第二章 騎士ルウェン(22)
『声』を送った瞬間、『彼』がこちらに目を向けたのが遠目でもわかった。
よもやそこでこちらを見るとは思わなかったザルームは、正直言ってその反応に驚きを隠せなかった。恐るべき勘、としか言いようがない。
だが、その反応で『声』が無事に届いた事を確信出来た。
続きの言葉を送ると、彼──ルウェンは動き始める。その動きは明らかに彼の指示に従うものだった。
先に行使した呪術も活きているのだろう、ルウェンと共に他の兵士達も果敢に魔物へ挑み、やがてじわじわと三体の魔物の間隔が狭まってゆく。
(……、さあ、次だ)
自分に言い聞かせ、時を逃さずに術を行使すべく術力と集中を高める。見る者が見れば、彼の周囲の空気がゆらりと揺らいでいるのを見て取れただろう。
それはさながら陽炎。しかし、その源は熱ではなく──『力』そのものだ。
勝負は、一瞬にして一点。
本来ならば広範囲を対象とする術を、上空から、しかも魔物のいる場所だけに集中させるのは至難の技だ。術者の力量だけでなく、術の展開の速さも問われる。
しかし成功率の低いその術を彼が選んだのは、それが一番事態を確実に終わらせると判断したからだ。
ザルームは呼吸を整えると、眼下の動きを追う。三方向から押しては引きを繰り返し、徐々に魔物は港の端へと追い詰められていく。
やがて一塊とまでは行かないがほぼ一箇所に魔物が揃った瞬間、ザルームは最初の詠唱を口にした。
「──メイ・ゲイル・リテラ・ペルセム」
それはこの地に存在する要素への呼びかけ。その呼びかけを受け、瞬時にザルームの周囲の気温が一気に下降する。
リテラ・ペルセム──意味する所は『小さき者』。それは転じてある要素を意味する言葉となる。水と熱──火の二つの相反する属性を有するもの。
彼の言葉を術力を受け、場を支配するその要素の度合いがたちまち強まる。
ヒュオオオオオォォ……!
それは急激な温度変化によって生じた風により、術の展開範囲である魔物の周辺にまで運ばれる。さながら霧のような、微かに白濁した風はたちまち魔物の体を絡め取り、その足元を包み込んだ。
「イ・チェイル・カイネ・ラーナ・バリス」
続く言葉を口にすると、それは求められた通りの働きをする──魔物の動きを留める為に。
「……っ!?」
一方地上では、その変化を目の当たりにした兵士達が、ぎょっとその目を見開いていた。
季節は初夏──日没を迎えても、まだ微かに大気は熱を帯びている。
それが急に肌寒さを感じるほどに冷えたかと思うと、ピシリと空気を鳴らしながら魔物の足元が凍り始め、瞬く間にその足の自由を奪い去ったのだ。
「さ、下がれ!」
魔物を留めるだけに飽き足らず、なおもその手を周囲へと伸ばす冷気に誰からともなく声が上がり慌てて彼等はその場から下がった。
そこでようやく呪術師が近くに存在する可能性に気付き、兵士達がしきりに周囲を見回し始める。姿の見えない援軍に明らかに動揺していた。
──そこまではまだ序の口。
二属性要素である氷を利用した、比較的基本的とも言える捕縛系呪術に過ぎない。
それはあくまでも足止めと兵士達への牽制を目的としたものだ。ザルームは兵士が下がるのを目の端で確認すると更に『続き』を紡ぎだした。
今となっては忘れ去られて久しい、『禁じられた言葉』を。
「……メイ・リング・ピューラ・デ・テア・リューシ・テレ・イスト・ピューラ・ナ・ディーズ・フューグ・アレル・ノア・リオヴァ……!」
迷いを振り切るように、淀みなく長い言葉の羅列を一気に連ねる。言い終わると同時に襲ってきたのは、先程とは比較にならない苦痛だった。
それは全身の細胞がバラバラになるような感覚と四肢が引き千切れるような痛み。
耐え切れずがくり、と膝から崩れ落ちる。それでも宙に留まっていられたのは、彼の精神力が並ではない証と言えた。
「…ッ、……ァ、ハ……ッ」
喘ぐような荒い呼吸が、布の内で響く。
牽制に使った前段階の呪術で止めておけば、ここまでのダメージは受けなかっただろう。しかし彼に後悔はない。
苦痛に耐えながら地上を見ると、それだけの痛みを代償とした術は無事に成功しているようだった。
魔物は全て彫像のように動きを止めている。うまく人への発動は防げたらしい。ほっ、とその肩から力が抜けた。
これで全滅は避けたいという、ミルファの願いは叶うはずだ。今回の戦いで出た人的被害は決して少なくはないが、六体もの魔物を相手にしながら、それを撃退した事は大きい。
正に今、彼の下でルウェンと思しき人間が彼の術の結果を受けて、最後の始末をつけている。
呼吸を整えながらそれを見ていたザルームは、ふと気付いたように口元へその骨のような指を伸ばした。
離れたそこにある色は、暗く沈んだ赤──。
しばらくそれを眺め、やがてザルームはぎゅっとその手を握り締める。口内に広がる苦い血の味に、くすりと自嘲するような苦笑を漏らしながら。
+ + +
白い風が去ったそこには、動かなくなった魔物が三体。
魔物を抱くように現れた風はすでに消えているが、すぐに近寄る事は出来ずにいた。
足元を凍りつかせて自由を奪うという呪術は、この南の地では滅多に見られないものだが、凍土に覆われた北領などではむしろ一般的でなものであり、驚く程のものではない。
だが、それが全身に及ぶものとなると、聞いた事も見た事もない者ばかりだった。ただ一人、それがそもそもの狙いだと知っていたルウェンすらも、正直驚きが隠せなかった程だ。
しかしすぐに我に返り、『声』が求めた事を実行に移す。すなわち──動きを止めた魔物を『叩く』為に。
最初に目指したのは、一番難関だと思われた岩石のような体表を持つ魔物だった。
一人魔物に向かって走ると、その得物である大剣を大きく振りかぶる。そして弾かれるのを覚悟で、中途半端に持ち上がったまま固まっている腕へその刃を振り下ろした。
ブォッ!!
低く空気を切り裂きながら、ルウェンの体重がかかった一撃が魔物の腕へ炸裂する!
……ガギッ!
まず、腕に感じたのは痺れるような硬い手応え。
だが次に起こったのは、ルウェンすらも意表を突かれる出来事だった。
──ピシッ!
振り下ろした刃の下から聞こえたのは、そんな何かが割れる音。
目を丸くしながら剣を引き、後ろへと飛びすざった彼の前で、あれ程に剣を弾き返していた腕に目に見えてひびが入ってゆく。それは瞬く間に広がり、やがて腕は綺麗な断面を見せて地面へと落下した。
ガシャン、と音を立てて落ちた腕はさらに粉々に砕け散る。
「嘘だろ……」
呆然とそれを見届けたルウェンは、思わず信じがたい思いをそのまま口にしていた。
(完全に凍り付いてやがる……!)
それはむしろ氷に覆われたと表現するよりは、その体ごと氷になったとしか表現しようのない状態だった。
岩石のように硬かった体表までもが、普通の氷並の硬さに変貌を遂げているのだ。
そう認識すると、ルウェンはぞくりと背筋に寒気が走るのを感じ、顔を顰めた。それは、滅多に感じた事のない畏怖の感情だった。
それを振り切るように頭を振り、ルウェンはその剣を再び振るい始める。その姿に、他の兵士達も我に返ったように、凍りついた魔物へ完全な止めを刺すべく動き出した。
……やがて援軍がようやく辿り着いた頃には、三体の魔物の死体と原型を留めない肉の破片がそこに転がっていた。
それは日没から早数刻が過ぎた時分のこと。それは絶望的とも思われた彼等の戦いが、ようやく終わりを迎えた事を示していた。
同時に、セイリェンを巡る戦いもまた終わった事も意味していた。
生き残った帝軍の兵士にすでに戦う意志はなく、シェリス河に駐留していた帝軍の船はその混乱に乗じて帝都へと立ち去った後だったからだ。
それはセイリェンで戦う味方を見捨てると同義の行動であり、帝軍の生き残りから抗う意識を奪い去るに十分だった。
やがて、何処からともなく声が上がる。
死地を乗り越え、生き残った喜びと安堵、そして勝利に湧き上がる兵士達の中、一人ルウェンは空を見上げた。
──もうそこには、静かに彼等を見下ろす月があるばかりで、何者の影も見当たらなかった。