第四章 呪術師ザルーム(2)
「──ッ」
声にならない悲鳴を上げて、ミルファは目を覚ました。一瞬、自分が何処にいるのかわからず、呆然と天井を見上げながら荒い呼吸を繰り返す。
(夢……?)
じっとりと嫌な汗を手で拭いながら、ミルファはそろそろと身体を起こし、周囲を見回した。
質素な、必要最小限のものしか置かれていない部屋。それがパリルの宿の一室である事を思い出し、ミルファは深く息を吐き出した。
(今のは……、何……)
夢を思い返してみる。闇の中で聞こえた声と床に倒れていた姿は、確かに彼女が今も会いたいと切望する人物のものだった。
「……ケアン」
冗談ではないと思う。あれではまるで──まるで、彼が死んでしまったかのようではないか。
はっと気付き、慌てて首から下げた鎖を引き上げる。そこに下がった聖晶は微かに光を帯びて、空の色を保っていた。思わずほっと吐息をつく。
──これでもし、その輝きが失われていたら。
そんな事は恐ろしくて、想像するのも嫌だ。だが、今見たのが単なる夢だと片付ける事も出来なかった。
何故なら夢に出てきたあの廃屋を、ミルファは知っているからだ。あれはそう──ザルームと初めて会い、そして主従の誓いを交わした場所だった。
(どういう事……?)
目を覚ました時、あの場にはザルームしかいなかったはず。そもそも隠れる場所すらなかった。けれど、思えば不思議ではあるのだ。
あの廃屋で目を覚ますまで、ミルファの中に明確な記憶はない。
かろうじて記憶に残っている断片を信じるなら、確かに皇帝乱心時には帝宮の南の離宮にいたはずだ。そして、その時の空は晴れていた。まるで血を吸ったようにな赤い月を覚えている。
廃屋で目を覚ました時、外からは酷い風雨の音がした。けれど、記憶に残るその場面では嵐の気配など、何処にもなかった──。
……何かが、おかしい。
もし、今見た夢が──実際にあった出来事だとしたら?
可能性は無ではない。けれどミルファはそれ以上考える事は出来なかった。
ぎゅっと聖晶を握り締め、そんなはずはないと必死に打ち消す。けれど脳裏には、夢に出てきたあの痛ましい姿が刻み込まれ、いつまで経っても消えようとはしなかった。
まるで、それこそが真実なのだと訴えるように。
+ + +
シュッ!!
鋭く空を切る音と共に、首筋へと刃が迫る。
細身の剣である。頑丈さはないが柔軟性があり、破壊力に乏しいがその分鋭利さは通常の剣よりも高い拵えだ。
──自身の現在の愛刀とは全く正反対の性質を持つそれを、ルウェンは難なく受け止めた。
キィンッ……!
小さく火花が散る。
だが、打ち込んできた相手──ミルファは、すぐさま次の手を仕掛けた。一度離れたと見せかけて、一気に懐に飛び込み、胴を狙う。
一つ一つの動きに無駄がほとんどない。まるで流れるような一連の動作にも見える。それは初心者なら到底出来ない動きだ。
だがそんな動きもルウェンは見越していた。後ろに飛びすざりながらも、突き出された剣を相手の勢いを受け流すようにしてなぎ払う。
──来るとわかっていれば、どんな一撃も対処は難しい事ではない。
ガギッ!
今度は耳障りな鈍い音がして、ミルファの剣は弾き飛ばされていた。
さわ、と西領特有の穏やかな風が吹き抜ける。それを切っ掛けに、ミルファはふ、とため息のような吐息をついた。
「──参りました」
剣を弾いたルウェンの剣は、刃を薙ぎ払うのみならず、そのまま逆にミルファの首元を捕えている。
もしそのまま突き進んでいたら──あるいはルウェンが刃を止める意志がなかったら、おそらく首がなかったに違いない。
ミルファは地面に転がった剣を拾い上げ、一度剣を鞘に収めた。
「流石に簡単には行きませんね」
一連の動きで乱れた呼吸を整えつつの苦笑混じりの言葉に、倣うようにすっかり手に馴染んだ大剣を鞘に収めながらルウェンは軽く肩を竦める。
「仮にも剣を預けた騎士が、その主から簡単に一本取られる訳には行きません。それじゃ、何の為の騎士だかわからないでしょう?」
そう言いつつも、ルウェンはミルファに対する認識を少し改めていた。
(──いい太刀筋をしている)
護身程度という話だったし、何より守られて当然の皇女である。
いくら細身でも真剣ならば相応に重さはある。剣に振り回されるのがオチでは、と密かに心配していたのだが、それは杞憂に終わり、蓋を開けてみればミルファは持久力こそ流石にないものの、剣の使い方だけを見れば一般の兵士と遜色ない実力を有していた。
剣に振り回されないだけの基本はきっちり出来ているし、何より状況判断能力と自己分析能力が並ではない。
ある状況で自分がどこまでの力を発揮できるか認識し、その上で相手の能力を自分と比較し、適した攻撃を考え、無駄な攻撃は仕掛けずに必要最小限の動きで最大の効果を得ようとする。
本人にその自覚があるのかは不明だが、普通は実際の戦闘経験を重ねる内にそうした判断力が身に着くものだ。さらに実戦経験がほとんどない事を考えると、単なる努力の結果とは思えなかった。
(俺とは正反対のタイプだな)
ルウェンはその場その場の状況で変則的に行動を変える、どちらかと言えば感性で動くタイプだ。対してミルファは状況を冷静に分析し、それに基づいて行動するタイプと言える。
おそらく性格や生活環境の影響もあるだろう。ミルファの立場を考えれば、行動が自ずとそうなるのも頷ける。面白い、と不謹慎ながらルウェンは思った。
実際の所、剣に限らず人に教える事などした事がなく、引き受けたものの果たしてうまくやれるかと思っていたのがこれなら何とかなりそうだ。
「南領では、どうやって剣を学んだんですか?」
動きを見るに独学ではないだろう。そう判断しての問いかけに、ミルファは肩にかかった髪を背に払いながら、叔父に、と答えた。
「叔父というと……、南領主様にですか」
予想外の答えに、ルウェンは思わず目を丸くする。
普通、姪が剣を学びたいなどと言い出したら反対するものではないだろうか。しかも、皇女である。ただでさえ女性が剣を持つなどまだまだ珍しく、同時に学びたいという女性も数少ない。
そんな考えが読み取れたのか、ミルファは微苦笑を口元に浮かべ、更に付け加えた。
「普通の兵士に任せても、遠慮したり怪我をさせる事を恐れて、私が望むような指導は得られないだろう、と。叔父は剣を嗜む方でしたから、自ら指導してくれたのです」
「へえ……。こういうと失礼に当たるかもしれませんが……、そんな風には見えない方でしたが」
直接会話を交わした事も数える程だったが、南領主ジュール=アッダ=カドゥリールの姪を見つめる穏やかな目を思い出し、ルウェンはその意外性に思わず嘆息した。
「そうですね。でも南領は、昔から武官を多く輩出して来た土地柄で、今でも剣を学ぶ事は積極的なのですよ」
「あ、そういやそんな話を聞いた事がありますね」
今でこそ剣を振るう機会があるが、皇帝が乱心するまでは本当に大きな争い事のない平和な時代が長く続いていた。
結果としてルウェンのような武官は、剣を扱う技量を求められこそすれ、実際に使う事は非常に稀だった程だ。
だが、遠い昔──まだ、世界が皇帝によって治められていなかった頃は、多くの国々が凌ぎを削りあい、国の内でも外でも戦火の絶える事のない乱世だったらしい。そんな乱れた世界を平定したのが、現在の皇帝の先祖である初代皇帝である。
その傍らに常に控え、ある時は盾に、ある時は剣となって助けたとされる人物が、平定後に任された土地が南領だという話をルウェンも寝物語に聞いた覚えがあった。
故に南領は多く兵士を輩出する土地になった、と。
騎士が剣を預ける際に述べる口上も、その人物──剣聖ナイル=リイラ=シルヴァスタが初代皇帝に奏上した言葉が元になったものだと言われている程で、少なくとも剣を扱う人間でその名を知らない者はいないだろう。
初代皇帝の名は残っていないのに、彼の名は今も語り継がれるのは、それだけの働きをしたからだ。
ナイルが南領の始祖という事は、その伝説の騎士の直系がジュールであり、その血をミルファもまた継いでいる訳で──。
(うわー……、なんかすごくないか、それ)
彼とて幼少の頃はナイルの物語に憧れを抱いた口である。その裔が目の前にいて、しかも自分が剣の手ほどきをしているのだ。何となく、柄にもなく少し感動を覚えてしまう。
その感動に水を差すように、ミルファが再び剣の柄に手を向けて構えた。
「それではそろそろ、また始めましょうか」
確かに無駄話をして時間を潰すのは程ほどにしておかねばならない。ミルファもルウェンも暇な訳ではないのだから。
彼等がいるのは、先日魔物によって滅ぼされた街パリル。
大部分が廃墟となってしまったそこを、再び人が暮らせる状態に復旧する事をミルファは決め、現在その作業中なのだ。
焼けて朽ち果てた街には、多くの人間の亡骸がそのままになっていた。見るのも無残なそれらを一所に集め、丁重に葬る。これは生き延びたパリルの人々も自ら手伝った。
滅んでしまってもそこが彼等の故郷に変わりはなく、再びそこを復興したいと望む者も多かった。また彼等に他に行き場がないのも事実だ。いつまでも地方神殿に身を寄せる訳には行かない。
そこでミルファは出来る限りの事を反乱軍でやろうと取り決めたのだ。
瓦礫を撤去するだけでも数日かかり、反乱軍はそのままパリルの比較的被害がなかった区画に滞在する形となり、多くの人々が難色を示す中、ミルファもここに留まっていた。
力仕事では役に立たず、しかも命を狙われている状態で何が出来るのかと周囲は考えたようだが、ミルファはその才能をいかんなく発揮して彼等を唸らせた。
壊滅したパリルの街をいくつかの区画に分け、その被害状況で優先順位を決定し、兵士達に指示したのだ。
手当たり次第にやっていたのでは埒が開かない程にひどい状況だったが、必要最小限の場所に労働力を集中させれば、早くしかも確実に復旧する事が出来ると考えた結果だった。
全てをやる必要はない。パリルの生き残りで出来る事は残し、彼らだけでは不可能な部分だけを手助けする。そうした結果、壊滅から半月が過ぎる今、まだまだ爪痕は残っているものの、重傷者以外は神殿からここへ戻って来れる程になっていた。
そんな作業の合間での剣の稽古である。ミルファが時間を惜しむのも無理はない。だが──。
「……今日は、この辺にしましょう」
「え?」
突然のルウェンの言葉に、ミルファは軽く目を見開いた。