第三章 聖女ティレーマ(12)
やがて、適切な治療があれば問題がない程になった所でティレーマはようやくその手を放した。
全てを癒してしまうよりは、少しでも本人持つ治癒力を使って治した方が良いと判断したからだ。
「──わたくしに出来るのはここまでです。後は治療を受けて安静にしてください」
ティレーマの疲れの滲んだ掠れた言葉に、固唾を呑んで見守っていた老婦人の身体から力が抜けた。
「あ……、ああ……」
その目からは涙が零れ、その手が恐る恐る今は静かに眠る幼子の頬に触れる。もうそこにはいつもと変わらない温もり──生きている者の熱があった。
その事でようやく実感が得られたのか、老婦人は喜びを隠さない顔をティレーマに向けると、再び額を床に擦り付けんばかりに下げる。
「ありがとうございます……っ! な、なんとお礼を言ったら良いのか……、ああ……!!」
「いえ……、お礼など必要はありませんよ」
嬉し泣きする老婦人を抱き起こし、ティレーマは微笑む。その笑顔は何処かぎこちなく、差し伸べた手は微かに震えていたが、老婦人は気づかなかった。
今、ティレーマの身体の中ではまだ目覚めた力が荒れ狂っていた。先程よりはまだ落ち着いたものの、それでもまだ眠りにつく様子はない。
目覚めさせたものの、どうやればそれが治まるのかティレーマにはわからなかった。
それが『癒しの奇跡』を中途半端に行使した為なのか、それとも自分の力が強い為なのか──それすらも判断出来ない。
だが、取り合えず一つの小さな命が救われたのは確かだ。その事は純粋に嬉しく思えた。
しかし──問題はここからなのだ。
今の出来事を目の当たりにし、『聖女』の名を呼びながらそれがどういうものかまでは知らなかった人々も、自分の持つ力がどのようなものか理解したはずだ。
それに対して、どのような反応が返ってくるか──想像すら必要とはしない。だからこそここに来る前に遭遇した神官は止めたのだし、ティレーマもわかった上で力を使ったのだ。
「すごい……!」
「あんなにひどかった怪我が……!?」
やがて予想通りに、人々が騒ぎ始める。たちまちティレーマの周りに人だかりが出来た。
「あたしのお父さんを助けて下さい……っ」
「妻を、妻をお願いします!!」
「聖女様、うちの子にも……うちの子にもお力を──!」
救いを求めて伸ばされる、数々の手。その全てに応えなければならないと思うのに、そのどれを取ればいいのか、ティレーマはわからなかった。
この中の一人を選べば、選ばれなかった人々は焦り、嘆き──もしかしたら暴動まで起きてしまうかもしれない。その可能性にティレーマの身体は竦む。
──選べない。
家族や恋人、そして子供──大切な者を喪いたくないという思いの強さはどれも同じ。それがわかるから、ティレーマには彼等の中から次の一人を選ぶ事が出来なかった。
(どうしたらいいの……)
途方に暮れたその時、思わぬ所から助け舟が出された。
「静まりなさい……! 聖女殿が困っておられるだろう!」
口々に訴える人々の声に、静かだが鋭い声が割って入る。
予想外の所から飛んだ制止の声に、パリルの民も思わず口を噤み、声の主に目を向ける。そこにいたのはこの神殿を預かる主位神官だった。
「主位……神官様……」
その声でようやくその存在に気づいたティレーマは、呆然とその名を呼び、慌てて居住まいを正した。
「……申し訳ありません、許しもなく勝手な事を……」
そうして頭を下げるティレーマを一瞥したものの、主位神官は特に何も言わなかった。代わりにパリルの民に対して口を開く。
「皆の要求はわからないでもない。誰しも、喪いたくない者がいる。だが聖女殿は一人しかおらぬ。そしてその手は二つしかない。皆が一斉に手を伸ばしても、一度に全てを取る事は出来ないのだよ」
「で、でも……!」
「うちの家内も、その子と変わらないくらいひどい怪我なんですよ……!?」
「そうだ、うちのオヤジだって!」
「──まずは体力のない老人や子供、もしくは時間の猶予のない者を優先しなさいと言っているのです。……それで宜しいか、聖女ティレーマ?」
「……主位神官様……?」
てっきり自らの愚行を非難されるかと思っていたティレーマは、目を丸くする。
その言い様では、まるでティレーマの行いを肯定するかのようではないか。実際、上位に当たる彼の言葉に、周囲の神官達も当惑を隠せない顔をしていた。
普段は穏やかな人好きのする笑顔を浮かべている主位神官は、その間、一度も笑顔を見せなかった。常にない厳しい表情でそこに立っている。
だがその目はティレーマの途方に暮れたような目と合うと、一瞬だけ和らいだ。
──困った方だ、そう呟くように。
実際には口にせずとも、決して彼がティレーマの行いを否定してはいない事がそれだけで伝わって来る。そしてそれを証明するように、主位神官はティレーマを支援するように更に言葉を重ねたのだった。
「まずは神官に状態を看させます。命の危険に関わると判断した場合にだけ、聖女殿に動いて頂く。──それで納得していただけますかな」
一方的な言葉に当然ながら、そんな! と、反論が上がる。
彼等も必死なのだとわかるから、当事者であるティレーマは口が挟めなかった。第三者でありながらも、長くこの神殿を預かり、民の馴染みも深い主位神官だからこそ彼等に意見が出来たのだ。
「……命がけなのは、聖女殿も同じ。生命の危険を知りながらも、自身には何の非もないのに傷付いた者を救おうとして下さっているのですぞ? あなた方はその献身を自らの一方的な要求で踏みにじるつもりか……!!」
一歩も譲らないその一喝は、目の前の事しか見えていなかった彼等の目を僅かながらも覚まさせる力を有していた。人々は気圧されたように沈黙し、そしてばつが悪そうな顔で一人ひとり、元いた場所へと帰って行く。
「……ありがとうございます、主位神官様」
人々が去ってゆくのを横目に見ながら、ティレーマは慌てて立ち上がり、主位神官へ声をかけた。
彼がいなかったなら、こうもうまく場を収める事など出来なかったに違いない。そう思うと自然に頭が下がる。だが、その言葉にようやく表情を和らげると、主位神官はゆるりと横に首を振った。
「いえ、聖女ティレーマ。礼を言うのは、むしろこちらですよ」
「え……?」
思いもしなかった言葉に、ティレーマは目を見開く。
「で、ですが……、わたくしは、禁忌を……!」
「確かにそれは神官としては問題があると思いますが……、もしあの子供を前にして禁じられているからと何もしなかったのなら、私はあなたを人として軽蔑していた事でしょう。それに……、その無茶のツケを、あなたは十分払っている」
そう言ったと同時に、主位神官の手がトン、と軽くティレーマの肩を押した。
「……ッ!」
軽く上半身を押される程度のそれに、ティレーマの身体は信じられない程に大きく揺れた。
かろうじて倒れずに済んだものの、足腰に力が入っていない事がそれで露呈してしまう。さっと頬を赤らめるティレーマに、主位神官は静かに告げた。
「──『癒しの力』は摂理を覆す力。故にそれを使う者にはそれ相応の代償を求められる。……その対価は、生命力、あるいは生命の時間そのものだと聞き及んでおります。それすなわち、替えのきかないもの。失われれば、二度と元に戻らない。つまり下手すれば己の命さえ落とすのに、あなたは幼子の命を優先させた。……あなたの勇気に敬意を表します、聖女ティレーマ」
それは、ぎりぎりまで自分を追い詰めていたティレーマの心を潤し癒す。
生まれて初めて、己に『癒しの奇跡』がある事を誇らしく思う。
大変なのはこれからだとわかっていたし、うまく行く保障など何処にもなかったけれど──このまま一人の死者も出さずに済むかもしれない。
自己犠牲的だと言われても否定は出来ない。けれど必ず成功させたい、そう思わずにはいられなかった。……たとえ本当に、この命がここで果てる事になろうとも。