第三章 聖女ティレーマ(11)
案内されたそこは、神殿一角──毎朝ティレーマもラーマナに祈りを捧げていた祈祷の間だった。
パリルから命からがら逃げてきた人々を一度に収容するには、玄関から入ってすぐにあるこの部屋が一番適当だったのだろう。
平常時ならば許される事ではないだろうが、この非常時である。唯一の神と崇められるラーマナも怒りはすまい。
焼き出されてきたせいか、その場の空気は血の臭いに何処となく焦げたような臭いが混じる。
そんな中で人々は皆、疲労の為か、降って湧いた災難にまだ心が付いていっていないのか、表情を失くした顔で思い思いの場所に座り込み、あるいは横たわっていた。
空を赤く染めた程の炎を思い出し、今更ながら彼等がどれ程の恐怖を味わったのかと想像し、ティレーマはその表情を曇らせる。
彼等の受けた痛みを完全に理解する事は出来ないが、疲労感を漂わせた彼等の姿は言葉がなくともその一端を雄弁に語っていた。
(……なんてひどい……)
同情するだけならば簡単だが、そう思わずにはいられない痛ましい光景が続く。
多くが神官達の迅速な対応によって応急処置を受けているようだが、まだまだ怪我人はいるようだ。
「こちらです……!」
人の波を掻き分けるようにして先に歩く老婦人の足取りは、確実に早まっている。その後に続いたティレーマは、やがて壁によりかかるようにして座っている小さな人影を見つけた。
丁度手当てをしている最中なのか、中年の神官が二人がかりで動いている。やがてその片割れが老婦人とティレーマに気付いてその手を止めた。
「……聖女ティレーマ?」
何故ここに、と疑問を隠さない声を遮るように、老婦人は声をあげる。
「……ディレク! ディレク、しっかりおし!! 聖女様が来て下さったからね……!!」
その言葉に神官達はぎょっと目を剥き、どういう事かとティレーマに視線を投げる
だがティレーマは彼等の視線を気にする所ではなかった。老婦人の孫──ディレクというらしい──の傷が、あまりにもひどかった為だ。
建物が倒壊した際に瓦礫の下敷きになったのか、左腕は見るからに赤黒い内出血で斑になっている。ただ骨が折れただけとは思えない。
しかも反対側の左半身は広範囲に渡って火傷を負っていた。かろうじて肉の薄い胸が上下しているが、ぼんやりと虚ろに開かれたその目は何処も見ていない。
五歳辺りだろうか。ここまで老婦人が一人で背負って来たらしい所を見ると、もしかするともっと幼いのかもしれない。体力的な事を考えても、ここまでもっている事が不思議な程ひどい状況だった。
冷やすにしても今は夏で氷などなく、しかもそれを必要としている人間は山のようにいる。
神官達はそれでも何とか手を尽くそうと、鎮痛効果のある薬草と冷却効果のある薬草をすりつぶしたものを塗って、子供の苦痛を少しでも軽くしようとしているようだった。
……はっきり言えば、その程度しかもう尽くす手がないのだ。時間の問題──それがティレーマの見立てだった。
この場には怪我人が山程いる。今でさえ、何事かとこちらを見る人々が後を絶たない。そんな状況で『癒しの奇跡』を使えばどうなるか──誰でも簡単に想像出来る。
……けれど。
『……──死ぬ気ですか』
耳に甦った言葉を振り払い、ティレーマは軽く呼吸を整えると、その場に跪いた。
そしてそっと、何とか無事な子供の左手を取る。その手は冷たく、力を感じられない。その事に、ひやりと不吉な感覚を感じ取る。
もはや死は、この幼い命を肉体から今にも切り離そうとしている──!
「聖女様……!」
同様に跪き、不安を隠さない顔で見つめてくる老婦人に、一度安心させるように微笑みかける。
ティレーマとて、ここから状況を改善出来る自信などなかった。力は持っていても、使用を禁じられて来た身だ。使い方を練習する事さえ、した事もない。
それでも、ここに救う力があるのなら──やれるだけの事はしたかった。
「……唯一の神にして、天秤を司る神ラーマナよ。我は御身に永遠の献身を誓う者なり」
目を閉じ、心を落ち着け精神を高めるべく聖句を口にする。
「神よ、我が願いを聞き届けたまえ。この幼き命へ死の翼を授ける事を、今しばらく留める事を我は願い奉るなり……」
神の御名を唱えずとも、力を行使する事は出来るはずだった。遠い昔、萎れて形を失った花を元通りにした時のように。
しかしそこで聖句を唱えたのは、ティレーマ自身の気持ちを落ち着ける為だったが、多少なり見守る形になった二人の神官を牽制する役割もあった。
この状況で流石に力を行使する事はないと思ったのか、神官二人はティレーマが聖句を唱えた事で、幼い子供が少しでも苦痛から解放されるように祈りを捧げに来たのだと思ったようだ。
止めもせずに、逆に彼等も神への祈りを捧げる姿勢を取り、聖句こそ唱えないまでも祈りを捧げている──これから何が起こるかも知らずに。
──これから使う力は、摂理に反する力。今まで禁じられてきたのは、相応な理由が存在したからに他ならない。
少し怪我の治りを早くしたり、病の進行速度を緩めたり──その程度ならば、『聖女』だけに限らず、神官の中では多くはないが珍しいほどの力ではない。
実際、大神殿に入る者の大多数がそうした軽い『癒し』の力を持っている。聖女と呼ばれる者が異端とされるのは、その度合いがあまりにも大きすぎるからだ。
それは言うならば『無』から『有』を生み出す行為。決して遡る事なく流れ去るだけの不変の理を覆すが故に、異端だとされるのだ。
均衡、秩序──それらを司るラーマナの教義に真っ向から逆らうが故に。だが、ティレーマの場合はそれだけで禁じられた訳ではなかった。
ドクン……!
集中が高まると同時に、心臓が一度激しく脈打った。
びくっ、と小さくティレーマの肩が震える。それはこれから禁忌を自分の意志で犯す事に対しての、一種の戦きだったのかもしれない。
胸の奥底に熱が生まれる。それはすぐさま力へと姿を変え、ティレーマの中で出口を求めて暴れ始めた。
駆け巡る、熱。今まで封じてきた為か、その暴走は時間と共に激しさを増してゆく。
「……っ」
内から──外へ。
今にも皮膚を突き破って外へと飛び出そうとする力を必死に抑制し、それを手を介して子供の方へ流れるよう仕向ける。それは思った以上に精神力を必要とした。
少しずつ、少しずつ。
一度に全てを送っても、相手の身体が受け入れきれないだろう事をティレーマは教えられずとも知っていた。
健常体であるティレーマでも、気を抜けばどうなるかわからない程に強い力だ。河岸に足を踏み出しかけている幼い子供の心臓が耐えられるとは思えなかった。
……だからこそ、焦らずに少しずつ。
流石にその頃になると見守っていた神官もティレーマの様子がおかしい事に気付く。だが、彼等が声をかけようとするのを引き止める手があった。
先程ティレーマを諌めようとした神官と──彼の報告を受けて駆けつけた主位神官である。
厳しい表情を浮かべながらも、口を挟むなと視線で訴える彼等に、神官二人は口を噤んだ。この神殿の最高権威である主位神官に逆らうなど出来るはずもない。
ティレーマは自ら禁忌を破った。それは当然、何らかの罰則が与えられても仕方のない事だ。
しかし、だからと言ってここで無理矢理中断させて、不用意に集中を途切らせる危険を、主位神官は選ばなかった。そうしてはならない、そう判断したのだ。
……そして、それは実際正しい判断だったのだが、今のこの場にそれを理解している者は本人を含めて誰もいなかった。
そんな事にも気づかない程に神経を集中させているティレーマの努力は実り、やがて子供の呼吸は次第に安らかなものになり、色が変わっていた肌が元の色を取り戻してゆく。
呪術のように、すぐに目に見えてはっきりとわかる変化ではなかったが、見守る者の目にはそれは正しく『奇跡』に映った。
そう──それはまさに人智を超えた、神の定めた摂理を覆す『癒しの奇跡』──……。