第三章 聖女ティレーマ(18)
(これは、一体……)
思わず我が目を疑った。
この自分が意識を失わずにいられた位だ。誰か一人くらいは他に立っている人間がいても不思議ではないのに──。
「──あ、そうか。ミルファには効きにくいんだっけ……」
次の行動すら考えられずに呆然と人々を見つめていたその時、すぐ背後でそんな声がした。しまった、と言わんばかりの呟き。
聞き覚えのない──若い男の声。
「っ!?」
その事実を認識すると同時に背後を振り返ると、そこにはザルームのように全身を布で覆った人物が、天からの赤い光を受けてさながら影のように立っていた。
「……!」
違う。
直感的に感じ取る。目の前にいる者は一見した所とても似ているが、自分の知る『影』──ザルームではない……!
「何者、です」
慌てて身体を返し、ぞくりと背筋を這い上がった悪寒を振り切るように、殊更冷静さを保って誰何する。見ず知らずの人間に無防備な背を見せていた事に動揺しながら。
落ち着かなければと自分に言い聞かせ、視線は目の前の男に向けたまま、手は腰に下げた剣に向かう。
こんな剣で敵う相手ではないのは理解していた。
何しろ、目の前の人物は何らかの術を用いたにしても、落下してきたあの炎を腕の一薙ぎで防いだのだ。
つまり──ザルームと同等、あるいはそれ以上の呪術師である可能性が高い。だとしたら、たとえこちらが切りつけたとしても、簡単に退けられるのは明らかだ。
それでも弱気をさらす訳には行かない。自分は──『皇女』であり、この反乱軍の旗頭なのだから。
そんな警戒を剥き出しにしたミルファに対し、黒衣の人物は無言で立ち尽くしている。その様子は隙だらけで、いっそわざとらしい程に無防備だった。
「答えなさい。口が利けない訳ではないでしょう」
触れれば切れそうなくらいに鋭い問いかけに、黒衣の人物はようやく口を開いた。
「人に名を聞く時は、先に名乗るものでは? 皇女ミルファ」
やはり聞き覚えのない、ザルームとは異なる声が軽い口調で言い放つ。
「……!」
予想外の切り返しに思わず言葉に詰まった。
確かにその言い分はもっともだが──この緊迫した状況でそんな世間一般の常識を持ち出してくるとは思わなかったのだ。
それと同時に相手が自分の名を知っている事に対し、なおさら警戒は募った。そんなミルファに、男はやれやれと言わんばかりに軽く肩を竦める。
「折角こんな変装までしたのに──無駄になった」
姿を隠す布を持ち上げながらの、嘆息混じりに呟く声。それを耳にしてミルファは眉間に皺を寄せる。今の発言には、聞き間違いでなければ更にこの人物の胡散臭さを強調する単語が混じっていた。
「……変、装……?」
つまり、こんな怪しげな格好をしているのは何かしらの意図があっての事という事か。
「そう。ザルームとうまく勘違いしてくれればと思ったんだけど……、流石に騙されてはくれない」
飄々と捕えどころのない口調で肯定したばかりか、よもやと思った通りの名前を口にしてくれる。
失礼ではない程度に砕けた、親しみすら感じさせる言葉達。
だが、油断してはならないと心の何処かが警鐘を鳴らす。『彼』の名を持ち出して来た事で余計にそう思わずにはいられなかった。
──その名は、未だ反乱軍の内部でも限られた者しか知らないのだから。
「ザルームを、知っているのですか」
無意識に声が硬くなる。
簡単には名乗らないと見越して別の方向から尋ねると、男は布の内でくすっと笑い声を上げた。
「知ってるよ? よーく、ね」
その返事は予測できたものの、実際に聞くと軽い衝撃をミルファに与えた。
「……ザルームも、あなたを知っているのですね?」
「もちろん。……ああ、疑ってるのか。まあ無理もないし、それが当然だけど」
「……」
決して面を露わにしようとしない男。ミルファの警戒にも動じた様子を見せず、堂々とした態度なだけに違和感は募った。
しかし違和感はあるし、とても警戒を解く事はできそうにないのだが──その言葉からは一切の敵意を感じないばかりか、いっそ友好的なものさえ感じてしまうのは何故だろう。
こういう表現は状況を考えると不適切かもしれないが、何処か『身内』あるいはそれに類した存在に対するような態度のように感じる。その事が不可解だった。
(一体、何者なの……?)
ザルームの知り合いだと言って安心は出来ない。何しろ当のザルーム自身、何処の誰だかわからないのだ。自分の知らない所で何処に繋がっているかなど予想も出来ない。
ただわかるのは、目の前の人物が自分を助けてくれたという、たった一つの事実だけ。
「──助けてくれた事に対しては礼を言います」
ミルファはぽつりと告げるや否や、手をかけていた剣をすらりと抜き放ち、その白刃を相手の首元に突きつけた。
「……けれど、信用は出来ません」
「ふうん? 恩を仇で返すと?」
「あなたがここで自身を証明すればいい事です。敵か──味方か」
答え次第では剣を振るうといわんばかりの言葉に、鼻白んだように男は沈黙する。だが、その態度が突きつけられた剣を怖れてのものではないのは確かだった。
ミルファ自身、自分の今の行動が正しいのかどうか自信はない。それでも、知りたいという気持ちが勝った。
──この男、引いてはザルームを信じるべきか、否か。
……今まで人に剣をまともに向けた事など、稽古の時以外はほとんどと言ってない。セイリェンで刺客に襲われた時も、迎撃はしても自分からは仕掛けたりしなかった。
心が、震える。
この手で誰かを傷つけるかもしれない──その恐怖に戦く。
だがミルファは決してそれを面に出す事はなかった。視線は真っ直ぐに。突きつけた剣が震えないよう、しっかりと柄を握り締める。
そんなミルファと剣を無言で見つめていた男は、やがてぼやくように呟いた。
「あーあ……。こんな事になるんなら、助けなきゃ良かったかも……」
そして僅かに頭が動き、ふと視線がミルファから外される。
何事かと思うが、つられて目を放す訳には行かない。そのまま見つめ続けると、男は突然前触れもなくふわりと宙に浮き上がった。
「!?」
「……少々長居が過ぎたみたいだ。これ以上の面倒は勘弁してもらうとするよ」
言いながらも片手を上げ、早くも退散の体勢になっている。
「待ちなさい……! まだ何も答えてもらっていないでしょう!!」
焦りが手伝い、ミルファは普段の冷静さをかなぐり捨てて叫んでいた。
「悪いけど今は何も話す事はない。世の中には、知らないでいた方がいい事があるんだよ。知ってしまったらもう元には戻れない。……君はもう、すでにその事を知ってるはずだよね」
「何を──……!?」
意味深な言葉にミルファの心はさらに惑う。まるでその言葉は、今までの全ての経緯を──ミルファ自身も知らない事まで──見透かしているかのようではないか。
「ほら、向こうから皇女殿下の騎士がやって来る。だからここでお別れだ。今はまだ、必要以上の干渉をするつもりはない。お互いの為にもね。その内……、また会う事があるかもしれない。その時こそ、ちゃんと自己紹介するよ」
手を伸ばしても届かない高さにミルファは歯噛みする。男はまったく聞く耳を持たず、そのまま浮かび上がって行く。その途中でふと思い出したように付け加えた。
「ああ……、そうだ」
「……?」
抜いた剣を戻す事も出来ず、かと言ってもはやこれ以上の手出しも出来ずに地上から浮かび上がった男を睨んでいたミルファへ、男は告げた。
「急いで西へ行った方がいいよ。この襲撃の目的は、最初から聖女ティレーマを潰す事のようだから」
「な……!?」
何故そんな事を知っているのかと追求しようとしたものの、それは叶わなかった。
ミルファが口を開く前に、男はパチリ、と軽く指を鳴らし──その音が聞こえたと思った時には、上空からは一切のものが消えていたからだ。
先程まで燃え盛っていた炎の海も。何者かもわからない、男の姿も。
そして──誰の目にも止まる事がなかったが、さらに上空にいた魔物も消えていたのだった。
「消えた……」
呆然と呟きながら、のろのろと剣を下げる。
そこでようやく背後から駆け寄ってきた『皇女殿下の騎士』が辿り着き、焦りを隠さない口調で無事を尋ねてきた。
「皇女ミルファ、無事ですか!?」
「ルウェン……」
前線から後方にまで一気に駆けてきた為か、それともまだ大気に残る熱の残滓の為か。
その額に汗が光っているのを呆然と見つめながら、ミルファは彼の名を確かめるように呼んだ。今までのやり取りが夢か幻だったかのように、現実感が希薄になっていた。
「お怪我はないようですね」
ほっとしたように表情を緩めると、ルウェンはつい先程まで男が浮いていた場所に目を向けた。
一体、いつ相手がミルファに手をかけるかと今まで気が気ではなかったのだ。距離的にはそれほどではなかったものの、地面に転がっている人々を踏み超えて進む訳にも行かない。
──もちろん、本当に危機的状況になったら、そんな事はお構いなしに踏んで進んだに違いないが。
「今のは何者です? 刺客にしては様子が変でしたが……」
遠目から見たルウェンには、その人物はさながらザルームのように見えたが、あえて直接名を出す事を避けて問いかける。見るからにミルファが精神的に消耗しているのがわかったからだ。
ミルファはルウェンの問いかけにしばらく沈黙し──やがてゆるりと首を横に振った。
「わからない……」
男の正体も、その目的も── 。
それが、今のミルファに答えられるたった一つの答えだった。