答える。大神殿でなくてもいい、いっそ二度と会える事がなくても構わない。
何処かで無事にいてくれるのであれば。
本来の持ち主以外が聖晶を持つという事実と、それが意味する事を知らないルウェンは微笑ましそうな笑顔で、きっとまた会えますよと言ってくれるけれど。
ミルファはただ曖昧に頷く事しか出来なかった。