第三章 聖女ティレーマ(14)
パリル壊滅の知らせを受けて、反乱軍の足は幾分速められていた。間の休憩を短くし、可能な限り先へと急ぐ。
その間も帝軍からの妨害もなく、それが一層ミルファには不気味に思えて仕方がなかった。
まるで──これから起こるかもしれない出来事の、ほんの幕間に過ぎない。そんな風に感じてしまう。
(……大丈夫。姉上は神官──聖晶を持って生まれた方だもの。滅多な事は起きないはずだわ)
そんな風に何度も自分に言い聞かせるものの、心の平安は戻りそうにない。ひたすら嫌な予感と胸騒ぎが心を支配するばかりだ。
そして事実、ティレーマは力を使い過ぎた事で意識不明の状況にあったのだが、神官については一般よりも知識を持つミルファでも、『聖女』に関してはその詳細を知らなかった為、そんな事になっているとは予想もしていなかった。
気が急いても距離が縮まるはずもなく、心は苛立つ。この不安が杞憂で済む事を、祈らずにはいられなかった。
太陽は今日の役目を終えて、ゆっくりと西の果てへと傾いてゆく。また、一日が終わるのだ。
今日一日でもかなりの距離を稼いだはずだが、一向に近付いた実感を得られないのは、やはりこの身の内に巣食う不安のせいなのだろう。
今、この場にザルームはいない。念の為に神殿周辺の様子を直接見てきて貰っているのだ。
──進軍を始めてからというもの、無意識にザルームへ頼っているような気がする。心の中では相変わらず、信じ切れていないのに。
そんな自分が浅ましく感じられて、ミルファは唇を噛む。
自分は結局、自分の足だけで立ってはいないのだ。立って歩いているつもりでいるだけで──本当に一人になった時、立って歩けるのかわかったものではない。
支えられ、手助けされ──そして自分はここにいる。
ミルファは自分の無力さを自覚していた。無力でも無力なりに、自分の存在する意味を考え続けた結果が、皇帝──父に対する反乱。
その選択が間違いだろうと、進む事を誓った以上は最後までやり遂げるつもりだ。
元々、挙兵を決意したのは何とかして直接父に会い、話をしたいと思った事が切っ掛けだが、今はもう、その目的は理由の一つに過ぎなくなっている。
あの兄・ソーロンの死を境に、ミルファの意識は大きく変わった。
──皇帝に、なること。
それが現実的なものになり、逃げ場がなくなった。何しろ、生き残った姉は神官だ。余程の事がない限り、還俗も許されない存在。
つまり……、自分が死なない限り、姉にその重責が回る事はない。
幼い頃から、ずっと皇帝である父を手助けする者になりたいと思っていた。多忙を極める父を、皇妃として支えた母の姿を間近に見て育ったせいかもしれない。
けれど──自身が皇帝になるとなれば話は変わる。
『ミルファが私の補佐となるなら、それは心強い』
遠い日、まだ優しかった頃の父が冗談混じりに言っていた言葉が、今は心に重く響く。
あの頃は何も知らなかったから、無邪気にその言葉を嬉しく思ったものだ。しかし、あの言葉の裏には、最終的には誰にも頼る事の出来ない孤独が混ざってはいなかっただろうか。
全ての者に公平であれ──それは一見良い事のように聞こえるが、裏を返せば何一つ『執着』を示してはならないということ。
何に対しても必要以上に心を寄せるのも、また寄せられる事も禁じられる立場とは、孤独ではないだろうか。
──その『孤独』に、自分は本当に耐えられるのか……?
この西への行軍の間に立ち寄った街や村の民は、何処も反乱軍を歓迎してくれた。どうかまた平和な頃に、と無礼を承知で直接訴えに来た者もいた。
その姿に思う。
……もはや、父は民からも『皇帝』だと認められていないのだと。かつては名君とまで称された人でも、今はもう必要とはされていないのだ。
五年という月日は、あまりにも長かったという事だろうか。万が一の可能性だが、皇帝が正気を取り戻しても、おそらく民はもう彼を支持はしないに違いない。
このまま進み続ければ、近い未来、自分は父を討ち、かつて父の座った皇帝の御座に就くのだろう。
もちろん、その道のりは決して容易ではないのは確かだし、相手もそう簡単にそれを許すとは思えない。多くの血が流れ、少なからずの犠牲も出るだろう。
だが、人々は新しい皇帝を求めている。今の不安を解消してくれる、新しい拠り所を必要としている。その事実は変わらない。
そして──彼等がその新しい拠り所として見つめるのは、自分なのだ。その期待に、無力な自分は一体何処まで応えられるのだろう──。
そんな物思いに沈んでいると、急に前方が騒がしくなった。何事かとそちらに目を向けると、すぐさま伝令が駆け寄ってくる。
「どうしました」
「大変です! 魔物が出現しました!!」
「……!?」
無意識に周囲を見回すと、そこは両横を丘に挟まれた谷状の道だった。退避するにも、後ろにしか下がれない状態だ。
「──数は」
「確認出来た数は三体です」
「……後方は?」
「そちらに出たという報告は今の所ありません」
いつかはこちらにも仕掛けて来るとは思っていたが、三体という数に内心首を傾げる。
(足止め? それにしては……)
あのセイリェンの戦いの時でも六体も現れたのだ、今度はもっと多くを仕向けてくると思っていたのだが──。
もちろん、一体でも戦闘能力はこちらの兵の何人分にも匹敵するのだから、数の問題ではない。
(──この状況で挟み撃ちでもない。一体?)
自分なら逃げ場を押さえて挟撃している。これだけの大軍になると、どうしてもとっさの機動力は低くなる。ある意味、絶好の状況を活かそうとしない事が、何かしらの裏を感じさせて不気味である。
だが、そんな些細な事を考えている暇はない。こうしている間にも魔物は行動を起こすかもしれないのだ。
ミルファはすぐさま思考を切り替え、指示を出した。
「ここで引いても意味がない。三体ならば今の戦力でも対応出来るはず……出来るだけ短時間で決着を」
「はっ!」
ミルファの指示を受けて、伝令が駆け戻ってゆく。その背を眺めながら、ミルファは無意識に腰に佩いた剣に手をかけていた。
やがて日没間近の赤い世界に、剣戟の音が響き始める。
──それが新たな戦いの始まりである事を知る者は、その場には誰一人いなかった。
+ + +
──日が、暮れる。
西の地は他よりも幾分昼が長いとは言え、それでも必ず夜はやって来る。赤い残光に照らし出された古い神殿を眼下に見下ろし、ザルームは周囲に目を走らせた。
(大気が、騒いでいる……)
元々、この丘陵地帯は風の要素が強い場所だが、それ等は秩序を保ち、穏やかな風を生み出していた。
それが今は何らかの影響でか乱れ、結果として風が凪いでいる状態になっている。不動のように見えながらも、その内には狂乱を孕んでいる──呪術的な視点で見てもあまりよくない傾向だ。
一つの要素の乱れは、それに関連する全ての要素に多かれ少なかれ影響を及ぼす。
普通ならばやがて落ち着き元通りになるはずだが、何らかの切っ掛けで乱れが増した場合、予想外の災害を引き起こしかねない。そしてそれは当然ながら、普通の自然災害の何倍もの破壊力を生み出す。
この周辺ならば大きな障害物がない分、辺りの地形が変わる程度で済むかもしれないが、それでも被害としては決して小さいとは言えないだろう。
(取り合えず今のところは大きな異変はないか……)
流石に内部に侵入する訳にも行かないので、実際の所まではわからないが、神殿自体は明け方からの騒動も収まり、落ち着きを取り戻しているようだ。
聖女ティレーマの安否が気になる所だが、その身に何かあれば神殿に何か動きがあるはず。今の所はそうした様子もない事で、命に関わるような事はなかったのだと推測する。
(──ただし『癒しの奇跡』を行使なさっていたなら、そうとも言い切れないが)
パリルの焼け跡を見るにここに逃れて来た人間には負傷者も多かったはずだ。中には命に関わる重傷を負った者もいたに違いない。
その人々を前にティレーマがどんな行動に出たのか──その場にいた訳でもないザルームにはわからない。
ティレーマの気性はよくは知らないが、先日ミルファの所へ届いた返事を見るに、非常に『神官』らしい性格のように彼には感じられた。
生真面目で真っ直ぐ──そして正義感の強さが伺えた。もし、その通りの人となりだとすると、傷付いた多くの人を前に指を咥えて見ているだけとは思えない。
(──『聖女』か…)
彼とてその全ては知らない。だが、その力がどのようなものかは一般の人間よりは知っているつもりだ。
その力は喩えるならば『荊の靴』。
足を守る為のものでありながら、歩く度に足を傷つけ血を流させるが、だからと言ってそれを脱ぐにしても、肉に食い込んだ荊は簡単には取り除けない。
けれどそれはとても珍しいので、誰もがそれの本質を知らずに珍重するのだ──。
「……──?」
そんな物思いに沈んでいたザルームは、ふと感覚の糸に触れるものを感じて視線を持ち上げた。
ざわり、と何かが動いたような──そんな感覚。気がつくと、太陽は半分以上が地の向こうに消え、東の空は群青に染まっていた。
(……この感覚は……)
ピリピリと皮膚が刺激される。ただでさえ乱れている大気が、さらに動揺しているのがわかる。否、大気だけではない。大地も、大気に宿る熱や水も。……全てが揺らいでいる。
(──これは……、まさか空間転移呪術……!?)
その可能性に気付いた瞬間、南の方で空間が揺らぐのを感知する。それは小規模ながらも、確実に周囲に影響を及ぼしていた。
「……!」
その方角が何を示すのかに気付き、ザルームはすぐさま移動しようとするが、乱れた空間が邪魔して転移する事が出来ない事に気付く。
(……ミルファ様……!)
よりにもよって側を離れた時に──よもや、こちらの動きを『敵』が感知しているとは思えないが、まるで狙ったようなタイミングだった。
すぐさま空間を移動する事は出来ずとも、時間はかかるがこのまま『飛んで』帰る事は出来る。ザルームは一度ちらりと視線を神殿へ向けると、迷いを振り切るように身を翻した。