第二章 騎士ルウェン(17)
戦闘が始まってから数刻──。
南領優勢のまま、帝軍が港へと押し返された状況で日没を迎えようとしていた。西の空は茜に染まり、東の空は夜の色に沈みつつある。
昼と夜の狭間──黄昏時が訪れる。
(……『光と影が曖昧になる時間』、だったか?)
ふと随分昔に聞いた迷信を思い出しながら、ルウェンは他の攻撃を担った者達と共に建物の影から港の様子を伺っていた。
夜明けから動きっぱなしだった彼等の疲労は相当なものだったが、士気はまだまだ衰えていない。
誰もが疲れを訴えないばかりか、今日で完全に決着を着けると言わんばかりの様子である。今までの戦いでついた血糊を拭い、簡易ながらも剣の手入れをしている姿は何処か牙を研ぐ獣のようだ。
──光と影が曖昧になる時には影の国への入り口が開いてしまうよ。そこに掴まらないように早くおうちへお帰り──
それは小さな子供に対して、大人が言って聞かせる約束事のような言葉。
『影の国』には恐ろしい化け物がいて、入り込んだ子供を捕まえて食べてしまう──何故、今この時にそんな事を思い出したのか、ルウェンも自分に苦笑した。柄でもない。
今の落ち着いた時間が、嵐の前の静けさのように感じているせいかもしれないが。
そして出立した時の曇天とは打って変わり、晴れた空に黄金の残光を放つ太陽はやけにそうした事を想起させるような存在感があった。
「ルウェン殿。一気に攻め込みますか」
物思いに沈んでいると、横から声がかけられる。
彼より少し年上だろうか。見ると戦斧を手にした二十代後半辺りの男が、彼に対して友好的な笑顔を向けていた。笑顔と言っても、状況が状況の上に元々強面らしく、少々迫力があり過ぎたが。
名乗った覚えもないし、その顔に見覚えがないルウェンは一瞬心の内で首を傾げたが、こうした事は東領にいた頃もそう珍しい事ではなかったのでそのまま受け入れる。
本人にはまったく自覚のない事だったが、ここまで至る間にいつの間にかルウェンは彼等の中心的な人物になっていた。
そのほとんどが東領から来た人間である。その中には直接の面識はなくても、ルウェンの名を知っている者がいた。
──かつて、幾度も東領を危機から救った『返り血のルウェン』の名を。
そして彼が南領にいるという話は、ルウェンがフィルセルに行動を規制されていた間に何処からともなく広まっており、彼は知らない間に兵士達の中では有名人になっていたのだった。
「皇女側から特に指示がないという事は、このまま片を着けろって事か……」
言いながらも、ルウェンの赤紫の瞳は抜け目なく港の様子を分析する。
今までの戦闘で、帝軍側はこちら以上の損失を被っている。こちらも何人かは負傷などで人数が削られてはいるものの、現在の動きを見るにこの人数でも港を奪還するのはやってやれない事でもなさそうだ。
と言うのも、敵側の動きは確かに彼等を警戒はしているものの、守りに入っているにしては緩く、はっきり言わせて貰うなら隙だらけで、むしろ『襲って下さい』と言っているような状態なのだ。
──だが。
(何か、すげー嫌な予感がするんだよなあ……)
隙だらけなのは確かだが、それがどうにも罠臭く感じられてならなかった。今までの戦いで感じていた、妙な手応えのなさもそれに輪をかける。
……実際、彼等は南領の陣営から孤立した微妙な位置にいた。
状況次第では一旦帰還を指示すべく、今も彼等の元へ伝令が走っていたが、それが到着するのはまだ先の事である。
そうなってしまったのは、偏に南領側が予想したよりも遥かに帝軍が弱かった為だ。
敵と見たら問答無用に攻撃せよ── その指令に従い、彼等は戦った。
一人倒したら次、また一人を倒したらその次、と動いた結果、防衛を担う主力部隊や支援部隊から完全に切り離された形になってしまったのだ。
同時に彼等が戦っている裏で、皇女ミルファ自身への刺客の襲撃とその只ならぬ死によって、本営が混乱した事も理由の一つだ。
そちらの対応に手を取られ(何しろ、見るからに呪術による死亡だったのだ。直接の攻撃でないだけに、周囲への波紋は相当なものだった)、最前線への情報伝達が遅れてしまった。
今回は戦況が良かった為に、たまたまそれが問題として表面化しなかっただけに過ぎない。
ちらりと、目を港から周囲にいる兵士達へと走らせると、そこにいる人間は皆、見るからにやる気満々の顔をしている。
下手に止めると今後の士気に関わりそうだ、と彼は思った。
「──行くか」
このまま無為に時間が過ぎるのを待っていても仕方がないと判断し、ルウェンが誰に言うでもなくぼそりと呟くと、それを待っていたかのようにそれぞれが得物を構える音がした。
(……って、何で俺がこいつらを指揮してるんだ……?)
ようやくその事に気付き、ルウェンは困惑を隠さずに眉間に皺を刻んだが、すぐさま気持ちを切り替えると彼も剣を持ち上げる。
今日一日ですっかり手に馴染んだ大剣にちらりと視線を向け、彼は満足げに唇の端を持ち上げると、そのまま港へ駐留する帝軍に向かい先頭に立って駆け出す。
彼を追って、他の人間も続いた。
相当の人数である彼等の存在に気付き、帝軍が慌てて応戦しようとする所へ、隙を逃さずに襲い掛かる!
今、彼等に出来る事は、目の前の敵を倒すだけ──。
西の空では、太陽が完全に地平へ没し、最後のわずかな輝きだけが空に残るばかりになっていた。それを追うかのように、天には代わりに月が姿を見せ始めている。
──その色が、何処か不吉な赤い輝きを帯びていた事に、その場にいる人間は誰一人気付かなかった。
+ + +
──異変が起こったのは、太陽が完全に姿を消し、夕闇がその場を支配した頃合だった。
キィンッ!!
ガガッ!
シャッ…ザシュッ!!
カッ、カン……ガキンッ!!
光を失った夕闇に、激しい剣戟の音が響く。
その合間に上がるのは、気合と怒声、そして──断末魔の悲鳴。
予想通りと言うべきか、そこにいた兵士はほとんど相手にならない者ばかりだった。悲鳴を上げるのは、専ら帝軍側だ。
いっそ投降してくれればとすら思ったが、圧倒的に不利な状況でありながらもそうする気配は全くない。
必死の形相で剣を振り回して来る以上、黙って攻撃を受ける訳にもゆかないので受けて立つのだが、途中から弱い者苛めでもしているような気分になってきた。
左右から一度に来たのを後ろに下がる事でかわすと、それぞれがぶつかり合って自滅するという有様なのだ。見ていて、何だか物悲しい気持ちになったルウェンだった。
(ええと……、こいつらこれでも本当に帝軍の兵士、なんだよなあ……)
よもやわざわざ使えない人間ばかりを送って来た訳ではあるまいが、ついそんな疑いを抱いてしまう。
別にそれで困る訳でもなく、むしろ南領側としては歓迎すべき事だが、以前帝軍の一員だった身としてはどうしても情けない気持ちが先に立つ。
(最初からセイリェンをどうにかしようと思った訳じゃねえのか?)
船を焼いて足止めをする──それだけが目的だったとでも言うのか。そうでも考えなければ、納得の行かない弱さだった。
南領側に属する彼等によって、次々に帝軍の兵が倒されて行く。
シェリス河に停泊している何隻かの船にも帝軍の兵が控えているに違いないが、援軍を出して来る気配はない。
このまま港を奪還出来そうだ──その場にいる人間がそう考えた時だった。
「う、…うわあああああ!?」
ルウェンから少し離れた所から、そんな上ずった悲鳴が上がった。それは攻撃されての、苦痛の悲鳴ではない。純粋な恐怖による悲鳴だった。
それを耳にすると同時に、直感が走る。
(──来た)
それは彼が感じていた『嫌な予感』が現実になった瞬間。
一体何処から現れたのか、彼等を取り囲む大きな影があった。夕闇に浮かび上がる影は、全て人間では持ち得ない異形のもの。
──頭部と思しき場所に光るのは、血のように赤い目。
音も気配もなく現れたそれは、たちまち人々の動揺を呼ぶ。
「まっ、魔物……──ッ!?」
ルウェンの足元で転がっていた帝軍の兵士が、怯えた声でその名を紡ぐ。
カチカチカチと微かに聞こえる金属の触れ合う音は、どうやら彼等の身に着けている鎧が立てる音らしい。
ふと周囲を見回せば、敵も味方も降って沸いた災厄に戦いを忘れて立ち尽くしている。この場で自分を保っているのは彼ぐらいのようだ。
──それもそうだ。何しろ魔物が集団で出現する事は、まだ一般的な事ではない。この場にいる人間の中には、おそらく魔物に遭遇した事のない者も多いに違いない。
逆を言えば、この状況で冷静でいられる方が普通でないのだ。
そう──一度、魔物の集団を目の当たりにし、なおかつそこを生き延びた者でもなければ。
(やっぱ、出やがったか……)
最初からその可能性は考えていた。ミルファが怖れたように、ルウェンもまたこの戦いに魔物が現れる事を恐れていたのだ。
──十中八九、出ると思っていたが故に。
…ゥオォオオオオ……!!
やがて魔物から威嚇するような声が上がる。身の毛もよだつような、人でも獣でもない異質の声は、恐怖に竦んだ人々の神経に障る。
──それが、新たな混乱の始まりを告げる合図だった。