第三章 聖女ティレーマ(23)
吹き付ける微風は、腐臭がした。
汚れた血と、肉の──臭い。それが神殿を取り囲む魔物達の体臭だと知るのは、その場にいる彼だけだ。先程まで魔物が立っていた丘の上に立ち、ザルームは眼下の光景を見つめた。
夜の闇にあっても、視界を遮るものは何もない。古びた神殿を取り囲む異形と、その爪や咽喉が立てる異音は彼のいる場所にまで届いてくる。
神殿の周囲を守るように障壁が張られている事に気付き、事態が思ったよりも深刻である事を悟る。
(パリルを襲ったのは、この為だったのか……)
神官に力を使わせる為──ひいては、そうする事でパリルの生き残りだけでなく、神官の命をも盾に取る為に。
卑怯な、と思うと同時にその狡猾さに微かな畏怖すら感じた。
神殿の様子を見てきて欲しいというミルファの言葉を受け入れて、ここまで様子を見に来たが、もしそうしなかったなら状況はもっと悪い事になっていた可能性が高い。
──まるで東領の時の再現のように。
あの時も、叶うならば東領へ赴き、せめてソーロンの命だけでも守りたかった。だがそれは叶わず、ソーロンは命を散らし、ミルファは心に傷を負う事になった。
もう二度と、あのような事は繰り返したくはない──そう、その為にこの身が滅んでも。
ザルームは視線を魔物達から外すと、天を支配する月へとその目を向けた。
「──唯一なる神ラーマナよ。穢れしこの身が、御名を口にする無礼をお赦し下さい」
静かに呟くと、口にした神に敬意を払うように、片手を立てたままもう片方の手を横に走らせる略式の印を切った。
そして彼は、今はその意味を正しく知る者も少ない、古の言葉を紡ぎだす。ミルファの願いを叶える為に。彼女が進む道が、少しでも平らかなものとなるように。
「メイ・カリェン・ゲイド・ダル・イ・ピューラ……」
その決して大きくはない声が風に乗った瞬間、ざわりと大気が揺らぎ、周囲の闇が急速に深まった。
ただでさえ安定を欠いていたその場は、呪術の発動を受け、益々狂乱する。それに構わず、ザルームはさらに言葉を重ねた。
「アイダ・メイズ・ナ・ダーナ・マティオス・フィッツ・チェイル・クロサティキル・ラーナ・ワイド」
言いながら、その左腕を持ち上げる。左──心臓に近い場所。呪術において、その腕は特別な意味を持つ。
……もっとも、そうした事は言葉同様に今は廃れ、知る者も少ない。今、彼が行使しようとしている呪術自体が、過去のものになっているように。
「……オリル・ゴーラ・《ラーマナ》」
バシュ……ッ!
この世界における唯一の神であるラーマナの名を口にした瞬間、持ち上げた腕から血煙が上がった。
「……ッ、──コンフィータ・オルディキル……、ニア・エピレ・テア・マキュリタル……」
苦痛に耐え、ザルームは詠唱を続ける。
腕の血管が破裂した結果、彼のローブの袖はたちまちその色を黒く沈め、重みを増す。先から覗く白い指先から、ぽたり、ぽたりと赤い雫が落ち、たちまち大地に吸い込まれた。
これは代償。
禁呪とされた術を行使する為に必要とする対価。
「ライ・ムーゼ……レシティプーラ・グレイブ…ナ・ラーナ・パルメ・ネゴール……」
激痛が彼の言葉を揺らす。それでもザルームはそれをやめようとはしなかった。
ここでやめる訳には行かなかった。今の状況で、これだけの規模の呪術を中途半端に終わらせれば、どんな影響が出るかわかったものではない。
──下手すれば、自分の命だけでは事は済まない。
どんな結果に終わろうとも、ティレーマの命だけは守らねばならない。それだけを胸に、ザルームは残る言葉を一気に紡ぎだした。
「ミューザ・メイ・コンナス・ウェイ・グレイブ……、メイ・オティア・ゲイド……!」
その瞬間、世界に満ちる姿なきあらゆる力は悲鳴をあげた。その声を聞く者がいたなら、おそらくその叫びにこの世の終わりを見ただろう。
それは生命や感情など存在しないはずの要素が上げる、恐怖の叫び。
本来ならば有り得ない『消滅』の危険を前に、ただでさえ混乱にあったそれらは本来持つ属性すらも忘れ、入り混じり合い、やがて一つの大きな力となる。
それはこの世界が自らを守る為にとった、防衛形態とも言えた。目に見えてはわからない。だが、確実にその場は異質な空間へと変貌を遂げている。
(さあ、来るがいい)
未だ出血の止まる気配のない左腕を掲げ、ザルームは心の内で呼びかけた。
(哀れな魂達を迎え入れるがいい……、《陰冥の門》よ……!)
そして──。
天に輝く月に重なり、ゆっくりと蒼い影が浮かび上がる。それは次第に明るさを増し、その形を明らかにした。
──不吉さを感じさせる、青褪めた光を放つもう一つの月へと。
それを見届け、ザルームは布の内で微笑んだ。……術は、成功したのだ。
ふと息をついたその時、バサリ、と彼の背後で軽い羽音が響いた。その音にザルームが振り返ると、それを見越したように一匹の蝙蝠が飛来し、彼の肩に止まる。
『久しいな、ザルーム?』
キィキィという鳴き声に重なって、そんな声がザルームの耳に届いた。
『よもやこの状況で《陰冥の門》を開くとは…その無謀さは死ぬまで治らないようだな。セイリェンでもあれ程忠告してやったというのに、困った奴だ』
その言葉にザルームは布の内で目を見開いた。まさか、と思わず目を疑う。左腕を中心に身体全体を苛む苦痛を忘れ、彼は口走っていた。
「王……?」
+ + +
「あなたが……、何故ここに……」
肩に止まった蝙蝠に、ザルームは驚きを隠さずに問いかける。
その問いかけに答えず、蝙蝠は再びふわりと飛び上がると、くるりと宙に身を翻し──次の瞬間、ザルームの前にはまるで鏡合わせのように全身を布で覆った人物が姿を現した。
「──仮にも陽明界に属する者に、『リマの月』は重いぞ? 普通に呼ぶだけでも寿命が十年は縮むはずだ。こんな安定もしていない場所ならなおさらな。……それも覚悟の上か?」
地面に降り立つと同時に布の内から聞こえた声は、先程までの蝙蝠の鳴き声とは異なる若い男の声だった。呆れを隠さないその声にザルームは視線を下げると静かに頷く。
「……他に……、手はございませんでしたので……」
「何を言ってる? お前ならあれ位の数は簡単に始末がついたはずだ」
「……」
容赦のない声に、ザルームは返す言葉がなかった。
実際、その言葉に間違いはない。ただ命を奪うだけなら、こんな命がけの大掛かりな術を使わずとも出来たのだ。
確かにこの場の要素は乱れきっており、普通の攻撃呪術を行使するにも通常以上の集中と術力を要するには違いない。だが、この身にかかる負担は幾分マシだっただろう。
《契約》に反するという部分では等しくとも。
けれども、それでは──。
「……まだ、命を奪うのが怖いか?」
その沈黙に何を感じたのか、男が幾分口調を和らげる。そして何処か哀れむように、言葉を続けた。
「気持ちはわからないでもないが。あれは……おそらく元は全部、陰冥の血など一滴も持たない、ただの人間だからな」
男の口から紡がれた真実に、ぴくりとザルームの肩が揺れる。だが、心の内を見透かされたようなその言葉を、彼は掠れる声で否定した。
「──……そのような事は関係ありません」
「そうか?」
しかし、対する男は彼の言葉を疑問の形で否定する。
「彼等はもう二度と人には戻れない。作り変えられた体細胞は時が経つにつれ神経をも冒し、後は自我を失い、狂い、血肉を求めて彷徨う内に朽ち果てるだけ──それを哀れに思ったのではないのか? お前は私と違って優しい男だからな。向こうに行けば、少なくとも苦しまずに死ねる……違うか?」
「……」
「ふん……、だんまりか。まあいい」
黙ったままのザルームに対し、特に気を悪くした様子もなく男は軽く肩を竦める。そして上空に浮かぶ蒼い月へと目を向けると、そのまま軽い口調で言い放った。
「乗りかかった舟だ。続きは私が引き受けてやる」
「……王?」
とんでもない事をさらりと口にした男に、ザルームは思わず閉じていた口を開いていた。
通常、どんな小さな呪術でも術者の引き継ぎは難しい。どうしても最初に術を組んだ術者に要素が支配されてしまうからだ。
引き継ぎを問題なく行える例外は、二つ。
一つは本来の術者が術をさらに行使する、あるいは支配し続ける事が困難な状況である場合。いわゆる術者が何らかの理由で術を行使中に死亡した場合はこれに当たる。
そしてもう一つ──それは能力的に引き継ぐ術者が本来の術者よりも強い支配力を有する場合だ。だが、こちらは強制的に要素を従える事になる為、危険が大きい。今回のように大がかりな術の場合は、術の破綻を招きかねない。
それを知らない訳ではないだろうに。
ザルームの視線に男は仕方がないとばかりに肩を竦めた。
「《門》を力尽くで開く事に比べれば送還自体は簡単だが……、今のお前には荷が重いはずだ。下手をすれば今度は冗談抜きで死ぬぞ?」
「何故……」
男の思いがけない申し出に、ザルームは呆然と問いかけていた。
確かにその言い分に間違いはない。
《陰冥の門》を開いた事で、かなりの力が削られている。腕の出血も止まる気配はなく、このままでは貧血程度では済まない状態だ。
この状況で広範囲に渡る空間転移呪術を行使すれば、完全に力尽きる可能性もあった。だが──目の前の男が、自分をわざわざ助ける理由が思いつけない。
そんなザルームの心の内を見透かしたように、王と呼ばれた男は、苦笑の混じった声で呟いた。
「これも《契約》の内にしといてやる。……皇女ミルファが無事に皇帝になるまでは、お前も死ぬに死に切れないだろう? そして私も今、お前に死なれると困る」
だから手伝ってやると告げる言葉に、ザルームはその頭を垂れた。
「……ありがとう……、ございます……」
「礼はいらない。ひいては私自身の為でもあるからな。……これだけ派手な事をすれば、向こうも気付くはずだ。私が、動いている事を」
その一瞬だけ、布の隙間から僅かに覗く男の顔から表情が消える。過去に何度か見たその凍りついた顔に、ザルームはかける言葉を思いつけなかった。
そのまま重力を無視して浮かび上がった男は、神殿の上空に向かいかけ──ふと思い出したように口を開く。
「……ああ、そうだ。皇女ミルファなら取り合えず助けておいた。ただし、詳しい事は何一つ話していない。お前の知り合いという事になっているが──後の説明は適当につけておけ。その面倒で今回は貸し借りなしだ」
「……!」
言うだけ言うと、ザルームの言葉を待たずに飛び去ってしまう。
後に残されたザルームは呆然とその姿を見送り──やがて布の内から、苦痛混じりの苦笑が漏れる。
「適当と……言われましても……。どう言い繕っても、無理が出るではありませんか……」
こうなったら後は任せるより他はない。だが、同時にこれ以上とない代理であるのは間違いなかった。
ザルームは男の動きを目で追いながら、全てが終わった後にミルファにどのように説明すべきか頭を悩ませた。