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天秤の月  作者: 宗像竜子
第三章 聖女ティレーマ
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第三章 聖女ティレーマ(17)

 後方へと向かっていたルウェンは、その火柱を目にし急いでいた足を止めた。

 遥か上空にまで昇る赤い光。そして、鼓膜を破かんばかりに響き渡った爆音──。

(嘘だろ……?)

 それが最初の感想だった。

 周囲の兵士も目の前の光景が信じられないように立ち尽くしている。こうした攻撃の可能性を予測していたルウェンですら動けない程なのだから、それも当然の事だろう。

 しかし、またすぐに走り出す。進行方向から熱風が吹きつけ、その威力の程を知らしめる。行くだけ無駄だと言わんばかりだ。だが、彼には皇女ミルファがこんな所であっさりと倒れるとは思えなかった。

 ──あの『影』がいる限り。

(あのザルームが、皇女の側を離れるはずがねえ……!)

 ザルームの腕を信じたいと思う一方で、心の奥は不吉な予感を感じ取っていた。ある可能性に気付いてしまった為だ。

 本当にザルームがそこに控えていたのなら、こんな事態になる前に防げたのではないか、と。

 得体が知れない上に真意がわかっていない相手だが、その実力は理解している。たとえ飛行能力を持ち、呪術のような技を使ってくる魔物が相手でも、少なくとも自分よりはずっと楽にあしらえたはずだ。

 それが出来なかったという事は、ザルームが不在である可能性が高い。そして、もう一つ。

(元々、敵方だったというオチか……。冗談じゃねえな)

 だが、その可能性も決して無ではないのだ。初めてまともに会話を交わしたセイリェンの夜。あの時、彼は言ったではないか。


『──今の所は』


……と。

 ぐっ、と決意を新たにするように腰に下げた剣の柄を握りしめる。

 相手が誰であろうと、今の彼に出来る事は剣の主であるミルファの無事を確認し、その危険を排除するだけだ。そう──たとえそれが、強大な力を持つ呪術師であっても。

 進む間に、幾人もの人とすれ違う。

 多くが放心したように火柱が上がった方角を見つめていた。彼等も気付いているのだ。その中心に誰がいたのかを。

 その人々の間を擦り抜けながらさらに足を進めると、やがて不意に人が見えなくなり視界が一気に開けた。

(……?)

 最初に気付いた違和感は、そこに漂うにおいだった。

 青臭い、育ち盛りの草が放つ芳香がそこにある。だが、それだけなのだ。人を焼いたはずなのに、それ特有の臭いがまったくない。

 ……まだ炎は燃え続けていた。

 だが、それはルウェンの予想に反して周囲の地面や草、そしてそこにいたであろう人々からのものではなかった。

「何だ、これ……」

 思わず呆然と呟く。彼の視界の先には魔物以上に常軌を逸した光景が広がっていた。


 ──空が、燃えている。


 見上げた上空一面に炎の海が広がっている。まるで透明な巨大な屋根がそこにあるように、空と大地の間で炎が揺らめいていた。

 赤い光と熱が降り注ぐ。つまり炎は正真正銘本物という事だろう。

(……ザルーム、か?)

 彼の知識ではこんな事が出来る存在は彼くらいしかいない。だが視線をその屋根の下にいる人々に向け、ぎょっと目を向いた。

 人が途切れたように感じたのは錯覚だった。彼等は皆、その場にいた。しかし──。

 兵士や呪術師、そして医師や施療師と思われる人々が皆、糸を切られた人形のように普通に倒れたにしては不自然な体勢で地面に転がっていたのだ。

 反射的に駆け出し、一番近くに倒れていた若い兵士を抱き起こした。起こす前にその呼吸と脈を確かめる。

 ──生きている。

 ほっと吐息をつき、そっと再び地面に横たえた。下手に起こして今の状況を目の当たりにさせる方が酷だと思ったのだ。

 ……すぐ頭上に今にも落ちてきそうな勢いで燃え盛る炎があるのを目にして、冷静でいられるはずもない。

 もしかすると恐怖のあまり全員が失神してしまったのだろうか、そんな結論に達しかけながら立ち上がって周辺を見回す。皇女ミルファを捜さなければならない。

 相変わらず頭上には炎があり、正直言って落ち着かない。ふとした弾みに一気にその炎が雪崩れ落ちてきたら──どんなに頑丈な人間でも確実に即死だ。

 熱された大気の中を進むとすぐに汗が浮かび流れ出した。時折拭いながら倒れている人々の中にミルファがいないかを確かめる。

 こんな事なら前線に出るのではなく、身辺警護の方についていれば良かったと後悔しながら。

 ……どれ程進んだ頃だろう。

 時間にするとおそらくそう長い時間ではなかっただろうが、熱と本来ならば有り得ない空に炎が広がっている状況の為か、感覚が少しおかしくなっているのだろう。随分長く歩いた気がして、視線を足元からふと前方に向けた時だ。

 視線の先に立つ人影を見つけた。その数は──二つ。

(ザルームと……、皇女ミルファ……?)

 その人影は遠目でも空に広がる炎のお陰でか、片方が黒っぽい布を巻きつけるようにして身に着けている事はわかった。

 そんな格好はルウェンが知る限り、ザルーム以外に存在しない。という事はそこから少し離れて立つ小柄な影は皇女ミルファだろう。

 やはり側に控えていたのか──そう納得し、安堵の息をつきかけたのは僅かな間。やがてルウェンはその目を見開く事になる。

 小さい方の人影──おそらくミルファだと思われる側の手が持ち上がったのだ。それだけではない、その手の先に空からの赤光を受けて鈍く光ったのは──。

(……剣!?)

 ここまでの道中で、ルウェンもミルファが剣を使える事は知っていた。ミルファ自身が彼に教えを請うたからだ。

 それはつい先日の事だった。南領では基礎だけを学ぶのが精一杯だったと言い、より実戦的な使い方を教えて欲しい、とミルファは言った。

 彼女に剣を捧げた身としては普通に守られていて欲しい所だが、魔物も出没する可能性が高い戦場の危険を考えれば、自分の身を自分で守ろうとする意志は大事だと考え、ルウェンは頷いた。

 ──西に到着したら。

 そう、条件をつけて。いくらなんでも行軍中にそういう事は出来ない。

 先を急いでいるだけでなく、それでなくても最高司令官であるミルファは休憩時間であっても、まとまった時間を取る事が難しいからだ。

 そのミルファが剣を抜いている──しかも、相手は(恐らく)ザルームなのだ。

(まさか)

 一気に焦燥感が募った。

 空はまだ燃えている。だが、もう熱さは感じない。いつでも抜刀できる状態で、ルウェンは人影に向かって駆け出していた。


+ + +


 ──今度ばかりは流石に死ぬのだと思った。

 自分の方を目指して降って来る炎。頬を熱風が撫で、それが幻ではない事を知覚した時には、それはすぐ目前にまで迫っていた。

 周囲の人間も悲鳴すら上げる事も出来ずに立ち尽くしていたが、流石にその瞬間は呪縛から解放される──ただし、それはいずれも無意識のものであったが。

 両腕をかざし、うずくまり、あるいは絶叫する。そうした所で事態は何も変わりはしないと、わかっていながら。

 ミルファもまた、手を動かしていた。

 伸ばされた先は胸元──服によって隠された空色の石。それを指先で辿り、強く握る。……縋るように。

 絶体絶命の状況を前にしてミルファの脳裏にあったのは、今まで心を支えてくれていた遠い笑顔、それだけだった。

 おそらくそれは、精神的な防衛本能が働いた結果だったのだろう。

 不思議とつい先程まで感じていた危機感は薄れ、混乱や恐怖も感じなくなっていた。時間の感覚すらも麻痺している。周囲の音も聞こえなくなっていた。

 瞬きほどの時間が、やたらと遅く感じながらも空を見上げる。自分に向かって一直線に近付く炎。そして、正に凝縮された炎が解放されようとした、その刹那。

 ──無意識に動いた唇が呼んだのは、思い出の中の人ではなく、今は傍にいない『影』の名だった。


「目を閉じて」


 来る、と思ったその時、耳元をその場の緊迫した場にそぐわない声がかすめた。

 この窮地きゅうちにありながらも落ち着きを感じさせる、男か女かも、年寄りなのか若いのかもわからないくぐもった声。

 軽い混乱の中、反射的に向けた視線に見慣れた姿を見た気がしたが、それが自分の知る存在か確かめる事は出来なかった。

 その人物がその手を空をぐように一閃させた瞬間、視界は真紅に染まり、耳をつんざかんばかりの轟音が生じたからだ。


 ゴオォオオォオォ……ッ!!


 思わず耳を塞ぎ、目を閉じた。言われるまでもなく、本能がそうする事を命じたのだ。

 閉じてもなお、目の奥に光の残像が光の欠片となっていつまでも残る。次いで激しくも熱い風が衝撃を伴って吹きつけてきた。

 上空から地面へ叩きつけるように。一瞬、呼吸が出来なかった。ミルファの額にたちまち汗が浮かび、それは瞬く間に雫となって大地へ落ちる。

 顔を庇い、少しでも呼吸を確保しようと試みるが、鼻腔を通るのはどれも焼けて乾燥した大気ばかりだ。咽喉に軽く爪を立てられるような痛みを感じて咳き込みながら、ミルファはそれでも冷静に自分の状況を分析していた。

(……焼けていない)

 熱いのは確かだが、まるで暖炉の直前にいるように、じりじりと肌をあぶるような熱だ。

 実際の炎に焼かれた体験など当然ないが、熱いばかりで苦痛を感じないはずがない。だから取り合えず自分は助かった、と言う事だろう。

 ようやく少し熱に慣れ、そろそろと腕を下ろすと、周辺の様子が一変していた。

 赤いのだ。

 夕暮れはとっくに過ぎ去ったはずなのに──一瞬そう考えたミルファは、やがてその赤が何処からもたらされたものかに気付き、ひゅっと息を飲んだ。

(炎が……、空に……!?)

 常軌を逸したその状況に、知らず目を奪われる。

 遥か上空にある炎の海──それでもこれだけの熱が届いて来る。もし直撃を受けたなら、おそらくこの身は瞬時に焼き尽くされ、何も残らなかったに違いない。

 呼吸すら忘れ、言葉もなくし立ち尽くしていたミルファはやがてはっと我に返った。思い出したのだ。

(そうだ……、ザルーム……!)

 炎が降る直前、自分に目を閉じるように命じた人物がいた。全身を黒っぽい布で覆い隠したその様は、正しく彼女の『影』と同一のもの。

 慌てて周囲を見回し、ミルファはそこでようやく、その場で意識を保っているのが自分だけだという事に気付いた。

 周囲を守っていたはずの兵士も、呪術師や施療師も──全て地面に倒れていた。しかも普通に意識を失ったにしては、少々不自然な体勢で。

 ある者は剣を抜きかけた体勢のまま、後ろに倒れていた。ある者は悲鳴をあげかけ持ち上げた手をそのままに横に転がっている。またある者は頭を庇うようにしゃがみ込みかけた中途半端な体勢のまま、地面に顔を埋めていた。

 まるで──その状態で時だけを止めたように。

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