第三章 聖女ティレーマ(27)
「お陰で予定より早く終わりました。ありがとうございます」
結局パン生地のみならず、その他諸々の作業を手伝う羽目になったルウェンに、ティレーマは労いの言葉をかける。
怒涛の食事の準備が終わり、二人は別室で向かい合ってようやく話し合う体勢を取っていた。
「いえ、こちらも非常に貴重な体験をさせて頂きましたよ」
と、生真面目に受け答えつつも、ルウェンは疲れた笑顔を浮かべた。
「おそらくティレーマ殿下手ずからパン生地の練り方を習った兵士など、他にはいないでしょうからね」
そして同時に粉からパンの焼ける皇女というのも他にはいないに違いない。言外にその意図を汲み取ったのか、ティレーマは苦笑を浮かべた。
「……あの、わたくしを『殿下』と呼ぶのは、やめて頂けますか」
「はい?」
「わたくしは皇女である前に神官として生きて参りました。ですから今更皇女として扱われても、何だか居心地が悪いのです。……わたくしの事はただ『ティレーマ』と呼んで頂いて構いませんから」
「え、いや……ですがそれはちょっと……」
言わんとする所は理解出来るし、その気持ちもわからないではなかったものの、そうは言われても、である。いくら本人が望んでいようと、皇女でありしかも剣の主であるミルファの姉であるティレーマを呼び捨てになど出来るはずもない。
心底困り果てて返す言葉に悩むルウェンに、ティレーマも困ったような微笑を浮かべた。
「ごめんなさい……、困らせてしまいましたね。やはり我が侭ですよね。強要したい訳ではないんです。ただ、気になってしまって」
「はあ……」
取り合えず、『殿下』という尊称はつけない方がいいらしいと判断し、ルウェンは早速本題に入る事にした。
「──それではティレーマ様、本題に入っても宜しいですか?」
「はい。……ミルファは、何と?」
ルウェンはティレーマにミルファから託された言葉を伝えた。
会って話したい事、神殿側に気遣いをかけたくないので、出来ればこちらに出向いて欲しい事──。ティレーマは静かな表情でルウェンの言葉に耳を傾けた。
「……ミルファは、わたくしと会う事を望んでくれているのですね」
何処かほっとした様子で呟くと、ティレーマはルウェンに頷いた。そしてまだ蒼白さの残る顔に笑みを浮かべる。
「わたくしもこれ以上、この神殿を騒がせる事はしたくありませんし、ミルファの元に行くのに異存はありません」
その瞳に浮かぶ明確な意志を確認し、ルウェンは立ち上がるとその手を差し伸べた。
「ありがとうございます。では、ご案内しますので御足労願います」
自分に向かって差し伸べられるルウェンの手に、ティレーマはきょとんと不思議そうな顔を見せた。
まじまじとルウェンの手と顔を交互に見つめる様子に、ルウェンは内心ため息をつきつつ、ずばりと言い放つ。
主位神官から話を聞いていなくても、しばらく様子を見ていればティレーマの状態などお見通しだ。
「立って歩くのがやっとでしょう?」
「……!!」
図星を指されてか、ティレーマの白い顔は一瞬で朱に染まった。
育ちが違うとこうも違うのかと思える程、ミルファとティレーマは外見的なイメージや雰囲気は、実に正反対だ。だが、この短い時間でルウェンは二人に明らかに共通している部分を見つけていた。
「自分で歩けます……!」
「そうですか? ここからそれなりに離れていますし、無理はなさらない方がいいですよ」
「大丈夫です。これでも、長く歩く事には慣れてますから」
「……じゃあ、もし途中で歩けなくなったり倒れたりしたら、問答無用で抱きかかえて運ばせて頂きますが、それでも構わないですね」
「──……ッ」
益々赤くなる顔に口惜しそうな表情を浮かべると、ティレーマは仕方なさそうにその白い手をルウェンに預けて立ち上がる。その手を澄ました顔で受けながら、ルウェンは心の中で一人ごちた。
(……本当に二人揃って、痩せ我慢し過ぎだよなあ)
苦しくても自分の中に抱え込んで決して弱音を吐こうとしないその精神は立派だが、傍で見ている身にもなって欲しいものだと思う。時には支える手を求めたって罰は当たらないだろうに。
ミルファもティレーマも、その辺りがあまりにも似すぎている。
だが、おそらく『頑張りすぎるな』と言った所で逆効果に違いない。だから敢えてルウェンは焚きつけるような物言いをした。
「辛かったら遠慮なく言って下さい。抱えて運ばれるのがお嫌なら背負いますので」
「……!? そちらの方が恥ずかしいではないですか! 大丈夫です、歩けますから!!」
「そうですか……。それは残念です」
大仰に肩を竦めて見せると、ティレーマは赤い顔のままぼそりと呟く。
「……ルウェンさん、でしたか。あなた、結構いい性格をしていますね」
その口調が心底口惜しそうだったのでルウェンは思わず素の表情──まるで悪戯が成功した子供のような顔──になって答えていた。
「ええ、よく言われます」
+ + +
ミルファとティレーマの対面はその日の内に行われた。お互いに疲労は隠せなかったが、二人が二人ともすぐに会う事を望んだ為だ。
直接顔を合わせるのは十五年振りながら、互いに向き合った二人に涙の気配は一切なかった。
部屋に入りミルファを見た瞬間こそ驚いたような顔を見せたものの、二人きりになるや否や、ティレーマは迎えたミルファを見据え、厳しい口調で問いかけたのだ。
「……姉として問います。ミルファ、あなたは──本気で実の父を討つ気ですか?」
全く似ていない姉を真っ直ぐに見返し、ミルファは静かに首肯した。
「はい」
その何処か思い詰めたような瞳をじっと見つめ、ティレーマはそのままミルファの方へと歩み寄った。腕を伸ばせばすぐに触れられる距離から、今度は幾分口調を和らげて言葉をかける。
「それが……、罪だとわかっていても?」
「承知の上です。私は……お父様を討ちます。この手を、血に染めてでも」
しばらく二人は無言で見詰め合った。
まるでお互いの心の内を探り合うかのように、その視線は絡み合ったまま、どちらも反らそうとはしない。
──しばしの沈黙。
やがてそれを先に破ったのは、ティレーマだった。
「……ばかね……」
口元に浮かんだのは、労わるような微苦笑。……そして。
「……!?」
ぎょっとミルファが目を見開く。それ程に、ティレーマが取った行動はミルファをひどく驚かせた。
柔らかな温もりが自分を包んでいる。姉が自分を抱きしめている為だと理解するのに、しばらく時間がかかった。
「あ、姉上……?」
「……来てくれてありがとう、ミルファ。そしてごめんなさい。……わたくしはあなたを誤解していました」
「誤解……?」
「ええ」
答える声が耳元でしたかと思うと、ティレーマの身体が離れた。僅か上から覗きこむ赤瑪瑙の瞳は、深い慈愛を含み、ミルファを困惑させる。
「あなたの真意が今までずっとわからなかったから……。関係のない人々を巻き込んで、多くの血を流して──自分の命可愛さにそうしているのなら、とても許せないと思っていました。でも……」
直接会ってから交わした言葉はほんの僅か。それでもティレーマはミルファがそんな事を目的として動いている訳ではないと理解出来た。
笑う事も涙も忘れたその顔で、ミルファが内に抱え込んだ痛みや絶望がどれ程深いのか、多少なりとも伝わって来たのだ。
このような表現をするのはミルファに対して失礼かもしれないが……、まるで寄る辺を失った迷い子のようだと思った。
「違うのね。あなたは今でも、お父様を愛しているのね──こんな仕打ちを受けても」
それはきっと、ティレーマ以外の人間が言ったなら、否定したに違いない言葉。そして同じ血を引いているからこそ、出てきた言葉でもあった。
凍りついたような表情のまま、ミルファはまじまじと姉を見つめ──やがて消え入るような声でぽつりと、はい、と呟く。
「──憎めないのです。憎めたら、どんなに楽かと思うのに……憎めない。今でも、まだ心の奥で思っているんです。これはきっと、何かの間違いだって……」
ぽつりぽつりと紡がれるのは、今まで誰にも告げた事のない本心。
けれど同時にそれが夢ではなく現実なのだとも理解している。もはや皇帝がこの世界のあらゆる人から必要とされていない事も──。
「……もう、これ以上お父様に罪を重ねて欲しくない」
だからこそ。
「お父様を討つ事でこれ以上の行いを止める事が出来るのなら……、私は罪人になっても構いません」
血を吐くような告白にティレーマは表情を改める。ミルファの決意の深さに、ティレーマも心を決めていた。
「ミルファ。……わたくしにも、出来る事はありますか?」
宥めるような言葉にミルファはしばらく驚いたように姉の顔を見つめ──やがて縋るような声がミルファの口から漏れた。
「……──見届けて、下さい」
他には何も望まない。ただ、側で見届けて欲しい。自分がこれから歩む道を──。
その願いを受けて、ティレーマは安心させるように頷いた。
「……必ず。約束するわ」
誓うように告げ、もう一度妹の身体をそっと抱き締める。まるで、励ますように。ミルファもまた手を伸ばし、おずおずと姉の身体に手を回す。
──長い事触れる事のなかった人の温もりは、何故だかとても懐かしい感じがした。