第三章 聖女ティレーマ(4)
反乱軍の北西に向けての行軍は、特に大きな障害もなく順調そのものだった。
辺境とは言え、帝都内を進んでいるのだ。当然、皇帝側から何か仕掛けてくると思っていただけに、その沈黙はいっそ不気味ですらあった。
「変だ、という声が上の方でもあがってるようですね」
今日も予定通りの場所まで進み、野営の準備で慌しい中、それぞれに荷物を抱えて歩きながらルウェンとジニーは互いの意見をやり取りしていた。
セイリェンの戦い以来、重臣と同様の扱いを受けるようになったルウェンだが、そのせいで妙に周囲に英雄視されてしまい、何となく同世代の中で浮いている状況である。
兄弟のような、と表現するには少々年齢に差があったが、何かとつるむ事の多い二人であった。
「変と言ったら、あのセイリェンの戦いの時点でもうすでに変だったがな」
「……そうなんですか?」
後から合流したジニーは、セイリェンでの戦いで何が起こったかは知っているが、その詳細までは詳しくない。せいぜい知っているのは、作戦内容と魔物が出たという事くらいである。
首を傾げるジニーに、ルウェンは一月ばかり前の戦いを思い起こしながらも頷いた。
「ああ、帝軍の兵力が信じがたい程に低下していたからな。以前は……もっと、手応えがあった。俺が知っているままだったなら、少なくとも死傷者はあの程度じゃ済まなかったはずだ」
少なくとも、東領が混乱に沈んだ三月前の夜以前まではあそこまで弱くはなかった。僅か三月──たったそれだけの時間で、ここまで弱体化するなどルウェンは未だに信じきれずにいた。
兵力を温存しているのかとも考えたが、その必要性が何処にあるだろう。むしろ、一気にぶつけて反乱軍がこれ以上力を持つ前に潰すよう、働きかけてくるのが普通ではないだろうか。
皇女ミルファの率いる反乱軍は日々その力を増していた。志願者が増え、南の地を離れてもその数は減るばかりか増え続けている。
母体となっている南領の兵士に居場所を失った東領の兵が加わり、そして今は皇帝の所業に疑問や反感を持った帝都の人間がそこに加わっているのだ。
全てが皇女ミルファに対して忠誠心を抱いている訳ではないが、皇帝を倒すという共通の目標の元、一つにまとまっている。
このまま放置すれば、皇帝もおいそれと手を出せない程の大軍に成長するだろう。
それだけの人数をまとめるとなるとミルファの負担も相応に厳しいものになるが、今までの采配を見るに問題はなさそうだ。
それを──皇帝はあえて黙認するかのような姿勢を見せている。それは余程の自信の表れか、あるいは……。
「あるいは、西にこちらが辿り着くのを待っているのか──」
「まさか……! そんな事をしても、皇帝側には何の利点もないんじゃ?」
「一つだけあるだろ。──二箇所に点在していた皇女二人が一箇所に集まる」
「!?」
ルウェンの言葉に、ジニーはぎょっと目を見開いた。
ジニーも思い出したのだ。そもそも、皇帝が望んでいるのが何なのかを──。
「お二人を……、一時に亡き者にしようと?」
「一人ずつ狙うより、二人一度の方が効率はいい。しかも二人の内、片方は神官でそうそう手も下せないんだからな」
自分でそう言いながらも、釈然としない思いをルウェンは抱いた。
皇女でありながら神官という特異な立場にいるティレーマとミルファが再会したとして、もしティレーマがミルファの側につく事になれば、必然的にミルファの身の安全も高まる事にもなる。
二人を一度に狙うのは、効率的ではあるがそれだけだ。むしろ、二人が一箇所に集まるのはジニーが言うように皇帝にとって何の得にもならないように思えた。
(……。たとえ神官の守りがあってもどうにでもなる、という自信の表れだとしたら──あまり楽観は出来ないがな)
だが、これらの考えは全て憶測に過ぎない。相手が何の動きも見せない以上、あれこれ考えても無駄だろう。
ルウェンは思考を切り替えた。そう言えば一つ、ジニーに聞いておきたい事があったのだ。
「なあ、ジニー。ちょっと聞きたい事があるんだが」
「何ですか?」
「いまいちわからないんだが……結局、『聖女』って何なんだ? 普通の神官と何か違う所でもあるのか?」
「ああ……、それは僕もよく知らないんですよね」
今回の西への行軍の話が持ち上がった時に、ふと思った疑問だった。
現在、『聖女』と呼ばれる人間は全部で五人。北に一人、東に一人、南に二人──そして西に一人。
その中でも西の主神殿に属するティレーマは最年少であり、また皇女という生まれもあって、広く名が知れ渡っているものの、では『聖女とは何か』となると、多くの人間はその詳細を知らないのだった。
「神殿って普段生活している分には特に関わりのない所ですし……。その内部の事に至っては、表にはほとんど出てきませんからね。ただ、聞くところによると、『聖女』というのは実際に神官の中でも特殊な立場の存在らしいです」
「特殊?」
「必ず女性である事はその呼び名でも明らかですけど……他にも何か条件があるみたいですよ。具体的にはちょっとわかりませんが」
「うーん、結局謎のままか……」
ジニーの言うように、神殿関係については無知な者がほとんどだ。
元からそこまで期待はしていなかったし、別に知らなくても支障はないのだが、わからないならわからないですっきりしないのも確かだった。
眉間に皺を刻んで唸るルウェンを、申し訳なさそうな顔で見上げていたジニーは、やがてふと思いついたようにその歩みを止めた。
「そうだ……」
「ジニー? どうした」
急に立ち止まったジニーを怪訝そうに振り返ると、ジニーは名案とばかりに目を輝かせて言った。
「そうですよ、ザルーム様ならご存知かも!」
「……は!?」
余りにも予想外の名前が飛び出して、ルウェンは思わず目を見開く。しかし彼の驚きを無視して、ジニーは少し興奮したように早口で捲くし立てた。
「ザルーム様は博識な方だし、『聖女』についても詳しく知っているかもしれません……!」
「ザルームって……あの、皇女ミルファの影、だよな……?」
つまり、おいそれと表に姿を見せない人物のはず。気軽に質問をしに行ける相手ではないはずなのだ。──それに。
『……今の所は』
(──……)
あの夜の会話を思い出し、ルウェンは眉間に刻んだ皺を深くした。
結局、あれ以来一度も顔を合わせていない。その為、あの時の言葉の真意を確かめられないままだ。
しかし、あからさまなまでにザルームに対する尊敬の念を見せるジニーに、その辺りの事を言えるはずがない。
仕方がないので顔を合わせた事だけを伝えたのだが、それを好意的に解釈したジニーの中で、ルウェンとザルームは『顔馴染み』という事になってしまったらしい。
そこまで生易しい関係ではないが、純真な少年の想像を壊すのも気がひけて、ルウェンはそのまま話を合わせる事にした。
「おい、ジニー。だからって気軽に会える相手じゃないだろ?」
意識してからかうように言った言葉は、しかし予想に反してあっさりと否定された。
「そんな事はないですよ? そりゃ、公には秘されていますけど……全然会えなかったら、僕達も仕事になりませんし」
「……仕事?」
否定ばかりかまた思いもしない所に話が飛び、ルウェンは首を傾げる。ザルームに会う事が伝令の仕事にどう関係するのか、まったく頭の中で繋がらなかった。
その困惑を感じ取ったのか、ジニーは再び歩き出しながらも、簡単に説明を付け加える。
「ええと……、ルウェンさんも気付いていると思いますけど、この軍には斥候を務める者がいないでしょう?」
「ああ、気付いたのは最近だけどな」
ジニーが言うように、この反乱軍には先行して敵方の動向や進行方向にある異常の有無を調べる斥候が不在だった。
まるで先が見通せているかのように下調べをする事もなく進む為、普通の倍の速さで先へと進む事が出来ているが、今のような馴染みのない土地を進む場合は斥候が不在など普通なら在り得ない事である。その事はルウェンも以前から疑問に感じていた事だった。
「その役割をしているのがザルーム様なんですよ。……ここだけの話、ですけどね」
「……!? ちょっと待て、そんなのどうやって……呪術でそんな事が出来るのか?」
神官についてもだが、呪術師に関しても世間一般以下の知識しかないルウェンには、全く想像もつかない事だった。
ただ、いきなり現れたり空中に浮かんだりする事が『普通』ではない事くらいはわかる。ザルームが普通の呪術師とは違うという事は──。
「《風見の眼》という呪術だそうです。具体的な原理まではわかりませんが、望む場所の様子なんかを動かずにして知る事が出来るみたいですよ。その結果を参考に、伝令は状況報告を作成しているんです」
「……」
つまり、その報告を受け取る為にも必ず会える接点が必要という事で──会う事は不可能ではないという事だ。
(──望めば何でもお見通しかよ。つくづく、とんでもねえヤツ……)
それにしても、だ。
(皇女ミルファはよく、あんな得体の知れない人間にそんな重要な地位を任せたもんだ)
それではザルームが嘘の報告をしたり状況を見誤ったりすれば、下手すると皆共倒れである。それだけ信用しているとも取れるが──反面心配にもなる。
もし、ザルームが敵になったら。
ミルファは果たしてその事に耐えられるのだろうか、と。そしてそんな彼女が率いるこの反乱軍は、彼ほどの呪術師相手に何処まで歯が立つだろうか。
ミルファとザルームには、ルウェンの知らない二人だけの時間の積み重ねがあるとは思う。それがあるからこそ、今があるのだとも。
だがルウェンにはそれだけ重く用いる割に、ミルファが時折見せる孤独の影が気にかかっていた。
あれはまるで──誰に対しても心を許せずにいるような。
(まあ……、俺には関係ないと言えばそれまでだがな……)
それでもミルファの事は抜きにして、一度はその真意が何処にあるのかをはっきりさせておきたいのは確かだ。その為にも、ザルームとの接点を手にしておくべきだろう。
ルウェンは密かに決意すると、表面上はあくまでも質問に出向くような口調で口を開いた。
「……それじゃあ、御教授願おうじゃないか? ザルーム先生に『聖女とは何ぞや』ってな」