第三章 聖女ティレーマ(20)
重い水を掻き分けて浮かび上がるように、ゆっくりと意識が戻ってゆく。軽い頭痛を感じながら目を薄く開くと、薄暗い室内が目に入った。
(ここは……)
一瞬、自分が何処にいるのかわからずに、ティレーマは数度瞬きをした。
──重い。
何故こんなにも身体が重いのだろう。全然言う事を聞いてくれない。
「……聖女ティレーマ? 気がつかれましたか……?」
ぎこちなく身じろぎしたのを感じ取ったのか、少し離れた所から様子を伺うような声が飛んでくる。
落ち着いた、少し老いが見え隠れする声。それが顔見知りの女性神官のものだと気付き、ティレーマは自分が置かれている状況を理解した。
(そうだわ、わたくしは主位神官様の前で倒れて……)
一瞬でそこまでに至った経過が蘇る。
パリルの壊滅、傷付きながらも助けを求めて来た民──縋り付いてきた老婦人……。
「聖女ティレーマ……?」
「……大丈夫です、ご心配をおかけしました」
まだ身体が思うように動かないが、それでも首だけ動かして声の方を見ると、今まで付き添いをしてくれていたらしい女性神官は、ほっと目元と口元を和ませた。
「良かった……。ああ、無理に起きる必要はありませんよ。具合は? 何処か痛い所などはありませんか?」
顔だけではなく身体も起こそうとするティレーマをやんわりと遮って、女性神官は体調を尋ねてくる。
正直に答えるならば、今の状態は最悪と言えた。
頭痛に、軽い眩暈、そして全身を覆う倦怠感──あらゆる意味で『力』が足りない、と身体が訴えている。
だがそれは、全て自業自得の結果だ。こうなる事を──場合によっては命も失うかもしれない事を覚悟の上で『癒しの奇跡』を行使したのだから。
ティレーマは血の気の失せた顔に微笑を浮かべ、ゆるりと首を横に振った。
「大丈夫です。……もしかしてずっと付いていて下さったのですか?」
「ええ、心配でしたから。半日近く意識が戻らないのですもの。でも一人で付きっきりではなく、他の女性神官と交代しながらですから気にしないで下さいね」
ふくよかな顔に笑顔を浮かべ、女性神官はどうぞ、と水の入った器を差し出す。
ずっと眠っていたからか、確かにひどく咽喉が渇いている。
ありがたく受け取って少し身を浮かして口をつけると、ようやくふわふわと落ち着きのなかった思考が冷静さを取り戻した。
「半日近くと言うと……、今はもしかして真夜中では?」
今更ながらその可能性に思い当たり、ティレーマは無意識に外へ目を向けていた。窓の外の月の位置で、大体の時刻を割り出そうと考えたからだ。
だが、その結果ティレーマは思いもしなかった光景を目の当たりにする事になった。
「……ッ!?」
息を飲み、思わず手にしていた容器を取り落とす。
中身はほとんどなくなっていた為にたいした被害はなかったが、そんな些細な事にも考えが回らなくなる程に、ティレーマは動揺していた。
(あれは……!?)
今まで直に目にした事はほとんどない。けれど一目で何かわかる異形のものが、この神殿を取り囲んでいた。
否──囲む所ではない。『張り付いて』いた。
神殿の周囲を見えない壁が守っているのがティレーマにもわかった。そこに魔物が爪を立て、威嚇するように牙を剥いている。
「どうして魔物が……」
呆然と呟いたティレーマは、ぎこちない仕草で再び女性神官に向き直った。
「……何が、あったんですか」
嘘や誤魔化しを許さない鋭い視線に気圧されながら、女性神官は出来るだけ簡潔にわかる範囲の出来事をティレーマに伝えた。
日没後、神殿を取り囲むようにして魔物が現れたこと。
逃げ場がないと、主位神官の指示の下、障壁を張って魔物を凌ぐ事にしたこと。
そして──現在の状況を。
「今は交代で障壁の維持を行っています。神力の強さは個人差がありますから、弱い者は二人一組で……今のところは何とか持ちこたえていますが……」
「それでも、いつ限界が来るかわからない、……そういう事ですね」
「ええ。こんな広範囲に渡る障壁など張るのも初めての事ですし、魔物がこのまま退散してくれる保障など何処にもありませんから……」
意識を手放している間にそんな事が起こっていたとは。自分の不甲斐なさに歯噛みする。ぎゅっと拳を握り締めると、ティレーマは身体を起こした。
「聖女ティレーマ?」
「もうわたくしは大丈夫です。今の内にゆっくり身を休めて下さい」
「休めてって……、それはこちらの台詞ですよ、聖女ティレーマ!?」
言いながら身支度を整え始めるティレーマに、女性神官は慌てて待ったをかける。
だが、ティレーマはそれを無視して神官服に着替え、下ろしたままの金の髪を手早く結い上げた。
まだ頭痛も倦怠感も残っているし、ともすればよろめきそうになる。それを必死にこらえ、ティレーマは身支度を終えると困った顔をして自分を見つめる女性神官に、心配無用とばかりに笑いかけた。
「大丈夫ですよ、この通り。半日も寝ていましたからすっかり元気になりました」
「何を……。まだ顔色が悪いではありませんか」
ティレーマの空元気に呆れたように呟くと、ふとため息をつく。
「──などと申し上げても、こちらの話など聞いてはくれなさそうですね」
「……申し訳ありません」
言外に『頑固者』と言われ、その自覚のあるティレーマは苦笑を浮かべた。
自分でも何をやっているのだろうと思う。僅かな明かりですらわかるほど、憔悴している今の状況で、どれほどの事が出来るというのか。
だが、こんな状況を前にのんびり寝ていられるはずもない。力で助ける事が出来なくても、おそらく恐怖の中にあるだろう、パリルの人々を励ます事くらいは出来るはず。
──昏倒している間に、夢を見た。
遠い昔の、けれど確実に今の自分の礎となった出来事の。
「たとえ先が見えなくても……、誰かに『大丈夫』と言ってもらえるだけで、心強くあれる事もあると思うのです」
そう、かつて自分が貰った言葉のように。
今のような状況で一番厄介なのは、今置かれている状況に絶望し、自暴自棄に陥る事──それだけは何としても避けなければ。混乱は何も生み出さない。
そんなティレーマの思いが通じたのか、女性神官は表情を改めると静かに念を押した。
「……絶対に、力は使いませんね?」
「はい。わたくしだって死にたい訳ではありませんから」
命を懸けはしても、自ら死を望んでいる訳ではない。自分の生にどんな意味があるのか──まだそれを見出してもいないのに。
命を狙われているからこそ、そう思う。死は──何も齎さないのだから。
「ラーマナの名にかけて、誓います」
「……」
心の底まで見透かそうとするように、真っ直ぐな視線が向けられる。
それを正面から受け止め、ティレーマは女性神官の言葉を待った。やがてその目は諦めたように床に向けられる。
「──主位神官様ですら止める事の出来なかった方を、一介の神官である私が止める事など出来やしませんよ。……くれぐれも、無理はなさらないで下さいね」
「ありがとうございます」
ため息混じりの言葉にティレーマが微笑むと、女性神官はその手でティレーマの背を励ますように叩き、厳かな口調で聖句を唱えた。
「唯一の神にして、天秤を司る神ラーマナよ。我は願い奉るなり。……この愚かにして崇高なる者が自らの意志を貫けるよう見守りたまえ」