第三章 聖女ティレーマ(15)
「……聖女ティレーマの様子は」
「まだ目を覚ます気配がありません。呼吸は落ち着いているようですが……」
「そうか……」
ザルームがその場を後にした頃、神殿の一室ではそんな会話が交わされていた。
主位神官と付き添っている女性神官に見守られる寝台の上でティレーマは眠っている。主位神官との会話の最中に意識を失って倒れ、それから一度も目を覚まさない。
窓から差し込む夕暮れの光に浮かび上がる寝顔こそ穏やかだが、その顔色は決して良いとは言えなかった。年齢の分、知識も豊かな女性神官は、不安そうに主位神官へと尋ねかける。
「『癒しの奇跡』の話は幾度か耳にしましたが……、あれ程のものならば、禁忌とされるのも納得いたします。あんな多くの重傷者がいて一人も命を落とさなかったなど……。この目で見なければとても信じられません。あれだけの力を使って、大丈夫なのでしょうか……」
「……それは私にもわからない。私とて『奇跡』を目の当たりにしたのは初めてだからな。それに今回の事は聖女ティレーマだからこそ出来た事かもしれないのだ。この事は可能な限り、公にならないようにせねばなるまい」
そう言いながらも、主位神官はそれが言葉で言う程簡単な事ではない事を自覚していた。
何しろ、パリルの生き残った人々はほぼ全てがティレーマの『癒しの奇跡』を目にしている。その全てに他言無用と言った所で、どれ程の効果があったかわかったものではない。
人の噂というものは、風のように早く広まり、一度広がってしまうと留める事はほぼ不可能だ。
主神殿にいたなら奇跡を求めてやって来る人間をいかようにもあしらえただろうが、このような小さな地方神殿では限りがあるし、何よりティレーマの目からそうした人々の姿を隠す事も難しい。
一人の手を取ったならば、伸ばされた全ての手を取らねばならない。
それが唯一神ラーマナの教え。だが、今のティレーマにとってはその教えは毒にしかならない。
あれだけの人間の傷を癒し、最後まで意識を保っていられた事自体、ティレーマの力の強さを示しているとも言えたが、限界が存在しない訳がないのだ。最悪、本当にその命を落としてしまいかねない。
「──そう言えば、パリルを襲った魔物は何処に消えたのでしょう」
深い眠りの中にあるティレーマに目を向けながら、女性神官がふと思いついたように疑問を口にする。
「今までなら、パリルの住民を追ってここまで来ても不思議ではないのに……。何だか嫌な予感がいたします、主位神官様」
「……」
彼女の疑問ももっともだった。主位神官もその事は疑問に感じていた。
魔物が集団で現れ、小さいながらも街を一つ滅ぼしたなど、未だ嘗てなかった事──ようやく落ち着いたパリルの住民の話を聞く限りでは、どうやら魔物は『パリルを焼く』事が目的だったようで、人を無差別に襲う事はなかったという。
……その行動のどれもが今までとは異なり、なおさら不気味さを募らせる。
「せめてこのまま何も起こらない事を祈ろう。今、我々に出来る事はその程度しかないのだから」
「はい……」
だが、彼等の祈りは神の元へ届く事はなかった。
太陽が地平に消え、再び夜の闇が支配すると、微かな月光に照らされた丘の上に一つ、また一つと影が生まれていく。
その数、数十体。
そのどれもが異形の姿を持ち、闇に光る赤い瞳を有していた。
一対、あるいはそれ以上の数の瞳は一点を見つめる。緩やかな丘に囲まれた、すり鉢状の位置にある唯一の建物──古ぼけた神殿を。
風は完全に凪ぎ、大気は生暖かさを増す。天にある月はいつにも増して巨大に見えた。
ぐるりと神殿を取り囲んだ魔物達は、しばらく様子を伺うように丘の上に佇む。その姿はやがて神殿にいる人間の知る所になった。
「魔物が……!?」
「か、囲まれてる!!」
ようやく落ち着いたパリルの人間が昨夜の恐怖を思い出して恐慌状態に陥り、それを宥めながら対策を講じなければならない神官達の動揺も大きかった。
それもそうだ──彼等とて、これほどの魔物と対峙した事などないのだから。
確かに彼等には呪術にも似た力による守りの術を持っている。
だが、それらも別の神殿に出向いたり、請われて近辺の街や村に行く際に、獣などから身を守る事を基本としたものである。果たして魔物に対してどれ程の効果があるものかわかったものではない。
しかし、殺生のみならず傷害も禁じられている上に逃げ場のない彼等に、取れる手は一つしかなかった。
「……障壁を。神殿全てを包むよう、障壁を張るのだ……!」
主位神官の指示の元、特に神力が優れている者を中心に祈祷の間に集まると、彼等は神殿を取り囲むほどの障壁を構築する。
周囲に存在する要素を元にする呪術師と異なり、己の力が全てである神官は一人ではどうしても力が限られて来る。
通常では小さくとも何十人もの人を抱える神殿を覆う障壁を築くなど到底不可能な事だが、複数の人間が力を出し合い、増幅する事で何とか可能になった。急ごしらえのものだが、ないよりはマシだろう。
やがてそれを待っていたかのように、魔物が動く。たちまち建物を取り囲まれ、彼等は完全に逃げ場を失った。
魔物の爪を受け止め、結界はキシッキシッと軋んだ音を立てる。──取り合えず、障壁が有効だとわかり、神殿内の空気が僅かに緩んだがそれでも予断は許されない。
何故ならこの障壁も永続的なものなどではなく、神官達が力尽きれば消え去る脆い壁に過ぎないのだ。
人々は恐怖に戦きながら、身を寄せ合って神に祈る。
西へと向かうミルファの軍はまだ遥か南の地にあり、すぐの援軍は望めない。そんな絶望的な状況の中で、彼等に出来る事はそれだけしかなかった──。
+ + +
行く手に見える三体の異形の姿にもはや恐怖を感じない自分に気付き、ルウェンは苦笑した。どうやら見慣れてしまったらしい。
(──こんなの見慣れても嬉しくも何ともねえけどな)
パリルの一件があるせいか、周囲の兵士達の動揺もそれほど大きくはないようだ。進軍する際に皇女ミルファ自身が今後の魔物の出現を予測していた事も理由の一つだろう。
セイリェンを発ってから半月以上が過ぎた。それは心構えをするには、十分な時間だ。……もちろん、心構えが出来ていたからと言って、魔物の脅威は何一つ変わらないのだが。
──出来るだけ短時間で決着を。
ミルファからの指示は、退避ではなく撃退。確かに今のような谷間に位置する場所では後退しても大して意味はない。
(それにしても、何でまたこんな中途半端な……)
たった三体、と表現するのも今までならばおかしな話だが、東領にセイリェンと群れを成す魔物を何度も見てきたルウェンは、その数の少なさにミルファ同様違和感を感じていた。
今後出るとしたら、セイリェン以上の数を差し向けてくる可能性もあるとすら思っていたのだ。
少ないに越した事はないが──すっきりしない。
「ルウェン殿、あの魔物……何か変じゃないですか?」
そんな事を考えていると、隣にいた兵士が眉間に皺を刻んで問いかけてきた。視線は前方にいる魔物に向けたままだ。
「変?」
「ほら、あの一番奥にいる……一番大きな魔物ですよ。大きいだけじゃなくて、背中に何か──ないですか?」
三体の魔物は待ち構えるように動かず、まだ距離もある為にその詳細な姿までは確認出来ない。しかも夕暮れの薄闇の中だ。
だが、確かに一番奥にいるひときわ大きな魔物の背に、他の二体にはないものがあった。それは──。
「あれは……!?」
それを確認したルウェンはその目を思わず見開いた。
脳裏に甦ったのは二月以上前の記憶。彼が今もなお引き摺る、あの夜に見たものの姿。
(あれと一緒だ……!)
そう、翼だ。
まだ広げてはいないが、過去に一度間近に見た事のあるルウェンには、それが何かすぐに理解した。同時に──それがどういう事を意味するのかも。
「……ッ!」
すぐさま身を翻し、その場を移動しかけるルウェンに兵士が驚きを隠さずに声をかける。
「ルウェン殿!? 何処へ行く気ですか!!」
「ここは任せた!」
「任せたって……ルウェン殿!?」
予想外の行動に完全に面食らう兵士の声に、周囲の兵士達も何事かと彼等を注目する。それを無視して後方へと走りかけながら、ルウェンは声だけを返す。
「頼んだぞ!!」
「ちょっ、ちょっと待……ルウェン殿──!?」
兵士の声が追いかけてくるが、もはやルウェンの耳にその声は届いていない。焦燥感と危機感だけが彼を支配していた。
(──皇女ミルファが危ない)
おそらく自分が駆けつけなくても、あのザルームが側に控えているだろうし、何とか撃退するとは思う。
だが、もし──何かあったら。
(もう、二度と同じ事を繰り返して堪るもんかよ……!!)
予想が正しければ、有翼の魔族はミルファを狙うはずだ。あの時、ソーロンの命を狙ったように。
過去に戦ったあの魔族と同等の力──知能を有するのならば。
飛行能力がある相手に何処まで歯が立つかわからないが、少なくとも今いる兵士達の中では経験がある分役に立てるはずだ。
そして実際、ミルファの元に危機が迫りつつあった。
常ならばミルファの身を守るザルームはまだ戻っておらず、今ミルファを守る者は周囲にいる護衛兵だけだ。
そして、魔物はその翼を広げる。──皇女ミルファの命を狩る為に。