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天秤の月  作者: 宗像竜子
第三章 聖女ティレーマ
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第三章 聖女ティレーマ(7)

 切っ掛けは、一つの花だった。

 一晩中吹き荒れた嵐が去った翌日、主神殿の荒れた庭園を片付けていた時のこと。足元に散らばった無数の花を見下ろして、たとえようもない淋しさを噛み締める。

 色鮮やかな朱色のその花は、風によって根元から倒れ、花びらは散らされ、濁った泥水を被って見るも無残なものだった。

(……昨日の朝、ようやく咲いたばかりだったのに)

 見習い神官は特に重要な役目もなく、神殿内の清掃や美化が数少ない仕事らしい仕事だった。

 庭の一角にその花を植えたのは、春先のまだ寒い頃。夏から秋の暖かい時期に咲く、西領では少し珍しい花。

 ──思い出の、花。


『── どうぞ、道中のよすがに』


 西に向けて旅立つ時に受け取った花束。その中にも、この花は入っていた。

 それが南領でよく咲く花だと知ったのは、随分後になってからだ。

 神殿に入る際には、身の回りのものから血縁まで、全てに別離しなければならなかったけれど、そこまでの道中の時点ではその制限はなくて。

 ──切花ならば西へ行く途中にしおれて枯れてしまう。途中で捨てる事が出来る。

 だからこそ、餞別に花束を選んでくれたのだろう。付き添い役の神官も、それについては何も言わなかった。

 実際、花束は十日もせずに朽ちてしまい、そのまま手放してしまったのだけれども。

 少し前に街へ正神官の補佐として付いて行った際にあの花を見つけ、驚きと懐かしさからじっと見ていると、家主の老人がここでは珍しい花だから神殿でも植えてみてはと種を分けてくれた。

 自分の心を置き去りにして誰もが嘆き哀しんでいたあの場で、ただ一人励ますような笑顔と言葉を向けてくれた人の面影を重ねて。

 一番日当たりのよい場所を探し、毎日毎日、かかさず水を与え、雑草をむしって世話をした。なのに。

 ボロボロの花を手に取る。ざらりとした泥の感触に、思わず唇を噛み締めた。

 花が終わったら種が出来る。その種でまた来年咲かせよう──またその次も、その先も。……そんな風に考えていた矢先の出来事。

 嵐に罪はない。自然の力に抗う事は、ラーマナの教義に反する事だ。そう、自分に言い聞かせようとしたけれど。

(コンナノ・イヤダ)

 ──その衝動はたちまち幼い心を支配した。

(モウ一度・コノ花ヲ見タイ)

(モウ一度)

(……元通リニ・ナレバイイノニ……!)

 身体の中で、熱が生じた。その熱さに呼吸が出来なくなる。

 何かが燃えているように胸の奥に生まれた炎のような熱。それはすぐさま腕を伝わり、掌を伝わり、手にした泥だらけの花の残骸に向かった。

 ──そして。

「……あ」

 その苦しさに思わず閉じていた目を開くと、手の中の花はかつての姿を取り戻してそこにあった。

 泥こそついたままながらも、生命を取り戻した鮮やかな朱色の花弁が、微風に揺れる。信じられなくてまじまじと見つめ──それが本物なのだとわかった瞬間、目から涙が零れ落ちた。

 悲しかった訳ではない。嬉しかったのとも、違う。

 感情のたがが外れたように、ボロボロと涙を零しながら、甦った花をそっと胸に抱いた。



 ……長じた今でも、その時の感情が何であったのかはわからないまま。

 ただ確かなのは、その出来事を境に時に埋没されて終わるはずだった自分の人生が、劇的に変わってしまったという事だけ。

 そう、皇女と神官、その二つの狭間でどちらにも動く事の出来ない、雁字搦がんじがらめの日々に──。


+ + +


「……あ、聖女ティレーマ!」

 背後からかけられた明るい声に振り向くと、数日前にパリルの街まで出かけていた神官が足早に歩み寄ってくる所だった。

ことづかっていたあの書簡、確かに伝達人に渡しましたから!」

 言いながら、にこやかな笑顔を浮かべる顔はまだ幼さが強く漂う。それもそのはず、先月十七歳を迎えたばかりの少年である。

 しかし、その肩には斜めに布がかけられていた。主位神官のそれとは異なり、無地で少し暗めの赤に染められ端に小さく刺繍が刺されているだけだが、それはすなわちこの少年がこの神殿で何らかの役職──位階を担っている事を示している。

 自身が決して持つ事のないそれを少し眩しげに見つめて、ティレーマは微笑んだ。

「ありがとうございます、祭祀様。申し訳ありません……、個人的な用事をお願いしてしまって……」

「謝らないで下さい、この位お安い御用ですよ!」

 少年神官は微かに頬を赤く染めて首を振る。

 何しろティレーマはその美貌に加え、本来の位階がただの正神官という事もあってか、皇女の生まれでありながら誰に対しても分け隔てなく接する。

 気さくに話し、笑い──決してその『血』をひけらかす事はない。

 元々女性の見習い以上の神官は少なく、この地方神殿にも数名(しかも比較的年配)いるだけである。若い女性に免疫のない彼等が、つい舞い上がってしまうのも無理はなかった。

 一般にはあまり知られていないが、神官は婚姻はもとより、恋愛も御法度とされてはいる。……が、心の中で想う事は自由である。

 結果としてティレーマは、特に年若い神官達の中で、憧れの女性として見られるようになっていた。

 ──もっとも、自身の事に対して無頓着なティレーマ本人は、そのような事はまったく気付いてもいなかったが。

「ま、また、何かあったら気軽に言ってくださいね!?」

「はい……。ありがとうございます」

 心なしか上ずった言葉に、内心首を傾げながらもティレーマが頷くと、少年神官は傍で見ていてわかるほどに目を輝かせた。

 そしてきっとですよ! と念を押し、嬉しそうな顔で立ち去ってゆく。その姿を見送りながら、ティレーマはその口元に苦笑を浮かべた。

(……気軽に、ね。そういう訳にも行かないでしょうに)

 神官の社会は完全なる縦型社会だ。利権が絡まないとは言え、位の上下は絶対である。本来なら、下の位の者が上の位の者を使うなど在り得ない。

 主神殿の正神官と地方神殿の役職付きの神官(今回の場合は、婚姻の儀式や葬儀を行う祭祀神官だった)では、後者の方が上位になる。

 今回はたまたま自らパリルへ向かおうとしたティレーマが、出かける際にその旨を主位神官に報告した結果、丁度パリルに行く者がいるからと間に主位神官が入ったからこそ頼めた事だ。

 ……現実は違ったが、少なくともティレーマはそう思っていた。

 確かに自分は位階を無視して敬意を払われる『聖女』の名を持つ。しかし、それだけなのだと。

(──『聖女』、……か)

 その呼び名を受け入れても、それによって払われる敬意はいつまで経っても受け入れる事が難しい。

 妬みや嫉みとはほとんど無縁の神官達だが、人間である事は変わらない。

 上位の位階を得、相応の努力を払う人々の中には、ただの正神官でありながらも聖女である為に敬われるティレーマをやっかむ者もいた。

 どちらともつかない身で、聖女として扱われるなどおかしいと。

 だがそう言われても、この身が皇帝の血を引く限り、皇女である事は変わらないし、神官でありたいと願う限りは『聖女』の名からも逃れる事は出来ないのだ。

 彼等の言葉を正しいと思いながらも、同時に思わずにはいられない。

 ── 持っていても実際には役に立たない力など、持ちたくて持っている訳ではない、と。

 聖女の力は尊ばれると同時に、異端のものとして行使を制限される。

 ティレーマの場合は、その力が強過ぎる為に西の主神殿を預かる主座神官から『使ってはならない』とまで言われていた。つまり本当に持っているだけ、なのだ。

「これが『宝の持ち腐れ』というものかしら……?」

 自嘲するように呟いて、ティレーマもまた歩き始めた。

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