第三章 聖女ティレーマ(9)
境界の街・パリル。
そこは帝都と西領を分かつ境界線上の真上に立つ、小さな宿場街である。
周囲は見晴らしのよい、なだらかな丘陵地帯。四季を通じて天候も気温も安定している事もあり、かつては余暇を楽しむ為や療養を目的として訪れる人間も多い場所だった。
そこに住んでいる人間は決して多くはないものの、そこから西へ少し下った場所に地方神殿が建てられたのも、そうした人の流れの多さを考慮した為だと言われている。
帝都でもあり西領でもあるパリルは、形式上は帝都の管理下に置かれてはいたものの、その特殊性により、実際には帝都でも西領でもなく、街の人間による自治が主体となって日々が営まれていた。
帝都から西領への通り道に当たり、過去に幾度も帝軍による拠点の一つとされながらも、今まで荒廃せずに現状を保てているのはその為である。
「最近、平和だよなあ……」
パリルの青年を中心に組織された自警団の青年は、西へと沈む夕陽を眺めながら同様に街の入り口を守る友人に話しかけた。
「この間まで、しつこい位に兵士がここまで来ていたのに、ここ二月ばかりはさっぱりだ」
「いい事じゃないか。皇帝陛下も、流石に聖女様にまで手を出すのは良くないと思い直されたんじゃないか?」
「……そうだといいけどさ」
しばし、沈黙。
何処かそわそわする青年に、友人は何なんだと視線を送る。それを受け止め、青年は意を決したように口を開いた。
「聖女様と言えばさ。……俺、この間神殿に行ったんだよ」
「はあ? 神殿? ……何でまた」
彼の口から飛び出した予想外の言葉に、友人は目を丸くする。言外に『変な奴』と言っているようなその表情にムッとなりつつも、青年は我慢した。
実際、普通に生活をしている限り、余程ラーマナへの信心がある人間でもなければ、歩いて数刻往復で半日かかる神殿になど行く者はいない。
その反応が返って来る事は予測していたものの、一瞬でも『もしや』と勘繰ってくれもしない友人に少し物悲しい気持ちになりながら、青年は今日こそは告げなければと思っていた事を口にした。
「その──そろそろ、結婚しようかと思って、さ」
「……!!」
そう、神殿は冠婚葬祭を司る場所でもある。
神殿が間近にない辺境ならばその限りではないが(呪術師などが代わりを務める地域もある)、特に結婚と葬儀は神殿の祝福を受ける事が正式となっており、彼は神殿でその担当である神官に式の日取り等を相談してきたのだ。
沈み行く夕陽の投げかける光のせいだけではなく、耳まで赤く染めての告白に友人はさらに目を見開き──次の瞬間破顔すると、口元をにやつかせながらバシッと力任せに青年の背を叩いた。
「げはっ!?」
「やりやがったな、コイツ!! ははっ、そりゃめでてえじゃないかよ!」
言いながらもバシバシと容赦なく背中を叩く。彼にとっては祝福と親愛の証だったが、受ける方は堪ったものではない。
「ちょ、落ち着けって、オイ!?」
「これが落ち着いていられるか!? 他の奴等にも知らせねえとな! ……それで、相手は誰だ? ナタリーかミランダかエイシャか!?」
「テメェ、そりゃお前んちの豚の名前じゃねえかっ!? クリエだ、クリエ!!!」
容赦ない祝福に加え、冗談にしても未来の伴侶の名に家畜の名を挙げられた青年は、照れ隠しもあって友人へと殴りかかる。
「チクショウ、豚に女の名前なんぞつける変態が……!」
と、青年が悪態をつけば。
「何ィ!? いいか、豚はなあ、愛情を込めて育てると、そりゃあ美味くなるんだよ!!」
と、友人が応酬する。
徐々にそのやり取りは本来の道から外れていったが、そこに憎しみはない。正しく『平和』の一言で表現できる、遠慮のない友人同士のじゃれ合いである。
……そんな彼等を見守る夕陽はやがて大地の果てに姿を消して。そしてその日も、平穏の内に一日を終える。
──誰もがそう、信じて疑いもしていなかった。
+ + +
異変が起こったのは、夜中。
まだ日付が変わるには少し早いが、パリルの人間の大半が眠りに就いていた時分の事だった。今夜の不寝番となった男は、ふと違和感を感じて眉を顰めた。
(……何だ? 今、何か、変な感じが……?)
きょろきょろと辺りを見回し、しばらく考え込んだ男は、やがて違和感の原因に気付いた。
──風が、ない。
つい先程まであった快い風が今は完全に凪ぎ、代わりに心持ち生温かく感じる空気が淀んでいる。
いくら夏でもその過ごしやすさで知られる場所である。パリルで生まれ育った男が、その事を異常に感じたのも無理はなかった。
やがて違和感が不審に、不審が不安に変わる頃──男の目は帝都の方からゆっくりと近付いてくる影の存在に気付いた。
月明かりの下、パリルが少し高台に位置する事もあり、遮るもののない開かれた場所でその影は目立つ。
動く影は複数。近年珍しい、なかなかの大所帯のようだ。何かと物騒な今の時分、旅団を組んで動く事自体は珍しくも何ともない。
だが、その影には普通の旅団ならば有り得ないものが見受けられた。
(──ッ!? な、何だ、あれは……!?)
まさかと思い、目を凝らしてもう一度確認する。そして見間違いではないと確認した瞬間、男は思わず後ずさり、足を取られてその場に尻餅をついていた。
尻から腰へと走った鈍い痛みに顔を顰めながらも、目は影から離せない。
「う、嘘だろ……ッ!?」
やがて口をついて飛び出したのは、幾分上ずった悲鳴じみた声だった。
幾度も目を擦り、頬を抓っても、それは消えない。夢ではなく現実なのだと主張する。
大小様々な影──最初は遠近感がわからなくなっているだけかと思ったが、実際人よりも何倍も大きいのだと理解する。
その影に見えた、有り得ないもの。それは──翼。
背に羽を生やした巨人など、人間であるはずがない。少なくとも、そんな人間がいるなど男は聞いた事もなかった。
すなわち──その異形が示す事は、たった一つ。
「ま、魔物だ──ッ!!」
やがて夜の静寂に、男の絶叫が上がる。その男の声が聞こえたのか、まるでそれが切っ掛けのように、魔物の一団にあった翼を持つ魔物達が動いた。
バサリ、と数度調子を見るように羽ばたかせたかと思うと、次々に空へと舞い上がってゆく。
高く、高く──やがて遥かな天の高みから地上を見下ろして、その長い腕が天へと掲げられた。
その手の先に小さな光が生まれたのを男の目は目撃したが、魔物と男のいる場所の間の距離が相当のものだった為に、魔物達が何をしようとしているのかわからない。
何だろう、あの光は──そう思った刹那。
……街は、無数の光の雨を受けて燃えた。
+ + +
その日、パリルの名は歴史に刻まれた。
ただし本来の宿場街としてではなく、一夜にして滅んだ街──魔物によって滅ぼされた街として……。
無情な光の雨は、次から次へと降り注いだ。
遠くから見る分には、それはある意味美しい光景ではあった。しかし、それは建物を焼き、大地を焦がし、人の命を奪い去る恐ろしい光。
多くが眠りの中にあったが故に、その犠牲者は街の人口の八割を超えた。
倒壊した建物から、何とか生き延びた人々が這い出した時、彼等の前にいたのは彼等より二回りは大きい異形の存在だった。
魔物はいきなり襲いかかりはしなかったが、そこにいるという事実だけで人々を恐慌状態に陥らせるには十分だった。
彼等は自分達の身に何が起こったのかもよくわからないまま、慌て、戦き、逃げ惑う。
炎を避けて街の外へと出た彼等は、自然と西へ向かっていた。
西──恐怖に支配された彼等にとって、唯一の心の支えである唯一神ラーマナの神殿に向かって、ただひたすらに走る。
怪我の軽いものは怪我の重いものを背負い、あるいは肩を貸し、救いを求めて進む。
魔物が追いかけて来ない事も、そもそも何故魔物がいきなり襲ってきたのかも疑問に抱く事なく。
──ただ生き延びる事、それだけが彼等の心を支配していた。