第三章 聖女ティレーマ(26)
再び空が茜に染まる頃、皇女ミルファが率いる反乱軍はようやく目的地へと辿り着いた。
──緩やかな丘に囲まれた、古びた地方神殿。
そこは昨夜の出来事などなかったかのように、魔物の大軍が現れた気配は微塵も残っておらず、何も知らない反乱軍の兵士達は何事もなかったのだと認識する程だった。
……事実を知る者はほんの一握り。ミルファと一部の重臣、そして当事者である神殿にいる人々だけだ。
神殿を見下ろす地点で足を止め、ミルファは使いを出す事にした。
皇女である自分が自ら出向こうものなら、必要以上に仰々しいものになりかねない。ミルファ自身は気にせずとも、神殿側に必要のない気遣いをさせるのは目に見えて明らかだった。
しかも今は神殿には寄る辺を失ったパリルの民がいる。彼等を抱えた状態では、神殿側も普段通りに対応出来ないだろう。
出来れば己の目で姉の無事を確かめたい気持ちがあったが、そうした事を考慮し、失礼に当たるとは思いつつも、ティレーマにこちらへ出向いてもらうよう求める事にした。
神殿に向かう人間も、あまり人数を出してもいけないだろうと必要最小限に限り、神殿の状況を確認する者と直接ティレーマに会い、ミルファの言葉を伝える者の数名にした。
「──そんな大役を私などに任せていいんですか?」
その直接会って交渉するという、一番重要とも言える役を任されたルウェンは困惑を隠さずにミルファへ確認した。
ミルファの人選を否定するつもりはないが、いくら剣を預ける騎士でも反乱軍の中では新参者である。ついでに交渉事の経験は当然ながら皆無だ。
「あなただから頼むのです、ルウェン」
だが、対するミルファはそんなルウェンの懸念を晴らすようにあっさりと頷いた。
物心つくかつかないかの頃から一度も顔を合わせていない姉、ティレーマへ自分の言葉を運ぶのに誰が適しているか──考えないはずがない。
「あなたは私が直接取り立てた騎士です。兵士の中では一番私に近い場所にいます。それに……」
「それに?」
「姉上に対して、他の重臣と違って神官である事や皇女である事に偏見はないでしょう?」
「まあ……、神官に関しては偏見を持つほど接点もありませんでしたしね」
ミルファの答えに軽く肩を竦める。確かに他の重臣達は必要以上に敬意を払いそうだ。
今まで『神』とは縁のない生活をして来たし、東の主神殿で世話になった際に、たとえ聖晶を持っているとしても普通の人間と一緒だと理解している。
しかも数年に渡るソーロンとの関わりで、皇子・皇女だから特別という意識も薄かった。敬意は払うが、度を過ぎれば無礼になるという事は知っている。
「わかりました。何とかうまく言って、聖女ティレーマをこちらまでお連れしますよ」
ルウェンが少し茶化した口調で引き受けると、ミルファはほっとしたように表情を微かに緩めた。
「ありがとう。……頼みます」
「剣を預ける騎士として、剣の主の頼みを聞くのは当然ですよ。……ですが、念の為に聞いていいですか?」
「何です?」
「もし、聖女ティレーマが同行を拒否なさったらどうなさいます」
それは可能性としては十分考えられる事だ。すでに考えを固めていたミルファは、その問いかけに当然のように答えた。
「その時は私から会いに行きます。……夜陰に乗じて、忍び込んででも」
その些か皇女らしからぬ発言に、ルウェンは一瞬目を丸くし──次の瞬間破顔した。ミルファの見せた意外な一面に驚くと同時に愉快な気持ちになる。
「なるほど……、ミルファ様の決意の程は理解しました」
そして目元に共犯者の笑みを浮かべると、小声で付け加える。
「その際はこのルウェン、微力ながらお手伝いいたしますよ。実行に移される時は、是非お声を」
+ + +
神殿に赴いたルウェンを含む数名は、すぐに主位神官の私室へと通された。
本来ならば相応の部屋でそれなりの手順をもって対話が行われるはずなのだが、そこも普段は使われない部屋という理由からパリルの民に解放しており、手順を踏むにも人手も時間も足りないと判断された為だ。
ティレーマの体調不良を理由に、面会を渋る主位神官とのやり取りの後、何とか対面の許可を得たルウェンは、神官の一人に伴われてティレーマの元へと案内された。
連れて行かれた先はなんと厨房で、しかもティレーマは腕まくりをし、一気に食い扶持が増えた結果、今まで以上の量が必要となった食事の準備を手伝っている最中だった。
──仮にも皇女であり、しかも聖女と呼ばれる人物である。
そのような肉体労働に従事しているとはまったく想像もしていなかった為、ルウェンは最初そこにいるのが目的とする人物だと気付かなかった。伴った神官が声をかけ、その声に手を止めてこちらを振り返った事でようやく認識する有様だ。
それ程、ティレーマはその場に馴染みきっていた。
「……何か?」
見るからに神殿の人間でも、パリルの民でもないとわかるルウェンに気付き、ティレーマは困惑を隠さずに声をかけた神官へ答える。
初めてティレーマと対面したルウェンの感想はと言えば、『もったいない』の一言だった。
神官という立場もあり、化粧気一つないものの、その美貌はまったく損なわれてはいない。主位神官の言葉通りまだ本調子ではないらしく顔色は良くないが、結果としてそれはティレーマをより儚げに見せていた。
──おそらく恋愛事が御法度の神官でなく今のような混乱時でなければ、多くの求婚を受け、今頃はとっくに何処かへ嫁いでいたに違いない。
だが、当然ながらそんな事を面と向かって言えるはずもなく。
最初の感想は横に置いて、どう説明すべきかと言い淀む神官に先んじてその場に膝をつくと、『皇女』に対する礼を取る。
長らく神官として生きてきたティレーマにとっては仰々しいの一言に尽きる態度かもしれないが、今のルウェンは一兵士ではなく皇女ミルファの名代だ。
あえてそうする事で、ルウェンの身上を語らずとも伝える事が出来ると判断した結果だった。
「お初にお目にかかります、ティレーマ皇女殿下。私はルウェン・アイル・バルザーク……皇女ミルファ様に剣を捧げる者です」
その口上に目に見えてティレーマの表情が変わる。そしてその赤瑪瑙の瞳が、真っ直ぐにルウェンへと向けられた。まるでルウェンの本心を推し量ろうとするかのように。
ミルファの時も思ったが、ティレーマは外見的には全くソーロンにもミルファにも似ていなかった。血が繋がっている事が不思議な程に、外見的な共通点はない。
なのに、そういう目は不思議とルウェンの知る二人を彷彿とさせた。
「ミルファの……」
ぽつりと呟き、ティレーマは居住まいを正した。
まだ袖は折り曲げたままで、手は粉で白く汚れていたものの、それだけで何処か無防備にも思えたティレーマを包む空気がピンと張り詰めたようなものへと変わる。
──そこにいるのは一介の神官ではなく、正に皇帝の血を引く皇女だった。
「ご丁寧な挨拶、ありがとうございます。どうぞお立ち下さい。申し訳ないのですが見ての通り、少し手が離せない状態です。しばらくお待ち頂けますか?」
言われるまでもなく邪魔をするつもりは毛頭もない。ルウェンは立ち上がると頷いて同意を示した。
「構いません。いくらでもお待ちしますよ。……何ならお手伝いしますが?」
思いついたように付け加えられたルウェンの言葉に、ティレーマは虚を突かれたように目を丸くする。
よもやミルファからの使者が、そんな事を言うとは思いもしなかったのだろう。やがてその表情が微かに和らぎ、苦笑混じりの答えが返る。
「いくら何でも、皇女に仕える騎士様にそのような事はさせられません。お気持ちだけ、受け取らせて頂きます」
その台詞だけ見ると、それはこちらの台詞だといくらでも突っ込める発言だったが、今までそうした生活がティレーマにとっては『当たり前』だったのだと理解し、ルウェンは軽く肩を竦めるだけに留めた。
「そうですか? まあ……、生まれてこの方、一度もパンの生地など練った事はありませんからね。確かに下手に手伝うと逆に足を引っ張りそうです」
別段茶化すつもりもなく思った通りの事を口にしたのだが、ティレーマはその言葉に小さく笑いを漏らした。いつの間にかティレーマの周囲にあった、何処か張り詰めたような空気が消えている。
そうした意図はなかったのだが、ルウェンに対する警戒が解けたのだろうか。
笑われるような事を言っただろうかと内心首を傾げていると、ティレーマは悪戯っぽい笑みを口元に浮かべて言った。
「特別、難しい事ではありませんよ。……やってみますか?」
その後、触り慣れないパン生地を前に、聖女ティレーマの指示の元、四苦八苦する騎士の姿が見られたという──。