第二章 騎士ルウェン(23)
その夜──。
盛大に浴びた返り血を洗い流し、夜風に当たっていると、ふと背後に何者かの気配が生じた。何者かと問わずとも、それが誰かルウェンにはわかった。
名は知らないが、そんな風に唐突に姿を現す事の出来る存在を彼は一人しか知らない。
「……何か用か?」
今は寸鉄帯びていない。元より得物を手にしていたとして、太刀打ちできるかも怪しい相手だ。丸腰のまま、ルウェンはその目を背後に向けた。
闇の一部のように、ひっそりと佇む姿。頭からすっぽりと布を被ったその人物は、暗い声音で彼の問いへ答える。
「まだ……、名乗りもしていなかった事を思い出しましたので」
「それでわざわざ? ……ご苦労な事だな」
得体が知れないのは相変わらずだが、その言葉にルウェンは正直拍子抜けした。
つい先程の戦いでルウェンすらも畏怖を覚える程の呪術を使って見せた人物だと言うのに、たかがそれしきの事でやって来るとは。
だが、実際それが目的だったらしく、彼は自らの名を口にする。
「──ザルーム、と申します。皇女ミルファ様にお仕えする呪術師でございます」
淡々とした口調で名乗られたその名前は、ルウェンの知るものだった。思わずまじまじと見つめてしまう。
(こいつが……)
思い出すのは、セイリェンへと向かう前にジニーと交わした会話だった。
『誰か知らないが、一度会ってみたいもんだな』
『── 今回の作戦が成功したら、会えるかもしれませんよ』
今回の作戦を立てた、皇女ミルファの『影』。言われてみれば、これ以上ぴったりの存在もいない。
あの時は胡散臭いとしか思わなかったが、実際に会ってみると驚きの方が先に立つ。恐らく今まで、ミルファの側にありながらも、ほとんど表立って姿を見せていなかったに違いない。
そんな人物がまだ正式に仕官もしていない自分の下へと姿を見せた事──わざわざ名乗りに来た事が不思議でならなかった。
だが、それよりもまず先に言わねばならない事を思い出し、ルウェンは口を開いた。
「先刻のあれ、助かった」
「……」
ザルームは虚を突かれたように沈黙を返した。表情は見えないが、そうした事は雰囲気で伝わる。やがてザルームは微かに苦笑の滲む声でいいえ、と答えた。
「あれも、ルウェン殿の働きがあったからこそ。正直申しまして、魔物相手にあそこまでやれるとは思ってもおりませんでした」
そこにあるのは、心からの賞賛。それは益々ルウェンを困惑させた。
あれだけの力を持つ呪術師である。もっと尊大で傲慢な態度を取ると思っていたのに、これでは肩透かしだ。
だが、褒められて悪い気がするはずもない。ルウェンはまだ僅かに持っていた警戒を解いた。
「それはこっちの台詞だ。あんな術、初めて見たぜ」
東領の時代から幾度か呪術師の術は目にした事があるし、その支援を受けた事もある。だが、あれほどの威力を持った術は見た事がなかった。
完全に凍りつき、氷像と化した魔物。まだ手は、あの腕を砕いた感触を覚えている。
「最後の術は特にすごかった。呪術ってのはあんな事まで出来るものなんだな」
その時の事を思い出しながらそう言えば、ザルームは静かに頭を振った。
「あれは……、呪術ではありません」
「──え?」
「最後に使った術は、『呪法』と呼ばれる禁呪──今のこの世にはほとんど伝わっていない、命を奪う事を目的とした術です」
「……!!」
その言葉は、ルウェンから言葉を奪うのに十分だった。
それはあの狂乱の夜の果て、東の主神殿で無残な姿になったかつての主を前に聞いた事を、否応なしに思い出させる。
──今ではもう記録にもほとんど残っていませんが、身体を傷つける事なく人の命を奪える術があったそうです……。
一月前のあの日、ソーロンの命を奪い去ったかもしれないもの。おそらくザルームは、それと同様の術を使ったと言っているのだ。反射的にルウェンはザルームへと問いかけていた。
「お前……、何を知っている!?」
「──……」
呪術という事にしておけば疑問にも思わずに済んでいたかもしれない事実を、ここでわざわざ口にするその意図を問う。
まるで、疑えと言わんばかりの言葉──だが、それ故にルウェンはザルームが何らかの情報を手にしているのだと確信した。
おそらく今ここに剣があれば、その切っ先を咽喉元に突きつけていたに違いない。
だが手元に剣はなく、ルウェンは代わりに切りつけるような鋭い視線をザルームへ向けた。その視線を真っ直ぐに受け止め、やがてザルームは重い口を開く。
「──事は、あなたが思うより重大で深刻です」
「何……?」
「ただ言える事は、深入りすればただでは済まないという事だけ──命の保障も出来ません。それでも……、ソーロン様の敵を討ちたいとお望みですか」
それは忠告のようでいて、明らかな牽制とも言えた。
呪法と呼ばれるものがどんなものかを意識させる事で、ルウェンの関与を拒んでいるのだ。……命が惜しければ手を引け、と。
その問いに、ルウェンはしばし考え込むように沈黙し──やがてその口元に挑発的な笑みを浮かべた。
「そんなの決まっているだろうが。……誰が手を引くかってんだよ」
「……」
「相手がどんな化け物だろうと、これだけは譲る気はねえ。絶対に見つけ出して──この手で討つ。必ずだ……!!」
ここで手を引いては、一体何の為に生き延びたのかわからない。魔物が関わって来る時点で、命を秤にかけているようなものである事も理解している。
その為だけに、満身創痍の身を引きずってここまで来たのだ。今更、命が惜しいなどという理由で尻尾を巻いて逃げるなど出来るはずがない。
彼の意志の固さがわかったのか、ザルームはそれ以上は何も言わなかった。そんな彼に逆にルウェンが尋ねる。
「何でわざわざそんな事を言いに来たのかわかんねえけどよ。一つだけ聞きたい事がある」
「……何でしょう」
「お前は、味方か?」
それが愚問なのはルウェンにもわかっていた。
自ら敵だと言う者はこの状況ではいないだろう。かと言って、肯定されれば安心出来るという話でもない。そもそも、『誰にとっての味方』か捉え方次第で答えも変わる。
だが、確認せずにはいられなかった。関わりを拒もうとするのは自分を邪魔だと思ってなのか、それとも自分が巻き込まれる事を看過出来なかったからなのか。
──彼の予想通り、ザルームは肯定もせず否定もしなかった。代わりのように、再びその身を闇へと紛らせながらただ一言だけを言い残す。
「……今の所は」
「──!?」
ルウェンははその答えの意図する所に気付き、言葉を失った。つまり──ザルームにもザルームなりの理由があって動いているという事だ。
ザルームが仕えるミルファの目的は明らかだ。現皇帝を廃し、再び世界に安定を齎す事。ルウェンの目的もその延長線上にある。
だが、ザルームの目的もそうであるとは限らない。
もし彼の目的がルウェンの─意志に反するものであった場合、敵にもなり得るということならば──主であるミルファにとってもそうであるとも言えるのだ。
魔物をまとめて倒せるほどの力を持つ呪術師に対し、果たして剣を振るう事しか出来ない人間の歯が何処まで立つだろうか?
そしてミルファはそれを理解してザルームを側に置いているのだろうか。
気がつくと、もうそこにローブ姿はなかった。最初から存在していなかったように、見事に姿が消え失せている。
その事を呆然と確認しながら、ルウェンはそこから動けずにいた。それだけザルームの残した言葉は彼にとっては衝撃的なものだったのだ。
やがて夜風で身体が完全に冷え切るまで、彼はそこに立ち尽くした──。