第一章 皇女ミルファ(3)
午後の会議は、当然ながら現在進軍中の軍に関する事を中心に進んでいた。
南領の都ライエから、主力部隊が目的地のセイリェンに着くまでに通常なら短く見積もっても十日はかかる。
その間の補給や情報管理をいかに短縮化出来るか、またその一方で敵方である帝軍の動きにも目を光らせなければならない。
…考える事は山ほどあった。
現在帝軍が不穏な動きを見せているのは、中央に存在する帝都とこの南領の境界となっている河、シェリス河に接する交易都市セイリェン。
その街は平常時では帝都と南領を繋ぐ流通の中心として、華やかで自由な気風で知られる街だった。
現在は帝都と南領との間に挟まれ、そこに流れる空気は必要以上に緊迫したものに取って代わられてしまっているが……。
混乱時の今でも人と物が数多く集まる場所だけに、そこに集まる情報も相当なものになる。
民の大半がそこで親やそれ以前の代から何らかの商いをしている商人で、その独自の情報網は過去に幾度かミルファも助けられたものだ。
だからこそ、セイリェンを見捨てる事も、帝軍に侵略させる事も許す訳には行かなかった。
「…失礼いたします!」
だが、順調に進んでいた話し合いは突如乱入したそんな声で中断した。
ノックをするのも忘れたのか、転がり込むような勢いで乱入してきたのは、まだ十四、五歳程度の年若い少年だった。
赤毛でその身体はひどく痩せている。転んだら折れてしまいそうなその痩身を包むのは、まだ身体に馴染んでいない黒い官服。
仕官してそう日が経っていないのが、その挙動以外ですでにわかる有様だった。
その少年は一斉に自分に向けられた視線に一瞬怯んだ顔を見せたものの、自身の役目を思い出してか、蒼白の顔色でその場に跪き、発言の許可を待つ姿勢を取った。
「── 何事です」
少年の容姿から、最近この領館内の伝令職に就いた人物である事を記憶の奥から引っ張り出しながら、ミルファが殊更冷静な声で発言を許可する。
すると少年は弾かれたように立ち上がり、口早に自らが抱えた情報をミルファとそこにいる重臣達に告げた。
「帝軍が、動きました!」
「…!」
その言葉に、その場の空気は一気に緊張したものへと変わった。
いつ齎されてもおかしくはない知らせだと言うのに、ミルファも知らず手を握り締める。…人の目につかないよう、会議用の机の下で。
「セイリェンですか?」
出来るだけ平静さを保っているように気をつけながら、念の為に確認を取る。
セイリェンで帝軍が動くのはすでに予測されていた事だ。火急の用件だろうが、そこまで焦って報告する必要はない。
何処か落ち着きのない少年を落ち着かせる目的で問いかけた言葉に対し、伝令の少年の顔は見る間に動揺と困惑に満ちたものへと変化した。
それは傍で見ていてわかる程に劇的なもので、ミルファ以外の人間も何事かと思う有様だった。
少なくとも事実を私情を入れる事なく、正確に伝えなければならない伝令としてあるまじき態度だ。
「…いえ、違います」
そして彼は困惑を隠せない彼等の前で、心なし上擦った、あからさまに動揺を隠さない声でミルファの問いへ答えたのだった。
「違う……?」
予想外の否定する言葉に、ミルファも目を見開く。
「一体、何処で帝軍が動いたと言うのです」
自然と声が硬くなるのをミルファは自覚した。冷やりとした汗が背を流れる。
ここ数日の報告を思い返しても、セイリェン以外の場所で帝軍が動きを見せた事はない。
そもそも、皇帝は宣戦布告をせずにこちらに攻撃を仕掛ける事は今まで皆無だった。まるで正統性を主張するかのように、正面から自身の子の命を求める。
だからこそ、今までになかったそれは予想外の出来事だった。
ミルファの問いに、伝令の少年は続ける。
「ウルテです。ここより北東にあるウルテにて、帝軍と思われる武装集団による襲撃が確認されました」
「── ウルテ、ですって……?」
一瞬、それが何処の事かわからなかった。そこが南領であろう事は確かだが、日常生活で耳にする地名ではない。
生まれた時から南領で暮らしている重臣達ですら同様らしく、小声で何処だと話し合っている。つまり明らかに要所ではないのだ。
ミルファはしばらく頭の中で細部まで叩き込んであった地図を辿り、ようやくその地名を思い出した。それ程にそれは、特にこれと言って特色のない小さな街だった。
強いて何かを挙げるとすれば──。
「…、まさか」
そこまで考えて、見る間にミルファの顔から血の気が引く。無意識にぎゅっと手を握り締めた。
「セイリェンは、囮……!?」
思わず零れたその言葉に、そこに集まっていた重臣達はそれぞれに驚きを隠さない顔になった。
セイリェンとウルテでは戦略的価値に天と地ほどの差がある。片や貿易の中心、片や南領の辺境に位置する、特筆する特徴もない小さな街。比較する方が無理がある。
まさかと表情で物語る彼等に、まるで追い討ちをかけるように伝令の少年は、ミルファの言葉を肯定した。
「── おそらく、そうであるかと」
それが誰の見識であるのか、それはもはやどうでも良い事だった。肯定された事で、ミルファの身体は震えた…恐れの為に。
「…襲撃があったのはいつ頃です」
「わかりません……。ウルテの街は現在壊滅状態に近く、状況だけで判断すると襲撃はおそらく早朝か夜間遅く、周囲に救援を求めるのも間に合わなかったのではないかと」
仮にもこの南領における反乱軍の頂点に立つ者だ。緊急を伝える知らせに対して、いちいち動揺するなどもっての他の事だろう。
だが、今回は誰もミルファを非難する事は出来ないに違いなかった。
何しろその場にいた人間は一人残らず、その言葉にミルファ以上の衝撃を受けていたのだから。
「…急いで伝令を走らせて、セイリェンに向かっている兵を半分戻しなさい! …皇帝の狙いは南じゃない……!」
指示を飛ばしながら、ミルファはひどい咽喉の渇きを感じていた。
うまく喋れない。嫌な予感ばかりが募る。
小さな…この南領の人間でも必要がなければ知らずに終わりそうな街・ウルテ。そこはこれといって特産物もなければ、交通の上の要所でもない。
けれど一つだけ何かを挙げるとするなら、そこが南領の主街道沿いに存在する街だという事になるだろう。それも、末端に。
そこが襲われる理由を考えると一つしか思いつかない。
「どんな手段を使っても構わないから、すぐに東側との連絡を取りなさい! 南側から入る人間を何人たりとも侵入させてはならないと……!」
主街道── すなわち、この南領から一直線に続く道。その道は、東の地へと続いている。
ウルテより先には小規模な村しかなく、そこが壊滅すれば情報網が断たれ、しばらく東側からの情報が途絶える事になる。
おそらく、その目的は時間稼ぎ。何の為にそんな事を行ったのかと考えれば、答えは自ずと出て来る。
東の地── 東領と呼ばれるその地には、現在あと二人しかいない皇帝の血を引く者がいるのだ。
ミルファにとっては、異母兄。数少ない肉親の一人。そして…父がその命を狙っている人物。
「兄上…皇子ソーロンの身が、危ないと……!!」
最後の言葉は、もはや悲鳴に近かった。