第三章 聖女ティレーマ(13)
「……パリルが……?」
「はい……、どうやら壊滅した模様です。原因は不明ですが……、残留している要素の様子から考えて、呪術かあるいはそれに類したものによって焼かれてしまったようです」
それは西へと順調に歩を進める中での、突然の知らせだった。
出発前の今後の進路を打ち合わせる軍議に向かおうとする所で、ザルームによって齎されたその知らせに、ミルファはその眉を顰める。
(何か仕掛けて来るとは思っていたけれど……。呪術……? 魔物ではなく? それに何故パリルに……)
近い内に何かしら動きがあるのではと予想はしていたが、内容はと言えばその予想を悉く覆すものばかりだ。
魔物の集団が差し向けられるかと思えば呪術のようなものが使われ、ティレーマのいる神殿が狙われるのではと思えば距離的にも離れた街が焼かれる。
関連性がない訳ではないだろうが、そこにどんな意図があるのか掴めない。
ちらりと脳裏をルウェンからの呪術のようなものを使う魔物についての報告を掠めたが、それが現れたとして、一般の民に牙を剥く理由を思いつけなかった。
「──パリルの住民はどうなった?」
「大半はその際に命を落としたようです。おそらく事が起こったのは夜半──多くは眠っていたに違いありません。生き延びた者はどうやらそのまま西へと下り、神殿へ助けを求めたようです」
「神殿というと……、姉上のおられる地方神殿、か」
「……はい」
「……」
ザルームとの受け答えの間にも、ミルファの頭は目まぐるしく働き、その事実をどう受け止めるべきか分析をしている。彼の言葉を信じるとして、果たしてそれが一体どう今後に影響するのか、考えてもうまく思い描けなかった。
まだ神殿自体が襲われたのならば理解出来る。パリルに近い地方神殿に、姉──聖女ティレーマがいるのは周知の事実なのだから。
だが、今回の一手は何を意図したものか判別つかない。
皇帝の狙いは、自分や姉の命だったはずだ。その為に街を占拠するような事は確かに過去にもあったが、その住民に害なす事はまずなかった。
相手の考えが読めない。それはミルファやティレーマに対する見せしめなのか、それとも他に何か意図があるのか。
理由がわからないままに、何者かによって帝都に属する小さな街が滅んだ。それも、呪術かそれに類したものによって。
……これが、敵──皇帝の背後にいる者の、一種の自己主張でなくてなんだと言うのか。
手の届かない場所で起こった惨事に苦い思いを噛み締めながら、ミルファは自分に今何が出来るかを考える。
「ミルファ様……、いかがなさいますか」
ザルームの何処か案じるような声に、ミルファは頭の中を切り替えた。事は、もう起こってしまった。ならば──これからそれにどう対処するかだ。
「……。取り合えず進むしかないだろう。今更ここから帝都に向かうにしても、相手の出方がわからなければどうしようもない」
ここから問題のパリルまでまだ相当の距離がある。かなり北上したとは言え、これから休息を必要最小限にして先を急いでも、数日はかかるに違いない。
──姉のいる神殿には、更にそこから数刻。手を伸ばして届きそうで届かない、その距離が歯痒い。
そして一体何を意図してパリルを壊滅させたのか、その理由がわからない事に不安と苛立ちが募る。だが今のミルファに出来る事はただ進む事、それだけしかなかった。
+ + +
重傷者の治療が全て終わったのはその日の昼近くになった頃だった。
いちいち数など数えてはいないが、おそらく十人やそこらではなかったはずだ。それでも最後まで微笑を絶やさずに、ティレーマは『癒しの奇跡』を行使し続けた。
一番最初の頃は荒れ狂う力に流されてしまいそうだったそれが、数を重ねる内に少しずつ加減が出来るようになったのが、不幸中の幸いと言えば幸いだろう。
「……後は、安静になさって下さい」
最後の一人、壮年の男の傷を治した瞬間、ティレーマの中では一つの達成感のような、晴れ晴れしい気持ちが生まれた。
──禁忌を犯した自覚はある。それでも今までずっと『ただ持っているだけ』だった力で人の役に立てた事は、ティレーマにとっては救いになった。
ありがとうございます、と笑い泣きの顔で繰り返す男の妻を後にし、ティレーマはゆらりと立ち上がった。
明け方から今までずっと働き通しだった身体は、とうに限界が来ていた。今にも意識を手放しそうになりながらも、気力だけで祈祷の間を後にする。
入り口の外には、やはり今まで自ら治療にあたっていた主位神官が立っていた。
「お疲れ様でした、聖女ティレーマ」
微笑む顔はいつもの穏やかなものだが、隠しきれない疲労の影が漂う。
「いえ。主位神官様こそ……」
主位神官の労いの言葉に、ティレーマは唇に薄く笑みを浮かべた。
今回の事は主位神官がティレーマの行いを見過ごしてくれたばかりか、支援する立場になってくれたからこそ出来た事だ。いくら礼を言っても言い足りない。
「……ありがとうございます」
「はて、何の事ですかな?」
軽く肩を竦め、『なかった事』にしてくれる主位神官に対し、ティレーマはゆるりと首を横に振った。
「本当にありがとうございます。わたくしは初めて……生まれ持ったこの力を、誇らしく思えました」
ずっと重荷に感じていた力。『聖女』の名。それが初めて役立ったのだ。
全ての人々の痛みを癒せた訳ではないが、あれほどの重症者がいながら一人の死者も出さずに済んだ事は、奇跡的な事に違いなかった。
『癒しの奇跡』を持って生まれて来た事を、素直に良かったと思えた。それが嬉しい。
「禁忌を犯した罰は甘んじて受けます。どうぞ、ご処分を」
疲労の色を濃く漂わせながらも毅然と面を上げるティレーマに、主位神官は困ったように微苦笑を浮かべた。
「処分などいたしませんよ」
「何故……」
「そうなると私も同罪になりますからね。禁忌だとわかっていながら、あなたが『癒しの奇跡』を行使するのを止めなかった」
主位神官のその言葉に、ティレーマはさあっと青褪めた。
「それは……! 違います、わたくしが勝手にした事です! 主位神官様は、暴動すら起きかねなかったあの場を収めて下さっただけで……っ!」
必死に言い募ろうとするのを、主位神官は視線でやんわりと制す。そしてゆるりと首を横に振った。
「どう言い繕っても私は自分の言葉をなかった事には出来ません。……取り合えず、聖女ティレーマ。あなたは休息を取るべきです。立っているのもやっとの状態で、そんな風に興奮するものではありませんよ」
「ですが……!」
なおも言い募ろうとした瞬間、すうっと目の前が暗くなった。
(あ……)
貧血に似たその感覚と共に、平衡感覚が失われる。確かに足は床を踏んでいるのに、その感覚がない。帳が下りるように、視界が閉ざされてゆく。
「聖女ティレーマ……!?」
遠ざかる意識の中、慌てたようにこちらに手を伸ばす主位神官の姿が見えた。
(駄目、こんな所で倒れては……また、迷惑をかけ──)
必死に思考を繋ぎとめようと努力する。しかしその努力は報われる事なく、ティレーマは押し寄せる波に攫われるように、そのまま意識を手放していた。