第三章 聖女ティレーマ(2)
西領が現在平穏である事が出来る、その最たるもの──『聖女』。
この南の地までその名を届かせる彼女は、ミルファにとってもまた特別な存在だった。
聖女ティレーマ──正しい名はティレーマ=サリス=セリエン。
現皇帝の第二皇女にして、ミルファを除けば唯一生き残った母親の違う姉にあたる。だが、ミルファにその人に関する記憶はほとんどない。
最後に会ったのが二歳。それ以後の十五年もの間、今まで一度も会った事がないからだ。ミルファにとっては、もっとも関係の薄い姉である。
もちろんそれには理由がある。と言うのも、ティレーマはその手に聖晶を持って生まれてきた人間──神官だからだ。
だからこそ今まで生き延びて来れたばかりか、西領を守る事も出来たと言って過言ではない。
神官が持つ庇護の力は、己のみならず周囲にも及ぶ。現在ティレーマは西領の最も帝都寄りにある地方神殿に身を寄せ、そうする事によって帝軍のそれ以上の侵攻を防いでいるという。
神官の身である限り、その命は保障されている。そう思われている事を理解した上で、けれど、とミルファは逆接に言葉を繋ぐ。
「──西は、牙を持たない」
ミルファの言葉に思うところがあったのか、ルウェンがはっと表情を引き締める。実際、西領の対応が受身に終始しているのは事実だった。
「西の主神殿におられた姉上が自ら帝都側まで出て来られたからこそ、西領の安全は保たれている。けれど、東領の事でもわかったはずです。……どんなに奥地にいようと敵の手は届く。すぐ目の前にいるのならなおの事です」
「……西の地に、魔物が差し向けられると?」
「可能性は高いでしょう。……神官である以前に、姉上は『皇女』なのですから」
皇帝の血を継ぐ人間である限り、その命は常に狙われている。しかも、実の父にだ。
もしミルファが神官に関して世間一般並に無知だったのなら、おそらく危惧は抱かなかっただろう。このまま北上し、直接帝都を目指したに違いない。
神官だからと言って、決してその命を奪えない訳ではない。その事実を、知らなければ。
だが、ミルファは今この場にいる人間の誰よりも『神官』を知っている。ずっと、身近な存在だったからこそ、他の人間が見落としている事実を知っている。
だからこそ、危険だと思ったのだ。世の『神官に害を為す事は出来ない』という一方的な固定観念が。
『神官だからといって、絶対に怪我をしないって事はないよ』
遠い日に、聞いた言葉を思い出す。
『「命に危険がない」程度なら普通に怪我をするし、身に降りかかる直接の災厄ではないから、病気にも罹るんだよ』
結局の所、聖晶がその持ち主を守るのはその命に及ぶ程の直接的な災厄だけで、それ以外の手段でならその命を奪う事は出来るのだ。
そして彼等から反撃する事もまず絶対的にない。神に仕える身には殺生以前に故意的に他者を傷つける事もまた、禁忌とされているのだ。
つまり、魔物に襲われた場合でもひたすら守りに徹する事しか出来ないという事だ。相手が人間ならばさておき、魔物はどんな力を持っているかわからない。もし、力が及ばなかったら。
『神官』が不可侵であるという思い込みのある状況で、東領の時のような惨事が起こったとしたら。ただでさえ、東領で魔族の集団が現れた事件は人々の動揺を誘ったのだ。
西の地の安定は、たった一人の人間の背で支えられている。
『安全』と思い込んでいたものがそうでなかったとわかった時、その安寧の上に胡坐をかいていた人々に一体どんな混乱を呼ぶかわかったものではない。
場合によると、暴動すら起こるだろう。西の地だけで済めば良いが、こうした話は広まるのが早い。世界中が不安と恐怖に叩き落とされる。
「今ここで西までも均衡を失ってしまう事は避けたい。だから……」
「あえて帝都と西領の間に入って壁になる、と?」
言葉の後半をルウェンが引き継ぐと、ミルファははっきりと頷いた。
混乱を避けたい、という思いが最も比重を占めてはいるが、ミルファの本心はまた別の所にある。
二度と東領のような事は繰り返したくなかった。もう、ミルファには皇帝を除けばティレーマしか近しい人は残っていない。
喪いたくない──その想いが全てだった。今度こそ、躊躇わずに手を伸ばしたい。たとえそれが、馴染みの薄い姉でも。半分だけとは言え、血のつながった『家族』なのだ。
「私が西へ動く事で、南領への侵攻も減るはずです。……狂帝の狙いは、あくまでも私と姉上の命なのだから」
ただし、その裏にいる魔物を動かす存在の狙いが、何処にあるのかはわからない。今まではたまたま目的が一致していただけで、これからも皇帝と目的を同じくしているかなど誰にもわからないのだ。
その部分だけが不安要素だ。だがまだ確証が得られていない今、ミルファはそこまで言及はしなかった。
いずれ直面する問題だろうが、あまりにも相手に関する情報が少なすぎる。不用意に不安の種を蒔くのは避けるべきだと判断した結果だ。
「これ以上、必要のない血が流れない為に。……私は西への行軍を望みます。異論はありますか?」
真摯な願いの込められたその言葉に、反論の言葉はもう聞こえなかった。
+ + +
そして数日後──反乱軍に属する全ての人間へ今後の進路に関しての指令が下った。
多くは疑問と動揺を隠さなかったが、上官に当たる指揮官達による自主的な説明によって、皆最後には納得した。
西へと向かうとなると、いろいろとまた別の問題も浮上するだろうし、何より今まで背を守っていた『南領』という後ろ盾を失う事になる。
だが、彼等もまた現状を良しとせず、未来を切り開かんとミルファに運命と命を預けると決めた人間だった。
シェリス河を渡る準備が整ったのは、それから更に数日後。ついに南の地を離れる事になったミルファは、その船上で空を眺めた。
南の領館を旅立った時に見た、暗い曇天とは違う夏の気配を強く漂わせる青い空がそこに広がっている。
ただそれだけの事なのに──何故、こんなにも心が救われるような気持ちになるのか、ミルファは不思議だった。
そっと胸元に手を伸ばし、そこにある石に触れる。記憶にある春の空は今は遠く。けれど、深みを増した空はミルファの背を押す。
その目はやがて真上から北、そしてこれから進む西へと動く。
(──さあ、船出)
今まで自分を庇護してくれた手を離れ、これから先は自分が付いて来てくれる人々を導き、可能な限り守らねばならない。
民を守るべく安全であったであろう最西の地から単身出てきた姉の事を想う。他者の命を預かる重みを、西の地にいる姉もまた感じているのだろうか。
「……お会いしてみたいわ」
会って、言葉を交わしてみたい。
果たして姉は、自分の事を少しは覚えてくれているのだろうか。どんな姿で、どんな声をして、どんな人となりをしているのだろう。
──自分達の命を狙う父に対して、どんな感情を抱いているのだろう。
聞いてみたい事が山ほどあった。
ソーロンは間に合わなかった。だからこそ、今度は。
──父に対して挙兵してから、三年目の夏。
先行きのわからない流れの中、ミルファはその人生で最大の激動の年となる十八の年を迎えていた。