第三章 聖女ティレーマ(22)
パリルが滅んだ事で怪我人が神殿へと雪崩れ込み、自分を含めた神官達は今も寝る間も惜しんで対応に追われている。
さらに一通りの治療が終わり、気が緩んだ所を狙ったように魔物が姿を現した事で、今度は神力を酷使する羽目に陥った。
体力と精神力──それらを削られれば、いかに聖晶を持つ神官だろうといつかは倒れる。神官自身は超人などではなく、ただの人間に過ぎないのだから。
さらに生命力にも等しいと言われる神力を消耗し過ぎても同様の事が言える。場合によっては死ぬ場合もあると言う。そう、ティレーマが先程『奇跡』を行った時のように。
言うならば今は、パリルの民と神官、全ての人間の命を盾に取られている状態にも等しいのだ。
「聖女様、怖い……!」
痛々しい包帯を腕や足に巻いた少女が泣き腫らした顔で恐怖を訴える。その表情をティレーマは呆然と見詰めた。
(わたくしの、せい……?)
もしそれが真実だとしたら、今ここにいるパリルの民は心と身体に受ける必要のない被害を受けたという事になる。自分がここにいる、そのせいで。
(でも、もし、そうなら)
絶望は一瞬、すぐにティレーマはある事に気付く。そうであるなら、今の状況を打開出来る可能性もあると。
「……大丈夫。必ず、あなた方を守って見せますから」
(わたくしがここを離れれば、この人達を守れるのでは……?)
奇しくもかつて東の地で兄ソーロンが考えた事に、ティレーマもまた思い至った。彼等の狙いがあくまでも自分の命なのなら、その爪と牙はティレーマだけに向けられるはずではないかと。
この神殿を出て、うまく魔物達を自分の方へ引きつけられれば──それが言う程簡単な手段でないのは確かだ。
障壁が有効という事は、おそらく神の守護は魔物達の手からティレーマを守ってくれるだろう。しかし、一体ではなく群れとなっている中に単身出て行く事はちょっとそこまで出掛けるのと訳が違う。
相手は屈強な男でも束にならなければ太刀打ち出来ないほどの力を持っているし、ティレーマは先程の事で常になく消耗している。それなりの勇気が伴うし、第一、魔物の群れが目論見どおりに動くとも限らない。
それにその後の事も問題だ。うまく事が運んだとしても、引き離した魔物をその後どうしたら良いのか。
神官は自ら攻撃する事が出来ない。何処かに誘導出来たとしても、その場に足止め出来なければまた魔族はこちらに向かって来るかもしれない。
しかし、実行する価値がある事も、また確か。一日、いや半日でもいい。時間を稼げれば──その間は昨日から働き尽くめだった神官達が身を休める事が出来る。
(……これがわたくしのせいなら、わたくしが何とかしなければ)
ティレーマの瞳に明確な決意が宿った。
しがみ付いている少女を安心させるように軽く抱きしめると、ティレーマはその身体を優しく引き離し、立ち上がる。
「聖女様……?」
不安そうな少女に微笑みかけ、ティレーマは主位神官の姿を求めて動いた。
今度ばかりは同意してはもらえないだろう。しかし、万が一にでも可能性があるのなら──自分がここにいる為にパリルで罪もない人々が命を失ったのなら、せめて生き残った人々を守りたい。
その思いだけを胸に、ティレーマは歩く。
足取りは重く、ともすればよろめきそうな状態ながらも、そこに迷いはない。……その時だった。
「……?」
不意に音が消えた。
先程まで聞こえていた魔物達の立てる音が、まるで幻だったかのように消え去っていたのだ。怪訝に思い、近くの窓から外を伺ったティレーマは、固まったように動きを止めた魔物の姿に眉を寄せ、次いで魔物達がそれぞれ空を見上げている事に気付いた。
(何が……──!?)
倣うように視線を辿ったティレーマは、やがてある事に気付くとその目を大きく見開いて絶句した。
(そんな……、一体、どういう事なの……?)
──神殿を遥か上空から見下ろす月。
そこに重なるようにして、青く輝くものがあった。それは──。
(……月が、二つ……?)
一体何処から現れたのか。
天上には二つの月が浮かんでいた。微かに赤みを帯びた見慣れた月と、青褪めたような光を放つ第二の月。後者は先程まではなかったものだ。
(あれは何なの……?)
吸い寄せられるように、魔物も窓辺にいた人間もその蒼い月を見つめていた。しばし、本来の夜の静寂がこの地に戻る。
だが、次の瞬間──更なる異変が起こった。
静寂を打ち砕くように闇に響き渡ったのは、断末魔にも似た獣の咆哮。その青褪めた月光を浴びた魔物達が、次々に苦しみ悶え始めたのである──。
+ + +
──急いで西へ行った方がいい。この襲撃の目的は最初から聖女ティレーマを潰す事のようだから。
その言葉を頭から信じた訳ではなかったが、ミルファが率いる反乱軍は西に向かい先を急いでいた。
頭上に広がっていた炎の海が頭の中から離れない。
確かにルウェンに呪術のような力を使う魔族について話を聞いてはいたが、まさかあれほどの威力を持つとは思っていなかった。
もし、あの男がいなかったら。
考えたくもない事だが、今頃はミルファのみならず、周辺にいた人間は一瞬でこの世の者ではなくなっていただろう。
たった一体であれだけの力を持っているのだ。もし、同様の魔物が複数現れたら──果たして何処まで対抗できるだろうか。
守りの術を持つ神官でも、同じ事が言えるはずだ。いくら聖晶が守るとは言っても、誰もその加護の限界を知らない。
もし、聖晶の力を超える攻撃を魔物が行えるとしたら、攻撃手段を持たない神官はただの人間よりも非力だ。為す術もなくその手に倒れる事だろう。
早く──一刻も早く。
気持ちが急きたてられる。不安が少しずつ胸の中を蝕んでゆく。それは神殿の様子を見に行ったザルームが、今になっても帰還しない事も理由の一つだった。
呪術師ではないミルファには、今、自分の周囲が空間的に不安定である事などわからない。下手に力を行使出来ないほどに、要素が荒れ狂っている事も。
ただ、その危うさを肌で感じるだけだ。
この状況で彼が姿を見せないのは、それだけの事が起こっている証のように思われた。
(……どうか、間に合って)
祈るより他にない自分が、どうしようもなく無力に感じた。否──実際、無力だ。先程の事にしても、自分はあの炎を前にして何が出来ただろう。剣を多少使えるとしても、魔物相手ではたいした効果もないに違いない。
それは決して、恥ずべき事ではないのかもしれない。全ての人間が、ザルームやルウェンのような力を持つ訳ではないのだから。
むしろ、そうした存在に全てを預けようとしない事は、上に立つ者として逆に評価される部分だろう。だが、ミルファはそれを自覚してはおらず、ただ己を不甲斐なく思うばかりだ。
指示を出すばかりで、自分では具体的な事を何も出来ないという事実は、苦痛でしかなかった。努力でどうにかなるものではないと、わかっているが故に──。
その時、突然行軍に乱れが生じた。歩みが止まり、前方がにわかに騒がしくなる。
(何が……?)
もしや、また魔物が──そんな事を考えていると、動揺した声がミルファの周囲にまで到達した。
「何だ、あれは!?」
「嘘……っ」
「ばかな……!」
「……そんな、有り得ない……」
口々に声をあげ、中には悲鳴も混じっている。
そんな彼等は例外なく顔を上空に向けていた。その視線を辿ったミルファもまた、彼等同様に呟いていた。
「……蒼い、月……?」
見慣れた月の隣に、重なるようにして蒼い月が浮かんでいる。
いつの間に現れたのか、それは何処か不吉さを漂わせていた。まるで──この世のものではないような……。
その時、一つの直感が走った。
(──ザルーム……?)
何故、そう思ったのかはわからない。理由を問われても、納得の行く答えは出来ないだろう。だが、その事でミルファはいち早く自分を取り戻した。
「……進みなさい! こんな所で立ち止まる訳に行きません……!」
すぐさま指示を出し、その鋭い声は人々を現実に引き戻す。
二つ目の月による動揺はすぐには拭いされなかったが、彼等はすぐに再び足を動かし始めた。
(……大丈夫。姉上は、きっと大丈夫)
先程までの不安は薄れ、その確信は強まる代わりに胸に宿ったのは、ザルームの安否だった。
あれだけの力を持つ呪術師だ。そうそう滅多な事は起こらないに違いない。そう思うのに──拭いきれない不安が湧き上がる。
──蒼い月は不吉な光を湛え、そんなミルファを見下ろしていた。