第二章 騎士ルウェン(19)
ヒュ……ッ!
空を切り、ルウェンの剣は再生しようと肉が盛り上がるそこへ全体重をかけて振り下ろされる。
ザンッ!!
肉を断ち切る濡れた音が響くと、地面に倒れた魔物の四肢がびくっと一瞬跳ねた後、そのままどさりと力なく落ちる。
──力尽きたのだ。
「……!!」
「ま、魔物を……!?」
月光の儚い光の下、現実を知らしめる濃厚な血の生臭い臭いが立ち込める。それはシェリス河の水の匂いと混じり合い、何処か海を想起させた。
彼の知る──東の海を。
(……)
荒い呼吸に肩を上下させながらも、ルウェンの顔には魔物を倒した喜びも充足感もなかった。ただ、一つ目の仕事をやり終えたような意識があるばかり。
何故なら──まだ、全てが終わった訳ではない事を理解していたからだ。
残る魔物は五体。一人で対峙するには途方もない数だ。
だが彼は再び剣を持ち上げると、その刀身にまとわりつく血を振り払い、赤く染まったままの瞳で次の相手を求めた。
返り血を浴びた凄惨な姿。だが、そんな彼を見つめる眼差しにあるのは恐怖ではなかった。むしろ、その逆──希望。
「『返り血のルウェン』……」
誰かが思わずといったように、彼に与えられた二つ名を口にした。
決して良い意味ではないはずの呼び名。だが、その名は一気にその場の空気を変えてゆく。
「続け……!」
「『返り血のルウェン』へ続け……!!」
「やれる…やれるぞ!!」
たった一人で強大な力を持つ魔物を倒した現場を目撃した事によって、彼等は再び戦う事を思い出した。
相手がどんなに強大であろうと、無敵ではない。戦い方次第では倒せない相手ではないのだと。
ルウェンが次の魔物に向かうのを合図に、彼等もまた各々の近くにいる魔物に相対した。状況は決して良いものではなく、相手が恐ろしい力を持つ事は何一つ変わらない。
自分達がルウェンのような戦闘能力がある訳ではない事も承知の上で、彼等は状況に立ち向かう事を選んだ。
それが無謀と言われる行動であっても。それでもその時、確かに何かが大きく変わったのだ。
+ + +
「──魔物が……!?」
魔物出現の報告を受けて、ミルファの顔に厳しい表情が浮かんだ。
すでに太陽は地上を去り、外は夕闇に包まれている。
状況によっては一時撤収を指示する為に送った伝令は、異変に気付くや報告をすべく、すぐに取って返したという話だが、その往復にかかった時間を考慮すると状況はかなり深刻だと言えた。
果たして、今どうなっているのか。少なくとも良いものではないに違いない。
「……正確な出現位置と状況は」
「はい、出現位置は現在帝軍が占拠している港です。魔物は帝軍との交戦中に現れた可能性が高く、敵方にも味方にもかなりの負傷者、死傷者が出ている模様です」
口早に告げる伝令の顔もひどく緊張している。
それもそうだ。何故なら魔物が集団で現れるなど、今までは『有り得ない』事だったのだから。
その報告に耳を傾けながら、ミルファは怖れていた事態が現実になった事、それによって予想の枠を超える事のなかった、ある可能性が現実味を帯びた事に動揺を隠せなかった。
無意識の内に唇を噛み締め、胸元を握る。そうして何とか自分を保つのが精一杯だった。
じわじわと身の内を侵食するのは──恐怖。自らの死を意識したものとは異なる、純粋混じり気なしの恐怖だった。
魔物が集団で、しかも何らかの意図を持って現れるその意味に対しての。
(出来る事なら、そうであって欲しくはなかったけれど……)
そう思うが、ここまで現実となってしまった以上、おそらく間違いはないだろう。
──魔物を支配出来る何者かがいる。単体でも十分脅威であるそれを、意のままに操れる何者かが。
それは皇帝の背後に見え隠れする存在を意識せずにはいられなかった。
そして十中八九、その存在は先程ミルファに対して刺客を送り、なおかつその命を取るに足らないもののように奪った呪術師に違いないのだ。
呪術に加え魔物までも従える──その存在にミルファは恐しいと思った。
おそらく、それこそが相手の狙い。今回魔物を仕掛けたのは、セイリェンを制圧する為でもなく、ミルファの命を奪う為でもない。
もし魔物が単なる手駒なのだとしたら、帝軍側にも犠牲者が出るのはおかしな話だ。だから──目的は別にある。
(ただ、自らの力とその冷酷さを誇示する為だけに? それだけにこんな手の込んだ事を……?)
今ある手持ちの情報で考えられるのはそれだけだった。
他に理由があるかもしれないが、少なくともそれが狙いならば、目的は完遂されたと言えるだろう。
実際、ミルファは今動けずにいる。
予想以上に強大な敵の存在を前に、自分を保つ事で精一杯なのだから──。
「……殿下?」
普段ならば、報告すれば打てば返るように即座に指示を出すミルファが沈黙している事を訝しみ、伝令が思わず声をかける。
その声でミルファはようやく現実を思い出した。
ここで手の届かない相手の事をどう考えようと、手出しも何も出来ない。今出来る事は他にあるのだと。
今取れる、最善の策を。……一人でも多くの者を窮地から救う為に。
握り締めていた胸元から手を離し、ミルファは小さく吐息をつくとすぐさま頭を切り替える。今こうしている間に、また犠牲が出ているかもしれないのだ。
「……おそらく、もう帝軍にこちらを攻撃する余力はありません。民の防衛に回している者の内、余力がある者を全て港へ向かわせなさい。支援の方は命に関わる重傷者を抱えていないのなら、そちらもすぐに向かわせるように。──もはや敵も味方も関係ありません。人的被害を最小限に食い止める事を最優先になさい……!」
「はっ!」
ミルファの言葉を受けて、伝令がすぐさま立ち去る。その背中を見送りながらも、今の指示で良かったのかミルファにもわからなかった。
今日は朝からずっと動きっぱなしなのだ。いくら体力に自信がある者でも、いい加減に疲労が出ている頃に違いない。
そんな状況で──果たしてどれだけの事が出来るのか。だが、港で現在戦っている人間を切り捨てる事は出来ない。
──絶対に全滅という事だけは避けたかった。それは結果的に敗北を意味する。
正体を現さない、けれども確実に存在する『敵』に負ける事になる。人の命を道具のようにしか考えていない『敵』に。
(でも、守る為に人を動かして──それでさらに犠牲者が出たら……?)
相手が、せめて人ならば。
怖れる事はないし、いくらでもやりようがあった。だが、それが魔物になっただけで、事態の動きは予測できないものになってしまった。
そして……、それはこれから先に進む限り、ずっと付き纏うのだ。ずっと──全てが終わるまで。
ぐっと拳を握り締めて、思いつめた顔で思案する。
これぞという有効的な策を思いつけない以上、少しでも良いと思われる方策を探らなければ──それが彼等の命を預かる自分の、今出来る事。
その時、背後でふと気配が生じた。
その気配はいつも自分が危機の時に現れる。まるでそれが伝わるように。そんな事を思いながら、ミルファは背後に目を向けた。
「ザルーム……」
名を口にして、ミルファは確かにその瞬間、自分が安堵感を覚えた事を自覚した。ほっとしたのだ。……事態は何も変わらないのに。
その事をミルファはすぐに恥じた。
その存在を信じて良いかもわからないくせに、その手だけは欲するなんて─ なんて都合が良過ぎるのかと。
その結果、名を呼んだまま何一つ言葉を紡げなくなる。そんなミルファの心情を知ってか知らずか、ザルームが口を開く。
「──我が君」
呼びかける声は、いつもと変わらぬ陰鬱な声。何かと視線で問うと、ザルームは淡々と言葉を重ねた。
「この場から、離れる事をお許し頂けますか」
「……?」
一瞬、その言葉の言わんとする所を推し量れず、思わず眉根を寄せる。だがすぐに目を見開くと、ミルファは思わず問い返していた。
「……何とか出来るのか?」
「お約束は出来ませんが。……最低限、彼等を助力する事は可能かと」
その言葉だけで、十分だった。
つまり、ザルームはミルファの身を守る事まで手が回せないが、その代わりに港での戦いに力を貸すと言っているのだ。
知る限りでは今まで事がミルファの命に関わらない限り、自らその力を使用する事がなかったザルームが、だ。
決して表立って動こうとはしない彼が、動いてくれようとしている。ミルファは表情を改めると、きっぱりと頷いた。
「わかった、この身は自分で守る」
「……それではしばらく失礼いたします」
未だに彼に対する疑惑の棘は刺さったままだ。だから『頼む』という言葉は口には出来なかった。それを口にしては、本当に都合の良い人間になってしまうような気がして──。
そんなミルファに、ザルームはいつものように一礼するとそのまま姿を消す。残されたミルファに出来る事は、いるのかどうかもわからない存在に祈る事だけだった。