第三章 聖女ティレーマ(25)
ミルファの元にザルームが戻ったのは、目的とする地方神殿まであと半日程の地点だった。
見通しの良い緩やかな丘陵地帯であった事と、休息を最小限にして先を急いだ結果、夜が明ける頃には予定していた地点よりも先にミルファ率いる反乱軍はいた。
白々と明けてゆく東の空に、多くの人間が安堵の息をついたに違いない。彼等は本能的に魔物の出現と夜の関係を感じ取っていた。
そこに至るまでの道中はそれまでに比べれば平穏そのものと言えただろう。
やはり出現した時と同様、空に現れた第二の月が不意に消え去った時は、当然ながら多少の動揺が走った。幻で片付けるには、余りにも事は大き過ぎたのだ。
何しろ、その場にいる全ての人間がそれを目撃している。
だがそれが何であるかを説明出来る人間はそこに一人もおらず、第二の月が出た事で何らかの異変が起きた訳でもない。
出現を目の当たりにした時よりは彼等は冷静だった。少々足取りは鈍ったが、それでも立ち止まりはせずに先を目指し、夜が明けた事を切っ掛けにミルファは最後の休息を告げた。
油断は出来ないが、魔物出現を警戒してずっと精神を張り詰めていた事もあり、疲労は相当のものになっている。神殿の様子が気にかかったが、疲れを引き摺っていてもいい事など一つもない。
その休息の最中に、ミルファは慣れた気配を感じ取った。
「ザルーム……?」
ふと零れ落ちたその呟きを聞き取り、魔物の来襲以来、側に控えていたルウェンは片眉を持ち上げた。
ザルームが不在である事とその理由はすでにミルファの口から聞いていたものの、随分と遅い帰還だと思う。まだザルームに対する蟠りを抱えたままである事も、彼の行動に対する不審を招いているに違いない。
ルウェンは無意識の内にいつでも抜刀出来るように、剣の柄に片手を伸ばしていた。
「──遅くなりまして、申し訳ございません……」
そんな声と共にミルファとルウェンの前に、ローブ姿の人物が姿を現す。
何度か目にしたとはいえ、ミルファ程にはその出現の様に慣れていない。やはり奇異な感覚は否めず、ルウェンは軽く目を見開いた──が、ふと眉根を寄せた。
一瞬、ほんの微かにだが、鼻腔をあるにおいが掠めたのだ。
(……血……?)
戦場にあればさほど珍しくもないが、身近に大きな怪我人がいない今、異質と言えば異質なにおいだ。
そんなルウェンの困惑に気付いているのかいないのか、ザルームはミルファの前で居住まいを正すと礼を取る。
「長くお側を離れましたこと、詫びる言葉もございません……」
陰気な声音は常と変わらない。もしや怪我でもしたのかと思ったが、赤黒いローブには破れたり裂かれたような様子もないようだ。
気のせいかと思いながらその姿を眺めていたルウェンの目は、ふと一点で止まった。
──彼の控える位置だと、丁度身体の影になる左袖。その先が他よりも一段色が暗くなっている……ような。
まだ完全に夜が明けきれていない事もあり、周囲は薄暗い。しかし、はっきりとは断言こそ出来ないものの、ルウェンはそこが先程の血のにおいの元だと直感した。
ミルファはそれに気付かなかったらしく、代わりに一度だけちらりとルウェンに視線を向けた。
人払いすべきかどうか悩んだのかもしれないが、それは一瞬の事だった。すぐにザルームに目を戻すと、そのまま問いかける。
「様子を見てくるように頼んだのは私です、気にする必要はありません。……神殿に何か変わった事は?」
対するザルームもルウェンがその場にいる事に関して問題を感じなかったのか、そのままの姿勢でその問いへ答えた。
「──魔物が現れました」
「……っ」
その答えは半ば予測していたものだった。一瞬息を飲んだ後、詳細は問わずにミルファは最も気にかかっていた事を口にする。
「姉上は……ご無事ですか」
「はい。詳しい状態まではわかりかねますが……、ご存命なのは確かです」
「そう……」
大丈夫だと思ってはいたが、こうして誰かに言葉で保障されると重みが違う。ほっと、無意識に肩から力が抜けた。
もちろん、実際に無事をこの目で確かめるまでは安心するのは早いとわかっている。だが、ぎりぎりまで張り詰めていた緊張が緩むのはどうしようもない。
ティレーマの無事の知らせとザルームの帰還により、ミルファはようやく心の安定を取り戻した気がした。
さらに続けて質問を口にしようとして──ミルファは思い直し、別の言葉を口にした。
「……まだ聞きたい事もありますが、あなたも疲れている事でしょう。まずは身体を休めなさい」
聞きたい事は本当にいくつもある。
神殿を襲った魔物達の事や、あの蒼い月の事、帰還が遅くなった理由。そして──ザルームをよく知ると言った、あの男との関係……。
だが、ルウェンという第三者のいる場で問い質す事は躊躇われた。
予感がするのだ。ザルームがどう答えたとしても、自分の心が動揺する気がしてならない。……出来れば、そのような己の弱さを誰にも晒したくはなかった。
そんなミルファの心情を理解してか、ザルームはミルファのその言葉に何も言わなかった。そのまま再び頭を垂れ、ぼそりと退出する意を告げるとそのまま姿を消そうとする。
「──ザルーム殿」
それまで沈黙を守って控えていたルウェンは、そこですかさず声をかけた。
「ルウェン?」
何事かと声をかけるミルファに視線だけで応えると、ルウェンは口を開く。
「ザルーム殿に一つ尋ねたい事があるのです。……後ほどそちらに伺っても?」
実際にはルウェンもザルームに対して、一つどころではない疑問を抱えていたが、ミルファの前である事を考え、具体的な事は避けて来訪の意だけを告げる。
「──ええ、構いません。お待ちしております」
ザルームはその意図を推し量るかのように僅かに沈黙したものの、結局ルウェンの言葉を受け入れた。
そして再度ミルファに向かって礼を取ると、今度こそ姿を消す。それを見届けると、ルウェンはミルファに顔を向けた。
「では私も一度下がらせて頂きます。ザルーム殿も戻られたようですしね」
「ええ。十分とは言えないと思うけれど、今の内に身体を休めて下さい」
「……それはこちらの台詞ですよ」
肉体的な疲労だけばかりでなく、これだけの軍勢をまとめて動かすという精神的な疲労がミルファの身体を苛んでいるのは間違いなかった。
にもかかわらず、決して弱音を吐こうとはしないミルファに、ルウェンは思わず苦笑を浮かべる。
──そこまで全てを一人で背負い込まなくても良いのに、と。
けれど己の弱さから逃げようとしないのも、ミルファたる部分である事はルウェンも理解しつつあった。
「それでは失礼します。何かあればすぐお呼び下さい」
そのまま一礼し、ミルファの元を退出する。ザルームに続いてルウェンが立ち去り、一人になったミルファは小さくため息をついた。
一瞬、すぐにザルームを呼ぶべきか悩んだものの、結局は実行には移さずそのままぼんやりと急ごしらえの天幕の天井を見つめる。
少し気が緩んだのかもしれない。何だかとても疲れた気がした。実際、魔物に襲われてから今まで、気が休まる時間など一切なかったし、一人になる事もなかったのだから疲れているのだろう。
今も、本当は気を抜いて良い訳ではない事はわかっている。
魔物だけが敵ではないのだし、『敵』の動きを把握している訳ではない。けれど──。
(良かった……)
ただ、そう思う。
怪我人がいない訳ではないし、状況が好転した訳でもないが、反乱軍の中から死傷者が出ておらず、姉も命を落とさずに済んだという事に安堵する。
そして……、ザルームが無事に戻って来た事にも。
あの蒼い月を見た瞬間に感じた胸騒ぎは、まだ心の底に残っている。月が消えた瞬間は、恐怖に近いものすら感じた。
──もしやこのまま、ザルームは戻って来ないのではないのか。
そんな気がしてならず、殊更に先を急いだ。どんなに自分がザルームに精神的に依存していたかを、思い知らされた瞬間だった。
過去を振り返れば、あの主従の誓いを交わした夜から、こんなにも長い時間、ザルームが自分の側を離れていた事はない。自分もザルームに側を離れる事を自主的に求める事はなかった。
(……私は、何をやっているんだろう……)
信じきれないなどと思いながら、行動はそれを裏切っているではないか。心の底では、信じきっているではないか。
──なのに。
どうして感情はそれを受け入れようとしないのだろう。
どうして、こんなにも人に心を預ける事が怖いのだろう。
それは今まで、幾度も自分に問いかけた疑問。けれど、それに対する納得出来る答えはいつも返ってこない。
……自分の事なのに、わからない。
心の奥を掘り下げようと思っても、途中で手応えがなくなる。恐れが心を支配する。それ以上先を探ってはならないと不自然なくらいに怯える自分がいる。
その先に求めるものがある確信があるのに。
──苦しい。
「……助けて……」
思わず唇から漏れた呟きに、ミルファは自分で驚く。気がつくと、無意識に手は胸元を握り締めていた。まるで、縋るように。
ミルファはそんな自分に呆然となり──やがてその目を閉じた。
……疲れているのだ。だから少しだけ、心が弱くなっている。それだけのこと。
そう、自分に言い聞かせて。
閉じた目蓋の裏に広がるのは、遠い日の春の青空だった。