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天秤の月  作者: 宗像竜子
第三章 聖女ティレーマ
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第三章 聖女ティレーマ(10)

 ふと、階下が慌しくなった気配がして、ティレーマは寝台から身を起こした。

「……?」

 気のせいだろうか、そう思った瞬間、次に感じたのはぞくりとした悪寒。

 思わず自らの身体を抱きしめ、無意識に周囲を見回したティレーマは、やがて窓から見える光景に目を奪われた。

(何……?)

 東の空が、赤く染まっている。だが、それが朝焼けなどではない事はティレーマにもわかった。夜明けが近い時分なのは確かだが、太陽ならばもっと明るい光が放たれているはず。

 ──燃えているのだ。パリルの街が燃えている……!!

「……っ!!」

 認識すると同時に寝台を降り、すぐに身支度を整える。

 髪を結い上げるのももどかしく、部屋を飛び出した。廊下は走るものではないが、今回ばかりはそうも言っていられない。

 階下に向かうべく階段の所に辿り着いた時、下から取り乱したような人々の声と激しい赤ん坊の泣き声が聞こえてきた。

 この時間帯に一般の民が集うなど有り得ない。やはり、何かが起こったのだ。

「……聖女ティレーマ!」

 階段を降りようとした所で、丁度下から昇ってきた若い神官が声をかけてくる。その顔には深い焦燥があった。

「駄目です、今日は姿をお見せにならないで下さい……!」

「──どういう事ですか。一体、何が?」

 明らかに緊急事態なのに、姿を見せるなとはどういう事だろう。いぶかしむティレーマに、神官は青褪めた顔で状況を説明した。

「……パリルが壊滅しました。住人の方の話では、魔物が集団で襲撃してきたそうです」

「!?」

 あまりの事に絶句する。

 パリルで何かあったのは確かだが、よもや魔物の仕業とは思わなかったのだ。しかも──集団で襲ってくるなど、知る限りでは今まで一度もなかったこと。

「被害状況は?」

「詳しい所はわかりません。ここまで逃れて来た人々はまだ落ち着いておりませんし……ですが、証言のいくつかを総合するとここに来れた者以外はもう……」

「……っ」

 皆まで語らずとも、どういう状況なのか理解出来た。

「……──怪我人はいるのですか」

「はい、多くは軽症ですが……っ、駄目です! 聖女ティレーマ!」

 横を通り抜けて階下へと降りようとするティレーマを、神官が慌ててその腕を掴んで引き止める。

「何故止めるのです? 怪我人がいるのなら、手はいくらあっても足りないでしょう?」

 今も階下から苦痛を訴える声が聞こえてくる。その中には幼い子供の声も混じっていた。

「だからこそです! 御自身の立場を忘れないで下さい。あなたは──『聖女』なのですよ!?」

「──ではあなたは、聖女だからと苦しんでいる人を見て見ぬ振りをしろと言うのですか!」

 神官の言わんとする所を理解し、ティレーマは引き止める神官を睨んだ。その視線と言葉の鋭さに、一瞬気圧されたように腕を掴む力が緩む。

 その隙にその腕を振り払うと、ティレーマは一気に階下へと駆け下りた。

「……聖女ティレーマ!!」

 追いかけてくる声を無視して下へと降りると、そこは苦痛の声と常にない血の臭いが立ち込めていた。

 玄関部分では足りずに廊下に所狭しと人々がうずくまり、あるいは倒れている。

 その惨状に思わず息を飲み、まずは近くに倒れている女性を看ようと動きかけた時、ぐい、と強い力で腕を取られた。

 何かと見ると、それは髪に白いものが見え始めた初老の婦人だった。腕を掴む力は恐ろしく強く、一体何処からそんな力がと思える程だ。

「どうなさいましたか?」

 老婦人には見た所大きな外傷はない。腕に包帯が巻かれている所を見ると、応急処置はすでに済んでいるようだ。しかし老婦人はティレーマのその問いに、縋りつくような目で訴えかけた。

「聖女様、お慈悲を……!」

 腕を掴む手は絶対に離さないと言わんばかりに更に力を増す。その痛みに思わず顔を顰めつつ、ティレーマは出来るだけ穏やかに話しかけた。

「何があったのですか。どうぞ落ち着いて……」

「孫を……、孫をお助けください……!」

「……孫? お孫さんがどうなさいましたか?」

「死にそうなのです……!」

「──……」

 老婦人のきっぱりとした言葉に、言葉を失う。そんなティレーマの様子に気付かず、老婦人は更に言い募った。

「も、もう……、意識もなくて……。どうかお願いします、聖女様のお力を! 聖女様のお力は、どんな怪我でも治すのでしょう!? どうぞ、どうぞ、お慈悲を……!!」

 終いには身体に縋り付いて来る老婦人をなだめる事も出来ず、ティレーマは立ち尽くした。そして、今になって理解する。先程の神官がどうして自分を引きとめようとしたのかを。


『あなたは──「聖女」なのですよ!?』


 ……決してその事実を忘れていた訳ではない。

 自分の持つ力がどのようなものか、ちゃんと理解はしていた。けれど──。

「落ち着いて下さい……! 聖女を困らせてはなりません、お孫さんは今、我々が治療に当たっていますから!!」

 追い着いてきた神官が慌てて老婦人を引き剥がし、宥めようとする。

 しかし、周囲が見えていない老婦人は腕を振り回して暴れ、なおもティレーマに縋りつこうとした。

「いや、離して…っ、お願いします、聖女様……聖女様── !!」

 伸ばされた骨ばった手、必死に自分を見つめる血走った瞳──。

「なりません……! 聖女の力はみだりに使ってはならぬもの……特定の一人に対してのみ使って良い力ではないのです……!」

 神官は必死に説得するが、老婦人はまったく聞く耳を貸さない。その目は立ち尽くすティレーマだけを映していた。

「お願いします……、どうか……他の家族は皆……、あの子だけなんです、聖女様!!」

 血を吐くような訴えに、ティレーマは眩暈を感じた。その頭の中を、いくつもの声が駆け抜ける。


 ──聖女の力はみだりに使ってはならぬもの……


 それは今、目の前の神官が口にした言葉。


 ──その力は、決して使ってはならない。聖女ティレーマ、御身が神官である前に皇女である事を忘れめされるな……


 それは西の主神殿で、『聖女』の認定を受けた時に言い含められた言葉。


 ──聖女様のお力は、どんな怪我でも治すのでしょう!?


 それは──老婦人が口にした、訴え。

(使ってはならない力……では何の為に、今ここにあるのですか? 我が神ラーマナ)

 過去に何度も問うた疑問。けれど今まで一度もその答えは得られなかった。

(今、ここに……この手に、傷付いた人達を救える力があるのに)

 そしてティレーマの瞳に、本来の意志の光が戻る。

 禁じられた『聖女』の力──『癒しの奇跡』。それは今のような時こそ役立つものではないのか。

 それがラーマナの教義に背くものでも、今ここにあるものを使わずして、どうして『聖女』としての敬意だけを受けねばならない?


 ──御身を第一とお考えなされませ


(……この身にどれだけの価値があるというの? 皇帝の血を引くだけで、どうして……。今回の事も、もしかしたらわたくしがここにいるからこそ起こった事かもしれない。無関係の多くの人々が、命を落としていいはずがないのに……!)

 耳に残る主座神官の言葉を振り切るように、ティレーマはぎゅっと手を握り締めた。禁忌を犯す恐れと──長い事封じてきた力に向かい合う恐れ、それはどうしても拭い去れないけれど。

 ……心は、決まった。

「その方を離してあげて下さい」

 ティレーマの言葉に、老婦人を押さえていた神官が驚いたように顔を向けた。

「……聖女ティレーマ?」

 その顔に微笑みかけると、ティレーマは今や床に座り込む形になっている老婦人の前に膝を着いた。

「どこまでやれるかわかりませんが……手を尽くしましょう。お孫さんはどちらに?」

「な……っ!?」

 ティレーマの言葉に、神官はさっと青褪めた。

「何を仰います! わかっているのですか、怪我人は一人だけではないのですよ!? 一人に手を伸ばせば──!」

「伸ばされる全ての他の手に応えねばならない。それがラーマナの教え。……覚悟の上です」

「しかし!」

「……わたくしは『聖女』の名を持つ者。それだけが、わたくしの真実。ならば──その名に恥じぬよう、力を尽くすべきだと考えます」

 きっぱりと言い切った言葉に迷いはない。

 その決意に満ちた姿にもはや何を言っても無駄だと判断したのか、疲れたように小さくため息をつくと、神官は老婦人を押さえつけていた手を離した。

「さあ、行きましょう」

 そのまま崩れ落ちそうになる老婦人にティレーマが手を差し伸べると、老婦人は信じられないようにその白い手をまじまじと見つめた。

 やがて、その目からぼろぼろと涙が零れ落ちる。

「せ、聖女様……、ありがとう、ありがとうございます……!!」

 そのまま床に額を擦り付けんばかりに頭を下げるのを、そっと抱き起こす。

「お礼を言われるような事は、まだ一つもやっておりませんよ? さあ、顔を上げて。お孫さんの所へわたくしを連れて行ってください」

「は、はい……っ」

 涙を流しながらも、状況を思い出したのか、老婦人が慌てたように立ち上がる。こちらです、と先に立って歩く後に続こうとした所に、それまで黙っていた神官の声がかかった。

「聖女ティレーマ……!」

 制止するような鋭い声に、一度足を止めて振り返ると、神官は感情を押し殺したような低く掠れた声で問いかける。

「……──死ぬ気ですか」

 その目は怒っているようでもあり、禁忌を犯そうとするティレーマを信じられないようでもあり──心の底から心配しているようでもあった。

 そんな複雑な思いの絡んだ視線を受け止め、ティレーマは鮮やかに微笑んだ。

「ここで力尽きるのならば、それがわたくしのラーマナに定められし命数なのでしょう。……でも、簡単に命を手放す気はありませんよ?」

 そしてもう二度と振り返る事なくその場を立ち去る。

 ──それがこれから続く、長い戦いのほんの始まりに過ぎない事を知らないままに。

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