第三章 聖女ティレーマ(21)
星が流れるような小さな光が、遥か上空から地上に向かって落ちた後、空に赤く炎の海が燃え広がった。
「……!」
正にその方角を目指して空を駆けていたザルームは、それを目にすると同時に動きを止めた。
それは有り得ない現象を前に立ち尽くしたようにも見えたが、実際はそうではない。
空間は相変わらず安定を欠いており、その状況で何者かが強力な術力を行使した事によって、その場の要素は嵐のように荒れ狂い、その余波がザルームのいる場所まで影響を与えた為だ。
下手に突き進めば、術力の統御が狂い、落下の危険性もある。ザルームは布の内で歯噛みした。
(こんな所で……!)
一刻も早くと形振り構わず飛んで来た結果、必要以上に力を酷使する事になり、さしものザルームにも負担がかかりつつあった。
ミルファの安否が当然気にはかかったが、命の危険そのものに関してはそこまで心配はしていなかった。……いくら何でも、何も保険をかけずに側を離れるなど、出来る訳がない。
こうして側にいない時の事態を考えて、かなり以前からある術を仕掛けていた。
ただ──問題は何か起こった場合、その『保険』によってミルファ本人の命は守れても、その周囲までは及ばないという事だ。何か広範囲に及ぶ呪術や魔物の攻撃に他の人間が巻き込まれたとしても、その人間までは守れない。
だからこそ、ザルームはミルファの元へ急ごうとしていた。
ミルファは一見、冷静で何があっても動じない心の持ち主のように見える。それは実際、ミルファがそうした面を持つ為でもあるが、意識してそう見せている部分が大きい。
──長い事、側にいれば自ずとわかる事はある。
ミルファは実際には非常に繊細で傷付きやすい面がある。強くあろうとする思いで、その傷を覆い隠し、目を背けているだけで──内には今も癒えない傷を抱えているのだ。
五年前のあの日、廃屋で従属を誓った日から今までの間に、ミルファの顔から喜怒哀楽の感情が目に見えた乏しくなったのがその証のように思われる。
その間に様々な事があった。人目を避けての逃亡の日々は決して楽な道のりでなかったし、それなりの辛酸を舐めてきた。皇帝が乱心しなかったなら、決して味わう事のなかった苦難を乗り越えてきたのだ。
しかし追われる身でありがならも、ミルファは決して利己的な保身に走る事はなかった。南領へ行く事を進言した時も、その地が巻き込まれる事を憂慮し、すぐには応じなかった程だ。
そんなミルファの前で、自分は傷一つないのに自分以外の者が傷付き倒れ──あるいは生命を失うような事があったら。
……ミルファの心は、更に深い傷を負うに違いない。
兄であるソーロンが命を散らし、皇帝を討つと決意した日からミルファは一人で泣く事もなくなった。いつか──全ての感情をなくしてしまうのではないか。そう思うとザルームの胸は鈍い痛みを感じる。
それは罪悪感に他ならない。
何しろ、今ミルファが苦難の道を歩む切っ掛けを与えたのは他ならぬ自分なのだから。
──皇帝の御座につかれませ。
ミルファの命を守る為に、それは必要な言葉だった。
それでも、本心からそう告げた訳ではない。出来る事なら命がけの日々など過ごす事なく、いっそ皇女としての立場も忘れて、平穏な日々を過ごしてもらいたかった。
……出来る事、ならば。
けれど、現実はそうする事を許さなかった。『敵』がどんな手段を講じるかわからない以上、彼女の命を守るにはそれが一番『確実』な方法だったから。
(自業自得、か……)
たとえミルファの命は守れても、心までは守れない。
それはこの道をミルファに示した自分への、報いのように思われた。ミルファが自分に対し不信感を抱きつつあるのも。
何一つ、重要な事は話していない。自分が何者で、何の為にミルファに仕えているのか──何一つとして。
話す事を禁じられているのも理由の一つではある。だが、同時にそれに甘んじていたのも事実だ。
──この身は偽り。ただの『影』。
『契約』が果たされた時には消え去る運命。そんなものに心を傾けさせる訳には行かないと、自分に言い訳して必要以上にミルファとの間に線を引いた。
それが益々ミルファの孤独を深めるとわかっていながら──。
「……──!?」
その時、彼の感覚は新たな動きを感知した。ざわり、と大気が揺らぐ。否──空間が。
(……新手?)
方角は北西──先程ザルームが後にした場所だ。しかも、その揺らぎの規模は、ミルファのいる方角に感じたものとは比べ物にならない程に大きい。
一瞬にして肌が粟立つ。荒れ狂い、統制を失った要素達の悲鳴を受け止め、ザルームは何とかその場に踏み留まった。
(──こちらが、本命か)
最初から、『敵』の狙いはティレーマの方だったのだ。
あわよくばミルファも、と考えていたかもしれないが、ミルファの方は足止め程度のものだったに違いない。
現在ミルファのいる位置から、ティレーマのいる神殿までどんなに急いでも二、三日はかかるだろう。その距離は近いようでいて遠い。だが、東領の時に比べれば手の届く距離だと言える。
もし、この状況でティレーマが命を落とすような事になったら──。
『──どのような方か、実際に会ってみたい気になった』
ティレーマからの返事を受け取った時の言葉が耳に甦る。
あの言葉には、唯一残った姉に対する思慕の念が漂っていた。もう喪いたくないという願いがこもっていた。
もしも、ミルファの感情までも見越した上で仕掛けて来ているのなら、話に聞いた以上に厄介な相手を敵にしている事になる。
(……その思惑に踊らされる訳には行かない)
一瞬にして心は決まる。
ザルームは一度炎の上がる空を見つめると、すぐさまその身を翻し、再び来た道を引き返し始めた。
+ + +
すぐ目と鼻の先に見える魔物の姿に、人々の精神的な消耗は激しかった。
神殿の人間にとっても、降って沸いた災難だったが、パリルの人々にしてみれば、ようやく過ぎ去ったと思っていた悪夢の再現である。
男も女も、年老いた者も子供も、恐怖に震え、心を乱し、縋れるものを求めていた。
そんな彼等にとって、ティレーマは先程の『奇跡』の事もあり、他の神官よりも神聖視するに十分な存在だった。階下にティレーマが姿を見せると、すぐさま人々が寄り集まり、不安を訴え始める。
「聖女様……! わたし達は、ここで死ぬのでしょうか……!?」
「そんな事はありません。わたくし達があなた方を守ります。大丈夫ですよ」
唇を震わせ身体を縮めながらの問いかけに、ティレーマは人々の肩を抱き、あるいは手を取りながら励ました。
ティレーマ自身、力を酷使した消耗が目に見えてわかるほどだったが、恐怖で目が曇っている彼等はその事に気付かない。自分の事で精一杯なのだ。
そんな彼等を責める事は誰も出来ない。ティレーマは疲労感と戦いながら、笑顔を保った。
キシ……ッ、ギギッ
時折、魔物が爪を立てる音が聞こえて来る。神経に障るその音が聞こえる度に、人々の身体はびくりと震えた。
(……どうして魔物はパリルを襲ったのかしら)
怯えてしがみ付いてきた子供の背中を撫でながら、ティレーマは考えた。
どう考えても変だ。魔物が集団で人里を襲ったのも、まるで夜になるのを待って神殿を取り囲んだのも。あまりにも出来過ぎている。
まるで──何者かの書いた筋書き通りに物事が進んでいるような。
パリルを襲ったのも時間をおいて姿を現したのも、何か裏に狙いがあるのではないか。そう思わずにはいられない。そしてそれが何かと考えて行くと、浮かび上がるのは一つの可能性だった。
(──もしや、お父様が魔物を……?)
どのようにして魔物を操っているのか、その具体的な手段は思いつけないが、そう考えれば魔物の群れがこの神殿を襲ってきた事にも納得が行く。
神官である自分は、正攻法ではその命を奪うのは困難だ。それはティレーマ自身も自覚している。だからこそ、帝都よりのこの神殿まで単身で来る事が出来たのだ。
同時に、神殿だからこそ来れたとも言える。もしこれが──普通の民が暮らすパリルのような街だったなら、ティレーマは決して足を踏み入れはしなかった。
他でもない、今のような状況を怖れた為だ。
この身はは命を狙われている。その事は同時に身の回りの人間も巻き込む可能性がある事も示す。
だが神官ならば聖晶の力に加え、自分の身を守る術を持っている。今のように魔物に囲まれたとしても、精神的な動揺はあるだろうが、生命に危険が及ぶ可能性は低い。
そう──パリルの民がいなければ、乱暴に言えば神殿を守る障壁も必要ないのだ。
魔物に対して身を守る術のない人々がいるからこそ、神官達は力を尽くし障壁を張っている。それこそが──狙いだとしたら?
(彼等の狙いは、わたくし……?)
思い当たった考えの凶悪さに慄然とする。ざわりと鳥肌が立った。
(わたくし一人の命を奪う為だけに、一つの街を滅ぼしたの……?)
まさか、とは思う。第一、確証は何処にもないし、そうだとするとあまりにも回りくど過ぎる。しかし、そう考えると腑に落ちる事がいくつかあるのも事実だ。
ティレーマは思わず手を固く握り締めていた。