第三章 聖女ティレーマ(8)
帝都へ入るのに先駆けて、西領にいる姉へ手紙を出してから十日余り経つ頃、ようやくその返事がミルファの元へと届けられた。
こちらからは帝都を経由する危険を考えて、セイリェンから直接パリルまで鳩を飛ばしたが、こちらが動き出した後は向こうからは人を走らせるより手はない。
十五年もの間、一度もやり取りのなかった姉からの手紙を受け取り、ミルファは何だか不思議な新鮮さを覚えた。何故だろう、としばらく考えた後、やがてその理由に気付く。
──血の繋がった人間から手紙を受け取ったのが初めてだという事に。
東領に兄がまだ生きていた頃もやり取りはあったが、全て間に人を介した口伝えのもので、こうして文章という形で直接やり取りをする事はなかったのだ。
「……変な、感じ……」
思わず呟きながら手の中の書簡を見つめると、本当に姉がいるのだという実感が湧いてくる。今まで人伝えの噂程度しか聞いた事のない、遠い存在だったのが、急に現実味を帯びた気がした。
封を切り、中身を改める。几帳面さを感じさせる、丁寧な文字で綴られた文面だった。
果たして姉は、どんな言葉を返してくるのか──幾分緊張を隠せない表情でそれを見つめていたミルファの顔は、読み進めるに従って綻び、終いには微苦笑へと変わっていた。
「ザルーム」
読み終えると、ミルファは彼女の影を呼んだ。
すぐさま見慣れたローブ姿が現れたかと思うと、気遣うような声が布の内から聞こえてくる。
「──ティレーマ様からは、何と?」
ティレーマへ手紙を出す事は、すでにザルームの耳にも通していた事だった。その問いかけにミルファは頷くと、ひらりと手にした便箋を振り、微苦笑を浮かべたまま答える。
「……怒られた」
「……」
余りにも簡潔にして予想外の答えだったのか、珍しくザルームが絶句した。その反応にミルファの苦笑はさらに深くなる。
ミルファ自身、予想を覆される内容だったのだ。
『あなたは南領だけでなく、西領までも戦場にするつもりですか?』
決して過激な言葉は使われていなかったが、そこに綴られた言葉は予想以上に厳しいものだった。まさに、『説教』と表現して差し支えないような。
「流石は西の端にある主神殿から民を守るが為に単身出て来られた方だ。かなり手厳しい」
「拒絶……、なさいましたか」
鳩に託した手紙には、西に向かって盾になる事と、父へ剣を向ける罪を見逃して欲しい事、そして──叶うならば一度会って話をしたい、という旨を書いた。
東領で絶命した兄、ソーロンの時には果たす事の出来なかった。いつかわかり合える──そんな悠長な事を考えて、こちらから動こうとはしなかった。
その後悔は今もまだ、胸に深く刻まれている。だからこそ、手紙を書いた。……拒絶されれば仕方がない、と思いながら。
「それが……、そちらに関しても少し予想外の反応が返って来た」
「予想外、ですか?」
「曰く──『どちらにしても止めても来てしまうのでしょうから、その事に関してはわたくしの意見を述べるだけに留めます。その代わり、直接会う機会があれば、わたくしから一言ある事を覚悟なさいませ』」
「……それは、また……」
「噂では聖女ティレーマは、清く正しく美しく、たおやかで、正に神の寵愛を受けるに相応しい方だという話だったが……。やはり人の噂は当てにならないようだ」
軽く肩を竦め、ミルファは便箋を折りたたむと、再び封筒の中へと戻す。そしてぽつりと呟いた。
「──どのような方か、実際に会ってみたくなった」
十五年も会わないまま──しかも、互いに子供だった時代に生き別れたのだ。肉親としてよりも他人としての意識の方が強いのは仕方のない事だろう。
だからこそもっと他人行儀な、あるいは当たり障りのない返事が返ってくるとばかり思っていたのだ。
だが、実際に返って来た返事は遠慮というものを感じなかった。『姉』でなければ、無礼の一言で片付けられてしまいそうな部分もあった。
──その事を不思議と嬉しく思うのは何故だろう。
「では予定通り……、このまま西へ?」
「姉上の言う通り、今更引き返す事など出来はしないのだから……。このまま進むだけだ」
もう二度と同じ過ちは繰り返さない。その誓いを胸に、ミルファは頷いた。
今までに、たくさんの人を喪った。
神官もただの人間なのだと教えてくれた人──ケアンを筆頭に、母、仲の良かった南の離宮の女官や警備兵達、兄、姉、そして……優しかった頃の、父。
ケアンはその生死が未だにわからず、父も生きてはいる。しかしそれ以外の人間は、もう二度と還らない。
(もう、何一つ喪いたくない……)
その為に、今は動く。
──しかしそう思う一方で、ミルファは思う。間に合わないかもしれない、と。
(必ず、近い内に動きがあるはず)
帝軍の今までの沈黙が、嵐の前の静けさである事をミルファは確信していた。
今までのやり方を考えるに、おそらく魔物を仕掛けてくるはず。
神殿を直接襲っても、守りの術を行使する事の出来る神官を傷つける事は出来ないはずだが、そんな正攻法を仕掛けてくるとも思えない。
(どうか、間に合って……)
不気味な沈黙に微かな焦りを感じながら、ミルファはその事を願わずにはいられなかった。
+ + +
世界の中心に座する帝宮は、皇帝の居城に相応しく広大な敷地を有する。
中央に政の中心になる皇帝宮、唯一神ラーマナを信仰する神官達の総本山とも言える大神殿が置かれ、その周辺に東西南北の皇妃に与えられる離宮が、それ以外にも近習の者や警備兵の詰め所など、大小さまざまな建物が散在している。
宵の口──本来ならば一日の仕事を終え、家庭では暖かな団欒が、盛り場ではにぎやかな声で盛り上がる、そんな時分。
しかし、帝宮とその周辺を取り囲む城下町にそうした暖かな火の気はない。そして──人が動き回る気配も。
人はいるはずだが、まるで何かを恐れるように姿を潜めている。明かり一つ灯らないそこは、夜の闇の中、ぽっかりと大きく大地が口を開けているようにも見えた。
その闇の中心部──皇帝宮にある一室に男の声が響いた。張りのあるその声はまだ若い。
「……どうやらこちらの思惑通りに事は進んでいるようですよ、陛下?」
部屋の奥まった場所に置かれた豪奢な椅子──玉座に腰を下ろした人物は、その声にゆるりと視線を持ち上げた。
向けられた先はすぐ傍ら──本来ならば皇帝と特別に許可を与えられた近習以外は皇妃でも立つ事が許されないそこに、人影がある。
天井近くに切り取られた僅かな空気穴から差し込む月光が、かろうじてその輪郭を浮かび上がらせる。それは、さながら『影』。
全身を周囲の闇と同化させるような黒い布で全身を覆ったその姿を見つめ、皇帝と呼ばれた人物は僅かに怪訝そうな顔を見せた。
「──思、惑……?」
低く呟かれた声は、微かに掠れ、長い事言葉を発する事がなかったかのようにぎこちない。その言葉に我が意を得たりとばかりに、傍らの男は頷いた。
「そうです。皇女ミルファと皇女ティレーマ──生き残っている二人の皇女が一箇所に集まろうとしているのですよ」
言いながら咽喉の奥でククッと楽しげな笑いを漏らす。
それだけを聞くと悪意など一切なく、単なる事実を述べたに過ぎないように聞こえる。しかし、次の瞬間口調は一変した。
「……小細工をする手間が、省けたというものだ」
それは無情にして酷薄な呟き。そして男はもはや隠す必要などなしと思ったのか、頭からを被っていた布を邪魔だとばかりにばさりと床に落とす。
表情を隠していた布が取り払われ、あらわになった瞳が闇の中で禍々しく赤く光り、唇が残酷な笑みを浮かべた。
「さて──陛下。一つ余興をご覧に入れましょうか」
言いながら、男は感情の抜け落ちたような顔で自分を見上げる皇帝へ笑いかける。布越しでない明瞭な声は再び丁寧なものに戻っていたが、嘲るような表情といい、何処か道化師めいていた。
「長く生き別れだった皇女姉妹の涙の再会──それだけでも一つの見物でしょうが、それだけでは詰まらない。より劇的になるよう演出いたしましょう」
くすくすと楽しげに笑いながら、男はパチリ、と指を鳴らす。
その瞬間、二人の前にあった無人の空間に所狭しと巨大な影が生じた。その全てが人のニ回り以上は大きく、しかも人には在り得ない姿形を有している。
その数、少なく見積もっても五十は下らない。
「これなる脇役達が、主役の二人の舞台をより一層魅惑的なものへと彩ります。……もっとも大根役者ばかりですから、脚本通りに動かず、勢い余って主役を本当に言葉どおり『食って』しまうかもしれませんが?」
おどけた口調でさらりと物騒な事を口にして、男はその手を持ち上げた。掌を異形の影に向け、不可思議な言葉を紡ぎ始める。
「──ハーレイ・スフィラ・メイ・オルファー・ラーナ・オルディル・イ・エピレ・テア・ディアス」
すると影が立ち尽くす床一面に、周囲の暗がりよりも濃い闇が広がった。キィン、と微かな耳鳴りのような音が生じる。
キィン……
キィ……キィン…………
不規則に響く、硝子を引っ掻くような少々耳障りな音。それは次第に高まり、大きさを増してゆく。
キィン……キィィン…………キィン……キィィィィィン──!
終いには悲鳴のように切羽詰った音が響いた瞬間、男は支配者の笑みを浮かべて高らかに告げた。
「メイ・オティア・ロト……!」
ドンッ!!
激しい衝撃が空間を走る。それと同時に、床から闇が一気に吹き上がった!
その場にいた影達は、たちまちその闇に包み込まれた。一体、また一体と闇は飲み込み、内へと取り込んでゆく。
そして──全ての影が飲み込まれたかと思うと、唐突に空間は元の姿に戻った。
貴重な石を敷き詰められた床には傷一つなく、先程までの光景がまるで幻だったように天井から降る月光に冷たい光を放っている。
……そこにはもう、異形の影は一つもなかった。
「──さあ、舞台は始まった。二人の皇女の運命やいかに……? ……フフ、ハハハハハ……!!」
堪えきれないように男の口から笑い声が漏れる。それは次第に大きくなり、やがて哄笑へと変わる。
狂気じみたそれは、まるで呪詛のように静まりかえった玉座の間に陰々と響き渡り、そして……消えた。