第二章 騎士ルウェン(20)
──契約を忘れるな
それは一月ほど前の明け方に、戒めるように告げられた言葉。
──お前は『影』
──本来なら、光がなければ存在する事も出来ないもの
だから忘れるな、と。
この身がこうしてここにあるのは、『契約』という名の鎖があればこそ。鎖を断ち切らない限り、自分だけでは存在出来ない『影』も存在出来る。
……けれどその鎖は、とても細く脆い。
──本来ならば、お前はこの世界にあってはならぬもの
もし、その鎖を完全に手放したなら。
この偽りの身は、たちまち滅ぶのかもしれないけれども。
──自由は、ないと思え
選択の余地など、最初からない事はわかっている。『契約』を守る事が、全てだという事も。
……それでも。
それでも──。
+ + +
遥か下、地上から聞こえるのは怒声に悲鳴、あるいは剣戟の音。時折混じるは、闇の生き物の咆哮か。
見下ろしたそこはすっかり闇に支配されている。
港という比較的障害物が少ない場所である事が幸いしてか、月明かりだけでもかろうじてそこにあるいくつもの人影は確認出来るが、果たしてそれが帝軍に属する者なのかそれとも南領側に属する者なのか判別は出来ない。
先程のミルファの指示を受けて今頃は援軍がこちらに向かっているに違いないが、状況を見るに果たして間に合うかどうか微妙だ。
人影に混じる、明らかに大きさの違う影の数を数える。一体、二体──全部で四体。
それらしい大きさの動かない影が二体ある所を見ると、その二体は自力で倒したのだろう。
(……取り合えず、策は生きたか)
今回、東側の人間ばかりを攻撃側に回したのは、魔物に比較的免疫があると判断したからだ。
おそらくこの場にいたのが南領側の人間だったなら、魔物が集団で姿を見せた段階で混乱し、場合によっては事態を悪化させると思ったのだ。
──少なくとも、戦いを挑む気概は持てなかったに違いない。
もちろん免疫があるからと言って、勝てるなどとは思ってはいなかった。相手は魔物──人と比べるにはあまりにも強大な力を持つ存在なのだから。
必要以上の混乱を抑えられればと思っていた程度だっただけに、二体とは言え、その魔物を逆に倒していたのには正直彼にも驚きだった。
いかなる術を使ってか空に立つ彼が見下ろす先に、一人特に動きが目覚しい人影がある。
(……彼のお陰か)
──『返り血のルウェン』
南の地にまで聞こえていた、その人物の二つ名を思い出す。東領で一度直接見えた顔を思い出し、その名が伊達ではない事を実感した。
しかし一見、圧しているようにも見えるが、いくら彼でも半日以上動きっぱなしとなれば疲労もかなりのもののはずだ。しかも、まだ身体は万全ではないはず。
(猶予はない……)
彼はそう結論すると、その目をちらりと天上に座する月へと向ける。
禍々しい赤い輝きを帯びた月。まるで──今宵流れた血を吸い取っているかのような。
(せめて、夜でなければ)
胸の内で苦々しく思う。
夜の闇は、魔物に力を与える。太陽の光の下では狂気に支配される彼等だが、月の光の下ではその力を増すのだ──狂気に冒される事なく。
その事実を知る者はほとんどいない。否、知る必要もなかったと言うべきか。本来ならそれはこの世界にはもう、存在するはずのないものなのだから。
果たして残った魔物にどれほどの知性があるかはわからないが、まだ人も残る市街地へ動かれる可能性が高い。そうなると彼でもうかつに手が出せなくなる。
そう、今は一刻を争う。彼──ザルームは再び地上に目を戻すと、その手を地上へと向けた。
老人の、と表現するよりは、骨のようなと表現した方がしっくり来るその手に、かつて耳にした戒めの言葉を思い出す。
──契約ヲ・ワスレルナ──
その言葉を振り払うように一度頭を振り、その口に言葉を乗せる。
「……、リオン・ペルセム・イルシータ・ロニ・リアス」
──それは己の身を縛る鎖を撓ませる行為。
「レシテ・リューシ・ナ・モレス」
──それは、己の役目を忘れる行為。
「メイ・アウィータ・グルーレ・ニスティータ・テア・ディアス……!」
詠唱が終わると同時に、彼の身を襲ったのは呼吸すらも奪う激痛だった。
「……ッ!」
ぎり、と心臓を刺し貫くような胸の痛みは、わかっていて『契約』の枠を超える行為に及ぶ己を責めているかのようだった。
その痛みをやり過ごし、地上を見やる。
呪術としては一般的な術ながらも、展開範囲が広かった為にその難度が飛躍的に上昇していたその術は、どうやらうまく効力を発揮してくれたようだ。
その結果を見つめ、彼は細く吐息をつく。
(……──契約、か)
それを守る為に、今自分はここに在る。それこそが、存在理由。
──でも。
「それでも……、譲れないものが、あるのですよ……」
誰に言うともなく呟いたその言葉は、微かな苦笑を帯びて空に消えた。
+ + +
ダンッ
──ビュオッ!
跳躍すると同時に飛び掛ってきた魔物を、紙一重でかわす──はずだったが、勢い余って泳いだ身体を踏み留めようとしたその足が僅かにもつれる。
「……ッ!」
すぐさま体勢を整えた為、かろうじて転倒は免れたが、すれ違いざまに負傷していた左肩を魔物の爪が掠っていた。
じわりと開いた傷から血が滲み出す感覚に、無意識の内に顔を顰める。精神が高揚しているからか、痛みはほとんど感じなかった。
「…ハッ……、ハァッ……」
研ぎ澄まされた聴覚が拾う、自身の荒い呼吸音がやけに耳につく。
とうに身体の限界は超えていた。それをおして戦い続ける彼の身体が、悲鳴を上げている。
──魔物が現れてから、果たしてどれ程の時間が過ぎたのか。長くはないが、かと言って短くもないだろう。
周囲には人や魔物の流した体液の臭いが充満し、相応の血が流れた事を示している。
今までに倒した魔物は二体。
一体は最初に自力で倒したものだが、二体目は周囲の協力の下に仕留めたものだった。それはおそらく、他に十分誇れる戦果と言えただろう。
まだ完治していなかった身体は、ぎしぎしと軋む音を立てそうな程に疲れ果てていた。
当然無傷でいられるはずもなく、先程肩の傷が開く以前にも、右足と右腕に軽度だが傷を負っていた。身体の左側を無意識に庇った結果だ。
──それでもまだ、四体残っている。戦いは終わっていない。
四体の魔物に梃子摺る理由は、彼等の疲労がピークを迎えている事に加え、一体が例の岩石並の体表を持つ魔物であり、一体がやたらと俊敏な動きをする事にあった。
前者は普通の攻撃ではこちらの剣が負けてしまうし、後者はその動きを追う事すら難しく『先を読んでこちらから仕掛ける』事が出来ないでいるからだ。
残りの二体はその二体に比べれば比較的標準的な魔物と言えたが、だからと言って力が弱い訳ではない。
(ちょっと、やばいな……)
こういう状況で後ろ向きな思考は持ちたくはないが、状況を冷静に考えればそう結論せざるを得ない。
今までの戦闘で、味方側も帝軍側も数を削られている。その内に援軍が来るかもしれないが、果たして人が増えたからといって状況が好転するだろうか。
(──しねえ、な)
ちらりと視線を走らせた相棒の表面には、無数の傷がついている。
かなり酷使されたのに、未だに刃こぼれもせず折れてもいないのは立派としか言いようがない。だが、同時にわかってしまう。
……この剣では、とどめを刺すのは難しい。
特に岩石のような表皮を持つ魔物は、弱点である首も心臓も今の状態では傷一つつけられそうにない。
魔物には疲れなどないのか、その動きに乱れはない。腹立たしいが、そこには圧倒的な力の差があった。
(チクショウ、せめてこの剣に……岩をも切り裂くような切れ味があったら……!)
そんな有り得ない事を思いながら、襲ってきた魔物の腕を避ける。
すぐ頭の真上を太い腕が走っていく。飛び退くと同時に剣を横に走らせたその時。
「……あ?」
不意に、手にした剣の重みが消えた。
否──消えた訳ではない。まるで腕の延長のように感じる程に軽くなったのだ。驚いて刀身を見ると、それは夜の闇にぼうっと浮かび上がるような微かな光すら帯びている。
(これは)
今までの戦いの記憶を掘り起こさずとも、その光はルウェンには過去に幾度か見た覚えのあるものだった。だが、今回のように刀身が軽くなるような効果があったのは初めてだ。
(呪術……!)
それは記憶が正しければ、武器や防具を強化する作用を持つ呪術が発動している証だった。
だが、それを確かめる間を与えず、魔物は人の動体視力を超える速さでもってすぐ目の前に迫っている。ルウェンは反射的に剣を魔物へと振り下ろしていた。