第三章 聖女ティレーマ(19)
──どうしてこの子は聖晶なんて持って生まれてきたのかしら……。
泣き疲れたような女の声。
覚えている。これは母親の声だ。
──わたしの初めての子なのに……、あんまりだわ……!
──お声が大きゅうございます、アーチェ様。お静まり下さいませ。聖晶を持つなど、滅多にない事でございます。非常にありがたい事ではございませんか……!
──ありがたいですって……!? とんでもないわ、あの子は……、ティレーマは恐れ多くも皇帝陛下の血を継ぐ皇女なのよ!?
……記憶に残っているのは、いつも嘆き悲しむ声ばかり。
顔を合わせる度に、母は泣いた。まるで小さな子供のように。何故手放さなければならないと、神を恨んだ。
後に双子の弟と妹が生まれてからは、多少は落ち着きを取り戻したようだったが、それでも一度として心からの笑顔を向けられた事はなかったように思う。
西の主神殿に入る為に皇宮を後にした、その時まで。
──ティレーマ。お前はわたしの娘──皇帝陛下の血を引く皇女よ。遠く離れてしまっても、もう二度と会えなくなっても、それは変わらないわ。その事を忘れては駄目よ?
泣きながら抱き締められて。
──『はい』と答える以外、何が言えただろう。
『泣かないで』と言えば、なんて優しい子だろうと余計に涙が増えたし、『悲しまないで』と言えば、子を手放す親がどうして悲しまずにいられるだろうと嘆きは深まる。
だから、ただ頷いた。
純粋な人だったのだと、今なら思う。
西領でも裕福な商家の出で、その美貌により西領妃に推挙されたという母は、民の出であっても世間知らずだったに違いない。それ故にか、何処か浮世離れした、大人になりきれていない所があった。
願えば大抵の事が叶ってきた人生で、おそらく最初の『願っても叶わないこと』がティレーマの神殿入りだったのだろう。
聖晶を持って生まれた者は神殿に入るという世の理も、理不尽な事に感じたようだ。何故自分の子供だけが、と。
実際、初代皇帝の代から続くと言われている長い長い神殿の歴史の中でも、皇族から神官が出たのはティレーマが初めての事だったらしい。
常にない事であり、中にはそれを不吉な出来事の予兆ではと捉える者もいたと言う。その後、ティレーマが『聖女』として能力に目覚めてからはそうした声は聞かなくなったようだが。
そうした背景もあってか、母である西領妃アーチェはティレーマを溺愛した。常に側に置こうとしたし、最後の最後まで神殿入りを拒んだ。
けれどその頃は、それを嬉しいと感じるよりも、そんな母の姿を見るのが苦痛でしかなかった。泣かれる度に、胸を罪悪感が焼いたから。
わたくしは、お母さまを悲しませる為に生まれたの……?
八歳の頃までいた大神殿で、聖晶を持って生まれたのはラーマナの教えを残す為であり、その恩恵を人々に伝える役目を与えられたからだと教えられた。
ラーマナの恩恵とはすなわち『安定』であり『調和』。今の世が大きな混乱もなくあるのは、皇帝の統治だけでなく、目に見えなくともラーマナの力が世界を支えているからなのだという。
目に見えぬ、体感出来ぬ事を伝える事は難しい。だからこそ、人より学び努力しなさい。それだけの事をして初めて、人に教えを説く事が出来るのだ、と。
聖晶を持つ事により、神官は人々に特別に敬われる。けれども、それに甘えてはならない。その敬意に応え、なおかつ彼等の助けとなれる人間になりなさい──人に喜ばれる、人間に。
その教えは幼い子供にも感銘を与えた。なるほどと思い、そのような人間になりたいと思った。しかし同時に──絶望をも与えてきた。
……自分は、喜ばせるどころか、生まれてきた事で実の母親を悲しませる事しか出来ていない。神官となる者の証である聖晶を持つ事で嘆かれてしまったら、一体どうしたら良いのだろう?
母親以外の身近な者は滅多にない事だ、ありがたい事だと喜んでいる者が大多数だった。その事が、また母の悲しみを深くする。
そんな状況だったから、西の主神殿に入る事が決まった時は心の中でほっとしたのだ。西の地へ行けば、もう母の泣く姿を見なくて済むようになると。
薄情だと言われても仕方がない。けれどそれが本音だった。──本当はいつだって、不安と淋しさで一杯だったから。
しかし、その時はほっとしたものの日が経つにつれ、不安は増していった。話は本人の意志など関係なしに進んでいたし、ティレーマ自身どうしたいのかわからないままだったのも理由の一つだろう。
西へと旅立つ時は、恐怖さえ感じていた。見習い神官としてはそれなりに経験を積んでいると言えても、所詮は八歳の子供だ。
付き添い役がつくとしても、身近な人々と別れ、これから何月もかけて旅をする事を楽しめる年でもなかった。
……だから一言でいい、『大丈夫』だと言って欲しかった。これから歩む道は、決して間違いではないのだと──他の人達のように、せめて誇ってくれたなら。
けれど、母は最後まで泣いていた。何故手放さなければならないと嘆いた。
見送りには父である皇帝と、その皇妃に皇子皇女と全ての血縁者が揃っていた。普段ろくに顔を合わせない人々だが、自ずとその場は重苦しいものになる。
泣かないで、お母さま。
あなたが泣くと、わたくしは泣けないのです。わたくしまでも泣いてしまったら、あなたは益々泣いてしまうでしょう?
どうか笑って下さい、お母さま。
最後の最後まで、悲しませるだけの娘でいたくはないのです。
どうしたら笑ってくれるのですか。どうしたら泣き止んでくれるのですか。
どうしたら、どうしたら──。
周囲の人々の何処か同情するような視線も辛かった。多くは母の心情を思っての事だろう。北領妃などは元々感受性が強いのか、貰い泣きまでしている。
──人に喜ばれる人間に。
願う姿とのあまりもの格差に立ち尽くす。せめて自分だけは笑わなければと思うのに、声も出ない。息が、苦しい。
その重さに押し潰されそうになった、そんな時だ。──あの花束を渡されたのは。
『……どうぞ、よすがに。西への道中は長いですから』
手渡されたのは子供の手に丁度いい、小振りの花束。色とりどりのそれは、帝宮のいたる所で咲いている白い花を中心に束ねられていた。
庭師が切ったにしては、幾分不揃いだった事を考えると、もしかしたらそれは花束を持参した人が手ずから作ったものだったのかもしれない。
そんな事をしそうな人ではなかっただけに、浮きかけていた涙も遠のいた。
予想すらしていなかった人からの餞に、お礼を言うのも忘れてその顔を見上げると、その人は青味がかった灰色の瞳を細めて励ますような微笑を浮かべてくれた。
『良い旅になりますように。次にお会いする事があったら、西の地の話を聞かせて下さい』
与えられた言葉は、花束以上の餞だった。その一言で、西へ向かう旅の意味が変わったのだから。
不安はまだあったし、恐れもあった。……そして、少しの後ろめたさも。
けれど今まで気付かなかった事に気付けた。そう──これから向かう西領は、決して恐ろしい場所などではないのだ、と。
他でもない母の生まれ故郷であり、自分とも繋がりのある土地だ。そこは一年を通じて穏やかな気候で、風が優しい所だと誰かが話していた。
皇女に生まれつけば、普通なら死ぬまで帝都の外に出る事など有り得ない。そんなこのままなら決して見る事の出来ない『外の世界』を、自分は旅するのだ。
そしてこの目で見知らぬ場所を見る。この足で見知らぬ場所を歩く。
喜びと興味が胸に宿った。それが押し潰され、沈んでいた気持ちを浮き上がらせる。
──それはまるで、魔法の言葉。
とても嬉しかったのにうまく言葉が出なくて、ありがとうと言うのが精一杯で。気恥ずかしさで俯いた時、その人の傍らで隠れるようにこちらを見ている子供の存在に気付いた。
母親譲りの黒髪と、父親譲りのエメラルドグリーンの瞳を持つその子供が誰なのか、すぐにわかった。
当時はまだ二歳程度だったはずだから、おそらく周囲の状況がわかっていなかったのだろう。それとも、幼い子供なりに何か感じ取っていたのだろうか。
まるで人形のように愛らしいその少女は、少しはにかむ様にティレーマに笑いかけてくれた。
──笑って、くれた。
その無邪気な笑顔がどんなにティレーマの心を励ましてくれたか、心を軽くしてくれたか、きっと本人は知らないだろう。
少女もその母である人も、その時までティレーマにとっては遠い存在だった。初対面とさして変わらない。けれどその時の事は、時が経つにつれてティレーマの中で特別な意味を持つものへと変わっていった。
──あの人のようになりたい。
あの場で唯一、自分が欲しかったものをくれた人──南領妃サーマ。
幼いながらも、その人が帝宮で特殊な立場にいる事は理解していた。身の程をわかっていないと、裏で陰口を叩かれているのを聞いた事もある。
何度か遠目で見た時に抱いた印象は『冷たそう』だったし、その時まで言葉を交わした事もなかったけれど。
毅然とした背中や迷いのない瞳に憧れた。周囲に流されず、自分の気持ちを汲んでくれた事が本当に嬉しかった。
……だから。
可能性は限りなく低いけれど、もしまた本当に帝宮に行く事があれば、会って話をしてみたいと思っていた。
自分が見聞きした西の地のことや西の主神殿のこと、そして叶うなら何故あの時、自分の背を押してくれたのか、その訳を尋ねられたらと。
でももう、その願いは叶わない。
かの人はもう、この世の何処にもいないから……。