第三章 聖女ティレーマ(24)
神殿の上空に向かった男は、まず神殿を取り囲む異形の者達を見下ろし、次いでさらに上空にある月へと目を向けた。
(……やるじゃないか)
呪術により現れた第二の月は、まだはっきりとした輪郭を保っている。それは取りも直さず、ザルームの術がそれだけの完成度をもって行使された証だ。力量を疑っていた訳ではないが、素直に感心した。
(──『蝕』の時には及ばないが……これなら確かにまとめて送っても問題ないだろう)
問題ないと判断すると、再び地上に目を戻す。すると、二つ目の月の存在に気付いたのか、魔物達がこちらに目を向けていた。
それもそうだろう。気にならないはずがない。『人』であった頃よりも本能が敏感になっているに違いないのだから。
──第二の月の放つ青褪めた月光は、彼等にとっては一種の毒のようなもの。こちらの太陽の光が、『魔物』にとって狂気を招く毒であるように。
ただし、同じ結果に至る毒でもこちらは苦痛のない死を齎すものだが。
「さあ、聞くがいい。偽りの闇の子よ」
青褪めた月を背に、布の内で黄金の双眸が微かな光を帯びる。それは──この世には在らざる色。
「──ハーレイ・スフィラ・メイ・オルファー・ラーナ・オルディル・イ・エピレ・テア・ディアス」
紡がれる言葉は、空間を捻じ曲げ望むものを転移させる呪術を発動させる。
本来ならばそれは非常に長い詠唱を必要とするのだが、次に彼が口にしたのは本来定められた言葉とは異なる言葉だった。
「……我は《神》の子。神の血に連なる者。哀れな者どもよ、黄昏の界にて安らかに眠れ……!」
その言葉が放たれた瞬間、蒼い月に異変が生じた。
にわかにその光が増し、本来の月の光を遮って地上にいる魔物達の上に光の雨のごとく降り注ぐ。まるで包み込むように。
ざわっ、と魔物達に動揺が走った。その赤い瞳に浮かんだのは明確な恐怖。そして──。
……ギャゥアァアアアアァァ……ッ
夜の静寂を魔物の絶叫が破った。
その叫びは一箇所のみならず、次々に上がった。叫ぶだけでは飽き足らず、中にはその場に頭を抱えて蹲るモノも、身悶え、のた打ち回るモノすらいた。
「……な!?」
その反応は彼の予測を外れたものだった。
魔物達はそのまま一体も残さず、行使された空間転移呪術によって速やかに転移されるはずだったのだ。なのに──。
(まさか……!)
この状況で考えられる事は一つしかない。彼は鋭く舌打ちすると、行使しかけた転移の術を一度中断し、再び口を開いた。
「マキュリータ・ペルセム……、アイダ・メイズ・ナ・ダーナ・ネゴーラ・フィッツ・リリト・マーナ・ヴィンディル……!」
言い終わると同時に、ざっとその腕を横に払う。
さながら魔物達を支配する見えない糸を断ち切るようなその動作が終わると、苦しむ魔物達の身体が一斉にびくっと跳ねた。
……その身体を支配している術が解けたのだ。それを確認し、更に力強く言葉を重ねる。
「ヘリアス・イ・アレル・エファト・メイ・オルファー・ラーナ・オルディル!」
キィン、と大気が軋むような音が微かに響く。
視界一帯の全ての要素を一瞬にして支配下に置いた彼は、魔物の苦悶の声が小さくなった事でふう、とため息をついた。
──これで彼がここにいる限り、彼以外の者がこの場で術を発動させる事は出来ない。
まさか今のような状況を予測していた訳ではないだろうが、他者からの呪術的な干渉に対して拒絶反応を起こすように仕向けていたとは──。
そう考えてすぐにいや、と否定する。
(あいつなら……そこまで読んでいたとしても、不思議じゃない)
セイリェンの一件で、皇女ミルファに腕の立つ呪術師がついている事に気付いている可能性は高い。……『敵』はそうした事に抜け目のない人物なのだ。
「──相変わらず、嫌な奴……」
ぼそりと呟くと、彼は気を取り直すように軽く頭を振ると、今度こそ魔物達を転送する為の術を行使する為に片腕を持ち上げた。
「……さあ、今度こそお休みの時間だ。黄昏を支配する女神の腕の中で、安らかに眠るといい」
そしてパチリ、と一つ指を鳴らす。
その瞬間、神殿を中心にして円を描くように、大地から空の月と同様の蒼い光が放たれた。その光はやがて糸のように、神殿を取り囲む魔物達の身体に絡みつき、その動きを封じ込む。
その光が薄れるとそれに代わるように魔物の足元の地面に、
その影よりも濃い、底の見えない穴のような漆黒が生まれる。そして──。
「おやすみ」
彼が哀れむようにそう呟くと、魔物達は足元の闇に飲まれて一体ずつ掻き消えて行く。
悲鳴すら上がらない、一瞬の消滅。まるで最初から幻だったかのように、痕跡一つ残さず魔物達は姿を消して行く。
……そして最後の一体が消え去った時には、空にあった蒼い月も、そして上空にいた男の姿も消え去っていた──。
+ + +
魔物が消滅するまでの一部始終を固唾を飲んで見届けた人々は、ようやく訪れた平穏な夜の空間を前に、ただ呆然と立ち尽くす事しか出来なかった。
あまりにも目の前で起こった事が現実離れしていた為だ。
彼等は魔物に対しても免疫がなかったが、呪術師という存在に対しても関わりが薄く、呪術を目の当たりにした事のない者が大部分だった。
(──終わった、の……?)
パリルの民よりは魔物や呪術師に関して知識のあるティレーマも、放心したように窓辺に佇み、先程まで蒼い月があった場所を見上げていた。
(今のは……一体、何だったの……)
一体何が起こったのだろうか。
蒼い月が現れ、それを見ていた魔物が苦しみだした。そこまではいい。まだ関係性を想像出来る。だが、それ以降に目の前で起こった出来事は、ティレーマの許容範囲を超えていた。
大地から青褪めた光が放たれ、その光によって視界が遮られ──光が幾分弱まったと思えば、次々に魔物が大地に飲まれるようにして消えてしまったのだ。
それが目撃した全て──否……ティレーマの目はもう一つのものを捉えていた。
蒼い月に重なるようにして、人影らしきものを見たと思う。宙に人が浮かぶなど聞いた事もないし、単なる目の錯覚だと言われればそのような気もするけれども──。
シン、と水を打ったように静まり返った神殿は、やがて我に返った人々の安堵のため息で溢れ、現実を取り戻す。
誰一人として何が起こったのか理解はしていなかったが、取り合えず危険は去った事は事実だ。
互いに手を取り合い、あるいは抱き合って無事を喜び合う人々を横に、ティレーマは逆に不安を感じずにはいられなかった。
神の加護という表現で片付けるには、あまりにも事が大きすぎる。
魔物の群れに襲われたばかりでなく、今のような現実離れした光景を前にして、自分が思っている以上に事態が大きく変貌しているような気がしてならなかった。
少なくとも──あれだけの魔物が消え去った事は、通常ならば起こり得ない事のはずだ。もしそれが何者かの手によって行われたのだとしたら──その人物も、普通の人間とはとても思えない。
……そもそもの始まりは五年前。
何の前触れもなく、突然皇帝が乱心したこと。しかし、それだけではない何かが裏で動いている──そんな気がしてならなかった。
(ミルファは、どう感じているのかしら)
ふとそんな事を思った。
父を討つ為に挙兵した母の違う妹。今まではその心情を理解出来ないと思っていたけれど……。
(──向こうも無事だといいけれど……)
月に照らされた南の空を見つめる。
そして心からミルファの身を案じた。こちらからはこの神殿の方へ向かっているはずの反乱軍の様子を知る事は出来ない。
今まではどうしても他人事のようにしか感じる事の出来なかった危機感が、ようやく実感を持って感じ取れた事で、初めてミルファの存在を身近に感じた。
──会いたい。
そう思った。
自分の感じたこの不安を分かち合えるのは、この世にはミルファしかいない──そんな気がしてならなかった。