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天秤の月  作者: 宗像竜子
第三章 聖女ティレーマ
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第三章 聖女ティレーマ(3)

 最初から意味を持って生まれて来る人間などいない、と聞いた。

 人はまず生まれ、それから後に『意味』は付いて来るのだと。

 生まれる場所は選べなくとも、その場所で、その両親の間に生まれた意味は、それから自分の手でいかようにも変える事が出来るのだ、と。

 本当にそうならどんなに良いだろう。

 ──生まれた時に示された、二つの生き方。

 そのどちらの道にも進めない、袋小路の中にあるこの自分にも、生まれてきた意味が本当にあるのだろうか──。


+ + +


 早朝──まだ夢の中にある者も多い時分、人里より少し郊外にある神殿ではすでに人が動き出していた。

 基本的に彼等の生活は規則正しく、起床時間も早ければ就寝時間も早い。彼等が仕える唯一の神ラーマナの司るものが調和と均衡、そして秩序である為だ。

 天井近くに飾られたステンドグラスから、微かに色付いた光が降り注ぐ。

 建物自体は数代前の皇帝の治世に建てられただけあって、老朽化が進み、壁も床も長期の使用で若干痛みを隠せない。だが、そこにある厳粛な空気は当時からずっと変わらずにそこにある。

 神殿の中でも特に大きく取られた、神に祈りを捧げる祭壇のある部屋──その床にひざまづき、祈りを捧げる一人の人間の姿があった。

 薄暗い室内に差し込む僅かな光は、その姿をぼんやりと浮かび上がらせる。白い神官服を身に着けたその人物は、まだ年若い女性であった。

 年の頃は二十歳をいくらか過ぎた辺り。

 ヴェールを被っている為にはっきりとその容貌は明らかではないものの、結い上げられた彼女の髪が金の色をしている事は判別がついた。

 その目は閉じられ、その唇は静かに祈りの言葉を紡ぎだす。その声は静寂に満ちたその部屋に柔らかく響いた。


「……唯一の神にして、天秤を司る神ラーマナよ。我は御身に永遠の献身を誓う者なり。神よ、その慈悲の手を嘆き多きこの地上へ差し伸べたまえ。災いより罪なき者の身を守りたまえ……」


 そして組んでいた手を解くと、片手を立てたままもう片方の手を横に走らせて印を切る。

 祈りを終えた彼女は、立ち上がり服についた埃を簡単に払った。平穏な頃ならばこの祈りの間は埃一つなく掃き清められ、神官服が汚れるなど在り得ない事だが今は非常時である。

 辺境に位置する地方神殿は場所によっては神官が医師の代わりを務める事も多く、この神殿に所属する神官の多くが出払っており、清掃まで手が回らないのだ。

 その時、まるで終わるのを待っていたかのように、彼女の背後にある古ぼけた扉から一人の神官が顔を出した。

 五十代中頃の男だ。こちらも似たような神官服を身に着けているが、肩から独特の紋様が織り込まれた飾り布をかけている。その色は深い赤──それは彼の位を示すものだった。

「朝のお勤めご苦労様です、聖女ティレーマ」

 にこにこと人好きのする笑顔を向けられた彼女──ティレーマは、被っていたヴェールを外し軽く一礼した。

「おはようございます、主位神官様。……何か?」

 ヴェールを取り去った為、彼女の容貌を隠すものはない。長い睫毛に囲まれた瞳は赤みを帯びたオレンジ──赤瑪瑙色。金の髪と相まって、華やかな印象を周囲に与える。

 神官の身である為、装飾品の一切を断ったその身を飾るものは何もないが、何もないが故に彼女の美貌は際立って見えた。

「昨夜遅く、あなた宛に書簡が届きましてな」

 答えながらこの神殿を預かる最高神官(大神殿のそれと区別する為に『主位』と表される)は、手にしていた書簡を持ち上げて見せる。それを見つめ、ティレーマは怪訝そうにその細い眉根を寄せた。

「わたくしに……ですか?」

 心底信じられないと言わんばかりの様子に緩く笑うと、主位神官は書簡をその手に渡しながら、その手紙の送り主を彼女に告げた。

「……妹君からですよ」

「!」

 書簡を取り落とす事はなかったものの、『妹』という言葉を耳にした瞬間、目に見えてティレーマの表情が変わった。

「急ぎだったのでしょう、パリルまで鳩を飛ばして届けてきたようです」

「……」

 彼の言葉も聞こえていないかのように、ティレーマは手にした書簡をじっと凝視する。

 普段の彼女からすると珍しい、僅かに険しさの混じるその眼差しに、主位神官はそれ以上は何も言わずにその場を後にした。

 パタン、と扉が閉じる音にようやく我に返ったティレーマは、視線を持ち上げ、すでに主位神官がいない事に気付くと、失礼を働いた自分を反省しながらも再びその目を書簡に戻した。

 その指がしばらく迷った末にぎこちなく封を開く。その中から出てきたのは、細かく折り目のついた紙片だった。

 鳩を飛ばす際についた折り目だ。折りたたまれたそれを開くと、そこには細かい字がいくつも並んでいた。

 神殿に入る際、神官となる者はあらゆるものを捨てなければならず、その中には親子の血縁なども含まれていた。会う事は不可能ではないが、その際も神官としての立場が優先される。

 その結果、神殿の人間に個人的な手紙が届くなど稀な事で、ティレーマもその手紙が生まれて初めて貰った『肉親』からの手紙だった。

 だが、本来ならば感慨の一つも抱くはずのそれを、ティレーマは緊張した面持ちで眺めた。

(……『妹』──……ミルファからの、手紙……)

 妹、という単語から連想する名前は、今はもう一つしかない。

 ティレーマは僅かに逡巡しゅんじゅんを見せたが、やがて小さくため息をつくとその文面に目を走らせた。

 鳩を飛ばす場合、どうしても情報量が限られてしまう為、その手紙はすぐに読み終わる。

 だが、したためられていた内容は多くはなかったものの、ティレーマの表情を更に厳しいものにさせるに十分だった。

 これから西へ向かい、帝軍からの襲撃を阻む盾になるという事、可能ならば一度会って話をしたいという事、そして── 。

「──そう……、本気でお父様を……」

 やがてぽつりと漏らされた呟きは、好意的なものとはとても言えなかった。

 ミルファ=ライザ=カドゥリール──母親の違う、末の妹。今となっては、父を除けばたった一人の肉親である。

 その顔を思い出そうとすると、浮かんで来るのは黒髪にエメラルドグリーンの瞳の、人形のように愛らしい幼い少女の姿だけだ。

 あれは、ティレーマが西の地へ旅立つ事になった日の事。その時以来、一度も顔を合わせていないのだから仕方がない。

 あの小さく無邪気に笑っていた子が、長じた今、軍を率いて実の父に剣を向けようとしている──。

 その事実はティレーマにとっては、あまりにも途方もなく、悪夢のように救いのない事に思えてならなかった。

 何故ならこのまま事態が進めば、行き着くのは非常に罪深いとされる『親殺し』なのだ。

 その罪を犯すとわかっていながらも、それでも父へと刃を向けようとするミルファを、ティレーマはどうしても理解出来なかった。


『私は父を討ちます。神に仕える身であり、殺生を禁じられた姉上にはおそらく耐え難い事かと思いますが、どうぞお見逃しください』


 先程読んだ文面にあった一文を思い返し、ティレーマは疲れたように目を伏せた。

 おそらくティレーマがそうであるように、ミルファもまた自分に対してどう接したら良いのかわからないのだろう。

 その文章は血の繋がった姉に対するものにしてはぎこちなく、けれど偽りのない言葉が綴られていたように思われた。

(……見逃せですって? たった一人生き残った妹が、その命の危険を顧みずに戦いの日々の中にあるのも、お父様がわたくし達の命を奪う為だけに、無関係な周囲を巻き込んでいるのも──その二人が殺し合うかもしれない事も、見逃せるはずがないでしょう……!)

 止めなければ、と思う。まだ止められると信じたいのかもしれない。

 だが、その感情は血の繋がった肉親が争い合う事を嘆く気持ちではあったが、自分も彼等と同じ立場にあるという意識はなかった。

 ──八歳の時に西の主神殿に入る為に、帝宮を出た。それからもう、十五年。

 ティレーマにとっては、そこは過去の思い出の場所でしかなく、皇女という意識も希薄だ。父である皇帝に命を狙われる事すら、当事者でありながらも時々何かの間違いではないかと思うほど。

 その為に母、そして同じ血を分けた弟と妹が帰らぬ人になったと知らせを受けた時も、実感を得る事は出来なかった。

 あまりにも離れていた時間が長過ぎたのだ。十五年の月日は、ティレーマから肉親に対する思慕すらも薄れさせるに十分だった。

 長年いた西の主神殿を出たのも、皇女としての立場ではなく、あくまでも一神官として傷付く人々を無視できなかったからに過ぎない。

 その原因が自分にある以上、『聖女』の名を持つ者として、可能な限り被害を食い止めるのは義務だと思ったからだ。

 だから、ここにいる。だからこそ──ティレーマには理解出来ない。

 敬愛していた父に命を狙われる悲しみと苦しみ、そしてその人に刃を向ける絶望とやり切れなさを──。

 この地方神殿へと向かう道中でソーロンが挙兵した話を聞いた時、ティレーマが感じたのは違和感だった。続いてミルファまでもが挙兵した時は、理解出来ないとすら思った。

 殺生のみならず、他者を傷つける事も禁忌として育った身である。彼等の行動は短絡的で、同時に配慮のない行動のように思われた。

 自分に降りかかる火の粉を自ら振り払うというのなら、まだわかる。

 だが、彼等は挙兵する事で争い事を大きくし、あまつさえ無関係な人同士をそれに巻き込み、本来なら死ぬ必要もない人間を数多く犠牲にしているのだ。

 そんな権利が、何処にあるだろう。皇子、皇女であるだけで、彼等の命を壁にする事が許されるはずがない。

 兄・ソーロンはもうすでにこの世の者ではなく、今や父にその刃を向けるのはミルファだけ。

 そのミルファが理由はさておき、わざわざこちらに出向いてきているというのなら、これは絶好の機会かもしれない。

 直接会って話す事で、ミルファが何を思い、どのような心境で父に対して挙兵し、父を討とうと決めたのか──自分には理解出来ないその心情を、知る事が出来るのではないだろうか。

 そしてそれがやはり間違いであった場合は、説得して止める事も不可能ではないかもしれない。

 もちろん、ミルファが剣を引いたとしても問題は残る。父が自分達の命を狙う以上は、争いは本当の意味では終わりはしないのだから。

 ……だが、関係のない人間を巻き込む事は避けられるはずだ。

 ティレーマの瞳に、強い意志の光が浮かぶ。

「返事を書かなければ……」

 誰に言うともなく呟くと、ティレーマは書簡を手に祈りの間を後にした。

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