第四章 呪術師ザルーム(1)
見上げた空に浮かぶのは、青褪めた月。
星一つない空に君臨するその姿は、今にも消えうせてしまいそうな儚さだ。
天を覆う、濃い灰色の分厚い雲。何層にも重なり合うそれは、さらに月の輪郭を曖昧にし、その光を散らし、周囲の闇を深めている。
それはついこの間見た夜空とは余りにも違っていて、かえって現実感を呼び起こした。
──ここが、自分の居るべき場所なのだ、と。
彼は小さくため息をついた。羨望ではなく、淋しさの混じったそれを耳をする者は誰もいない。そう、……誰、一人。
その現実は認識する度に彼を打ちのめし、やり場のない感情ばかりが胸に蟠る。
一度与えられる温もりを知ってしまったからこそ、喪失感は深い。叫びだしたいような感情を持て余しながら、焦る必要はないといつものように自分に言い聞かせた。
(そうだ……、まだ終わっていない。何一つ)
全てが奪われた訳ではない。全ての手段が失われた訳でもなく、希望もある。
取り戻せないものがあるのは事実だが、失われたいくつかはこれから取り戻せるはずだ。そう――どんな手段を使っても。
『──我が主に、玉座を』
あの神官の少年が、命を代償に『闇の王』を呼び出した、あの、瞬間。
運命は、彼に味方した。
偶然と言われれば、確かにそうかもしれない。けれど、絶望の中にいた彼には、そうとしか思えなかった。
もちろん、それでも道は容易なものではない。たとえるならそれは、暗闇に差し込んだ一筋の光のようなものでしかない。
見失えば二度と見つからないようなものに過ぎないが、それでも僅かなりにも可能性が生まれた事は何よりの僥倖だった。
(諦めて、堪るか)
一体何度、その言葉を心に刻みつけただろう。
状況を打開する方法が見つかった今、なりふりなど構ってはいられない。利用できるものは利用する。それが何であろうと──。
……──ズ、ォオオオォォ……
その時、不意に地響きと共にぐらりと大きく大地が傾いだ。
それはすぐに治まるが、大気を通じて周囲の動揺が伝わって来る。直に彼の元にも、状況を報告する為に人がやって来る事だろう。
日に日に増す地震。晴れる事のない雲。影響は静かに、けれど確実に出始めている。
人々が不安に感じるのも無理はなく、実際これが異常事態である事を彼は知っていた。その切っ掛けが──少なからず自分にある事も。
それでも彼は真実を告げず、ただ人々を根拠のない言葉で安心させる事しかしない。真実を知れば、人々が恐慌状態に陥るのは目に見えて明らかだからだ。
そうでなくても言えるはずがない。この地震が、世界が滅びつつある前兆だなどと──。
(……だから、『王』になんてなるつもりはなかったんだけどな)
自分の無力さに薄く唇を噛み締める。その道を選ばなければ、もしかしたらこんな事にはならなかったかもしれない。
それでもその道を選んでしまった以上、『王』として生きてゆくしかない。第一、その事に対しての後悔はないのだから。
足掻く事を諦め、受け入れる事で得られたであろうものより、自身が選び、求めた事で得たものの方が、彼にとっては大きくかった。
少なくとも──滅びてしまえばいいと願い続けていたにも関わらず、実際に滅びゆく事態になった際にこの世界を存続させたいと願う程には。
『あなたなら、やれます。あなたがいつだって、頑張っていた事を知っています。……わたし、ずっと、見ていましたから。知っているでしょう?』
心がくじけそうになった時、いつもその言葉が耳に甦る。何処か拙い、たどたどしい言葉。けれど……、だからこそ偽りのない心からの言葉だと信じられた。
誰からも『役立たず』『出来損い』と後ろ指を差され、陰口を叩かれ、『お飾り』である事を強要されて──それまで信じていた人間すら、信じる事が出来なかった時に貰った、言葉。
ずっと欲しいと願っていて、それまで誰も与えてはくれなかったそれを与えてくれたのは、どんなに邪険にしても離れる事なくずっと側に居てくれていた人だった。
その時に知ったのだ。ありのままの己を受け入れてくれる存在がいる事のありがたさと喜びを。そしてどんなに自分が、己ばかりが不幸だと思い込んでいたのかを。
「失敗はしない……」
黄金の瞳に決意を宿らせ、彼は低く呟く。
(必ず、この賭けに勝ってみせる)
その為に、出来る範囲でいくつか布石は打った。
『敵』は正攻法で勝てる相手ではない。少しずつ、焦らずに──自分を見失う事なく追い詰めなければ。そうしなければ、今度こそ何もかもが終わる。
順調に計画が進む中、一つだけ不安要素があった。ふと思い浮かんだローブ姿に危惧を抱く。
(ザルームの奴、かなり侵食されてきていたな。あれだけの術を使えば当たり前だけど──)
以前の忠告を守って呪法こそ使わなかったが、今度は大掛かりな召喚型呪術を使っていた。これでは一体、何の為に『契約』で縛ったのかわかったものではない。
(あの状態じゃ……いつかは本当に──)
再び彼はため息をつく。
きっと本人もそれはわかっているに違いない。わかっていて、それでも契約を超える術を使うのをやめはしないだろう。
自分の命すら投げ出して、術を使ってしまうのだろう──ミルファの為に。
ばかだと思う。いくら尽くした所で、おそらく報われる事はないのに。
けれど彼は愚かだと思いながらも、その行いを強制的に止めたりはしない。それは自分自身もまた、ザルームと大して変わらない『ばか』だと自覚しているからだ。
「まだ、消えるには早い」
届かないとわかっていながらも彼は呟く。
「まだ……、これからだろう?」
そう、勝負はここからなのだ。ザルームは契約を果たす為に。自分は……、取り戻す為に。
遠くで彼を呼ぶ声がする。先程の地震の件だろう。
彼は一度思いを込めて月を見つめると、今度はどう言って人々を宥めようかと考えながら、人気のない廊下を歩き始めた。
+ + +
(──暗い……)
何かの音が聞こえてくる。水音──雨が降っているのか。大地を激しく打ち付ける音がすぐ近くから聞こえてくる。風も悲鳴のような音を上げ、まるで嵐のようだ。
周囲はまるで目隠しをしたような闇。
夜だとしてもここまで真っ暗など有り得ない。何故かと考えて、ああそうかと納得する。
目を、閉じているからだ。
まるで頭の中だけが目を覚ましているような、そんな感覚。身体だけが外の音を余所に眠っている。これだけうるさいのに目を覚まさないなんて、少し問題がある気がしないでもない。何となく、呑気に寝ている場合ではない気がするのに──。
「……ミルファ……」
不意に聞こえてきた呼びかけるような声に、思考が途切れる。
(この、声は……)
久し振りに耳にした声だった。
そう言えば、ここ数月ばかり彼の夢を見ていない。だが懐かしさよりも先に、何故か強い違和感を感じた。
チャリ、と小さく金属の立てる音。目の前に人がいる気配。
そこに、彼がいるのだろうか。確かめたいと思うけれど、どんなに願っても身体は言う事を聞かず、目は開かない。
「……感傷、かな」
やがて再び聞こえた声は、自嘲するようなもので。何故だか不吉な予感を感じて、キリ、と胸の奥が痛んだ。
(これは──夢、なの……?)
そう思いつつも、心の何処かが否定している。これはただの夢ではない、と。
「……ッ!」
一体何があったのか、まるで痛みを耐えるような息を詰める声がして。彼は何処かで耳にしたような、言葉の羅列を紡ぎだす。
「……メイ……カリェン……ダルーナ・マティオス……」
(……呪術……?)
その響きは己に使える呪術師の、陰鬱な声で紡がれる古い言葉を思い出させる。しかし、すぐにミルファは自分の認識を否定した。
そんなはずはない──そう思う一方で、その否定が何の根拠もないものである事を認識している。自分が今まで考えた事もなかっただけで、彼が『そう』である可能性は無ではないのだ──。
耳朶に届く震える声は、果たして苦痛に耐えるものなのか、それとも別に理由があるのか。もどかしい思いで必死に目を開こうとする。
早く──早く目を開かなければ。そんな強い焦燥感に支配される。そうしなければ、何かとても大切なものが失われてしまう、そんな気がしてならなかった。
「グリナ……ラーナ・セルヴ……──」
けれど、やはり目は開いてくれない。
(どうして……? 私の身体でしょう! 言う事を聞きなさい……、目を開くの、開きなさい!!)
焦燥感はやがて恐怖に変わる。
(早く……止めないと──!)
目が開かないのなら、せめて声だけでもと思うのに、咽喉も凍りついたように意識の命令に従わない。
そして──その願いを他所に、最後の言葉が紡がれる。
「……カリェン・イ・ウェルシュ・ムーザ……イスト・ケルプ・ラーナ・ソアラ!!」
まるで何かを断ち切るように口早に言葉が紡がれた瞬間、ざわり、と悪寒が走った。同時に感じたのは、間に合わなかった、という絶望感。
キィキィ、と動物が鳴くような耳障りな声がして、彼は思いもしなかった一言を口にした。
「──我が主に、玉座を」
瞬間、意識が途切れる。
そして次の瞬間、唐突に周囲の様子が目に入った。あれ程頑なに開かなかった目が、嘘のように周囲を映している。
まず目に入ったのは薄暗い──今にも崩れ落ちそうな廃屋。そして──。
(……嘘……)
目の前に、誰かが倒れていた。
白い、服。濡れそぼって土で汚れているものの、見覚えのあるそれが何を職業とする者が身に着けるものかわからないはずがない。
力なく幾分不自然な体勢で倒れたその人物の首の辺りが、黒く染まっていた。
否──黒ではない。闇に漂う、何処か鉄錆びたような匂いは、それが実際には何の色をしているのかミルファに教えた。
じわじわと、白い服が染まってゆく──生命の色に。思わず目を反らし、視線を落としたミルファは自分の膝の上に置かれた物を見つけて硬直する。
(これ……)
それは持ち主の身を、命の危険から守るはずのもの。そこにあってはならないはずのものなのに。
(聖……晶……──)
微かに光を帯びていたその空色の石は、ミルファが見守る中で急速にその色と光を失ってゆく。まるで、その持ち主の命数が尽きて行く事を示すように。
(あ……あ、ああ……!)
胸の奥から、何かがこみ上げてくる。やがてそれは凍りついた咽喉を溶かし、形となった。
「……っ、いやああああああああ!!!」