第三章 聖女ティレーマ(16)
ルウェンが後方へ向かう中、ようやく三体の魔物達が動きを見せた。
バサッ……
それなりに距離があるというのに、兵士達の耳にも翼が大気を打ちつける音がはっきりと届いた。
夕闇に広がる、巨大な翼の影。
有翼の魔物を初めて目の当たりにし、多少は魔物に免疫が出来ていたはずの彼等も思わずその動向を固唾を飲んで見守る。
翼は魔物の巨体を支えるに相応しく、その身体の大きさの二倍は大きいものだった。それがゆっくりと具合を確かめるように数度羽ばたく。
バサッ、ブォン……
空気を孕み、吐き出し、翼はそれ自体が独立した生き物のように動く。その間も、本体に当たる魔物は微動だにしない。赤い瞳をひたと反乱軍に向けるばかりだ。
翼だけが動き、今にも空へと舞い上がる素振りを見せながら、それを見つめる兵士達の緊張を高めた。
──そして。
……バサ……ッ!!
ひときわ大きく翼が空を叩いたかと思うと、その身体はその大きさが嘘のように、一気に重力の軛を断ち切って上空へと一直線に舞い上がる!!
「と、飛んだ!?」
「そんな……!」
「嘘だろ!!」
「……神よ……」
翼がある以上、空を飛ぶ可能性がある事は予測していたものの、実際にそれを目の当たりにした精神的な衝撃は大きかった。その口から言葉こそ違うが、絶望の響きを宿した呟きが漏れる。
何しろ空が飛べるという事は、こちらからの直接の攻撃は一切効かないという事だ。そして逆に向こうはいかようにでも攻撃出来る。
そして兵士の多くが遥か上空にまで一気に飛翔した魔物に目を奪われている一方で、地上に残った二体の魔物も動き始めていた。
飛行能力こそないが、その戦闘能力が低い訳ではない。一度の跳躍で距離が一気に詰まる。兵士達が我に返った時には、二体の魔物がすぐ目の前にまで接近していた。
「げ、迎撃せよ!!」
指揮官の一人が指示を飛ばすが、一度乱れた緊張が一瞬で戻るはずもない。最前列に構えていた兵士が得物を構え直した時には遅かった。
シュガッ!!
空と地面を同時に切り裂きながら、魔物の手首が下から斜め上方に向かって翻る。
最初はまだ手の形状をしていたそれは、疾走する最中に形を変え、さながら槍のようなものになっていた。
ガギッ……!
兵士が二人掛かりでその腕を受け止める。二人とも鍛え上げられた肉体を誇る戦士である。だが、やがて彼等二人の額に玉のような汗が噴出し、滴り落ちた。
──重い。
片方の腕の一撃、しかも二人掛かりでこれである。盛り上がった腕の筋肉に血管が浮かび上がり、噛み締めた奥歯の奥から苦悶の呻きが上がった。
シュッ!!
そんな彼等を支援すべく、少し後方に下がって配置されていた弓を得意とする兵士が一矢を放つ。
二人の兵士に攻撃を受け止められ、動きを止められていた魔物の目に向かって放たれたその矢は、しかし空いていたもう片方の腕によりあっさりと跳ね除けられる。
シュ……ッ!
シュシュンッ!!
正に矢継ぎ早に矢が放たれるが、結果はどれも同じだった。
前方、側方、いずれの方向から放たれても、魔物の驚くべき反射神経と動体視力はそれらを的確に跳ね返す。そうしながらも、もう片方の手は二人の兵士にぎりぎりと重圧をかけ続けている。
残る一体はハンマー状になった腕を振り回し、兵士達を蹴散らしていた。
わざとのように外れた場所に一撃を振るい、無駄に地面を揺らし、陥没させる事で威嚇する。速さはそれほどではないものの、その一撃の威力を目の当たりにした兵士達はどうしても二の足を踏んでしまう。
もし直撃を受けたら──確実に死ぬ。それがわかるが故に。
魔物が一体、誰の命を狙って現れたのか。その事を考えれば、魔物が飛び立った時にすぐにでも誰か後方に走るべきだったのだ。彼等自身、つい先程思ったはずなのだから。
こちらに空からの攻撃に対する防御や心構えが、一切ないのだと。
あるいは客観的に見る事が出来ていれば、気付く事が出来ただろう。
二体が付かず離れずの位置で動き、互いにうまく連携し合っている事、そして一見仕掛けているように見えて、実際は決定的な打撃をこちらに与えていない事に。
まるで戦いを長引かせようとしているかのように、そこには意図的なものを感じさせる何かがあった。
事実、結果として防戦一方となる彼等は当然ながら自分の事で精一杯で、先程上空へと飛び上がった魔物の事など記憶の端から消え去っていた。
──それこそが、この二体の魔物に与えられた役目だと気付く事のないまま。
+ + +
ズゥウウウゥン……
微かに響いてくる剣戟の音と地響きに、ミルファは魔物との戦いが始まった事を確信する。
後方に位置する彼女からは前線の様子を直接知る事は叶わないが、状況が芳しいものではない事は薄っすらと理解出来ていた。
肌で感じる──危険、だと。
それはこれから起こる事に対する予感だったのかもしれない。その頃、上空に昇った魔物はミルファを見下ろす位置へと移動していた。
魔物が空を飛ぶなど今まででは有り得なかった事態だけに、実際に目にしていない後方の部隊は上空に対しては無防備だ。空からの攻撃などないと思い込んでいる。地上から見上げても、小さな点にしか見えない程に上昇した魔物の事など気付きもしていない。
薄い雲を透かして地上を見下ろす魔物は、にたりとその口元に歪んだ笑みのような表情を浮かべる。
「…ミツケタ、《ヨウメイノフンドウ》……」
キイキイ、と金属が擦れ合うような耳障りな声がその口から漏れた。けれどそれはよく聞けば、確かに意味ある言葉を紡いでいる。
「ワガアルジノメイ、カナエルベシ」
その背にある翼が最大限に広がり、ばさりと羽ばたく。ゆっくりと持ち上げた掌に、ポッと赤黒い光が宿った。
大きさは人間の男の拳ほど。魔物の手では軽く包み込んで余る程でしかないそれは、闇の中でゆらりと揺らめく光を放つ。
──その小さな光一つで、小さな村を軽く消せる威力を秘めている事を知るのは、それを目の当たりにした者だけだ。
魔物はその光をじっと見詰め、やがて静かに呟いた。
「──ゲンショノヨヲ、サイケンセン」
それは何処か厳かな呟き。
──原初の世を、再建せん
異形のモノの口から紡がれるには、いささか不釣合いな言葉だった。その赤い瞳にあるのは、絶対的な忠誠にも似た──狂信か。
「ワガアルジヨ、ゴショウランアレ……!!」
まるですぐ近くでこれから起こる事を『主』が見ているかのように嬉々とした叫びを上げると、魔物はその手を高々と上空に持ち上げた。
掌の上で踊る破壊の光。その下にいるのは──皇女ミルファ。魔物が主と呼ぶものが欲したものを有する者。
──『月』に捧げる、贄。
「ワレ、ココニササゲン!」
ゴオッ、と音を立てて光は一気にその体積を増した。
内に封じられていた力が僅かに解放され、束縛から完全に解放されるのを求めて荒れ狂っている。
魔物はその腕に力を貯め、一瞬後全身のバネを利用してその光を地上へと叩きつけた。
闇に、一閃。
赤い光は軌跡を残し、空に一筋の光の線を刻み、一直線に地上へと舞い落ちる。地上にいた人々がその尋常でない光の気配に気付いた時には、もう遅かった。
(あれは、何……!?)
呪術によって炎の玉が降ってきたのかと思った。
だがそうならば、周辺に配置された呪術師──流石にザルームに並ぶ程ではないが、それでもそこそこの力を有した者達だ──が気付かないはずもない。
ルウェンから呪術師のような攻撃を仕掛けてくる魔物や有翼の魔物の存在を耳にしていたが、あくまでも個別のものとして考えており、まさかその二つが合わさったモノが上空から仕掛けて来るなど予想していなかった。
──炎が、降ってくる。
周囲の兵士達も咄嗟にどう行動して良いのかわからず立ち尽くしていた。彼等の旗頭であるミルファを守るという職務を忘れた彼等を非難する事は出来ない。ミルファ自身、次の行動を選ぶ事が出来なかったのだから。
ただ、呆然と空を見上げる。もはや逃げる事は無意味だと、やけに冷静な己が心の何処かで諦めたように囁く。
やがて無意識に唇が彼女の影の名の形に動いたが、それは声になる事はなかった。
……そして、訪れた夜の闇の中。
轟音と共に大地だけでなく天すら焼かんばかりに赤い火柱が立ち上がった。