第二章 騎士ルウェン(14)
「──やはり、先に動いたな」
振り返りもせずに声をかけると、背後の気配はその言葉を予想していたかのように落ち着き払った口調で答えた。
「予測していたよりも、少々早かったという所でしょうか……」
「…父……、皇帝は、今回も東領の時のような手を使うと思うか?」
「今の所はまだそうした兆候は見られませんが、その可能性は高いでしょう。元よりそれを見越しての布陣です。最悪の事態は避けられるのではないか」
まるでそこだけ他から切り離されたかのような静かなやり取りは、彼等が帝軍の動きをすでに予測していた事を示していた。
実際ミルファは従軍する以前から、帝軍が先に動きを見せるだろう事は予測していた。自分でなくても、普通の指揮官ならばこちらが動いたとわかった時点で状況が少しでも有利な内にそうすると考えた結果だ。
そして、背後にいる彼女の『影』もやはり同様に予測していた事が今の言葉で明らかになった。
そこまで会話を続けて、ようやくミルファが背後に目を向ける。そこに佇む見慣れたローブ姿に、確認しておきたかった事を思い出したのだ。
「ザルーム、一つ聞きたい事がある」
「何でしょう」
「──魔物に対して、呪術は一体どの位有効だ?」
ミルファの質問に、ザルームはしばらく考え込むように沈黙した。そして──。
「相手による……としか、お答え出来ません」
やがて淡々と返って来た言葉に、ミルファは眉根を寄せた。
「どういう意味だ?」
怪訝さを隠さないミルファに、ザルームは相変わらず感情を見せない暗い声でその理由を口にした。
「呪術とは術者自身の術力と行使する場にある自然の力を使用して発動するもの…定まった形質を持たない魔物の中には、衝撃──風の抵抗力が強いものや、熱や寒さに対する抵抗力の高いものもいると考えられます」
それ以前に魔物は、人と異なり高い運動能力と再生力を有している。弱点は首と心臓──だが、それを突く困難は直接攻撃をする場合のそれとそう変わらない。
「一対一ならばともかく──相手が集団ならば、むしろ直接攻撃よりは足止めなどで支援に回る方が効率的かと」
その言葉を受け止め、ミルファは頭の中で攻撃手に位置付けていた呪術師を支援側に移し変えてみた。確かにただでさえ数少ない彼等を最大限に活かすには、そちらの方が良さそうだ。
ミルファの懸念はただ、一つ。東領の時のように、魔物が集団で現れる事だった。
相手が人間ならば士気が高まっている今、そう簡単に負ける気はしないが、相手が魔物になるとそうも行かない。
魔物に人の常識が当てはまるはずもなく、あまりにも強大だ。それが集団で現れた時、どう対処すべきか──その具体策がない事が唯一の不安要因だった。
まだ、南領の人間の多くが東の地で何が起こったのか知らない。
確認するにも東領は遠く、当の東領は未だに混乱の中にある。当時の詳細を知る人間を捜そうにも、果たして一体何人が生き延びているのかもわからない状況だ。
──その事が裏目に出なければと思うばかりだ。
「……参考になった。礼を言う」
ミルファの言葉に、ザルームは手を胸に当てて礼を取る。
「もったいないお言葉です」
その姿を見つめ、ミルファはしばし迷った後、表情を改めるとその口を開いた。
「──済まなかった」
「……?」
突然の謝罪に、ザルームが怪訝そうに頭を上げる。
布で隠されて見えないその顔を見つめ、ミルファは口早にもう一度謝罪の言葉を口にした。
「お前に一言の相談もなく、従軍すると決めただろう。……済まない。言うと反対されるのではないかと……、そう思ったのだ」
言いながらも、うしろめたさから視線が下がる。だが、そんなミルファにザルームはゆっくりと頭を振った。
「何を仰います、我が君。以前も申し上げたでしょう……『己の意志で選んだ道』をお進み下さいと。反対などいたしません。この身は、ミルファ様の僕──ミルファ様が決められたのなら、それに従うまでです」
「ザルーム……」
きっぱりと言い切るザルームに、ミルファは顔を上げた。
また、胸の奥が痛む。
信じたいという気持ちと──信じ切れない気持ち。その二つの狭間で、心が揺れる。差し伸べられた手を取るだけでなく、こちらからも握り返す勇気のない自分に嫌気が差す。
完全に心を預ける必要はないだろう。けれど、一部でも預けられたら──どんなに楽になれるだろうか。
頭ではわかっていても、どうしても一歩が踏み出せない。その過剰なまでの恐れが何処から来るのか、ミルファは知らない。
心の奥底に封じ込められた傷が、無意識の内に自分を追い詰めている事も。その傷の存在にミルファが気付くのは、これから更に時間が過ぎた後の事になる……。
+ + +
夜明けと共に出立した後発隊は途中で休む事もなく突き進み、その結果、太陽が天頂に辿り着く前にセイリェンへと到着した。
まずセイリェンを前にして彼等の目に入ったのは、半日経ってもまだ燃え盛る港から上がる煙だった。
(──それが狙いか……!)
何故、帝軍が港を包囲し侵略したのかを正しく理解し、ミルファはぎゅっと拳を握り締めた。
炎が上がっているのは、港自体ではない──港へ停泊していた船だ。
これから減水期を迎えるシェリス河だが、泳いで渡れる程に勢いが弱まるとは言っても、その通りに出来るかと言えばまた別の話だ。
川幅は相当なものがあるし、中には泳げない者だっているだろう。
それ以前に兵士は水気を嫌う武器や防具を所持しているし、彼等をまかなう食糧などの水に濡らせない物資も数多い。
つまり、河を渡るにはどうしても船が必要になるという事だ。だが、南領側の船を全て燃やされた今、必要だからと言ってすぐに準備も出来ない。
船は一日二日で造れるものではなく、短く見積もっても一月はかかる。その間、結果的に足止めを食らう事になるのだ。
船を造っている間にシェリス河は減水期を終え、流れは元に戻る。それを待つ間に、士気が下がる可能性もある。
(……、やはり、誰かが策を立てている)
船が燃やされた事で、ミルファはその事を確信した。
そこまで計算して港を攻撃するなど、今までの攻防を考えるになかった事だ。そもそも、受けて立つ側の皇帝には足止めなどという姑息な手段など必要ではないはず。
こちらの出鼻を挫き、士気を下げる──そのやり方は大胆かつ巧妙。今回の事も、一見ただ船が燃やされたとしか見えないが裏にはいくつもの仕掛けが施されている。
何者かはわからないが、今後はそれだけの者が敵方にいる事を考慮せねば、と自分に言い聞かせる。
これから先へ進む限り、その手は行く先々で道を阻むに違いないのだから。
空へと昇る黒い煙を見上げ、一人考えに沈むミルファの元へ、伝令が駆け寄る。何かと目を向けると、礼を取るのもそこそこに、伝令は許可を待たずに口を開いた。
「報告いたします! 駐留していた友軍の被害は、負傷者がわかっているだけで百数十余り、死傷者はなし、重傷者が数名。帝軍から民への攻撃は確認されておりませんが、戦闘に巻き込まれ港周辺の家屋が炎上、こちらはすでに消火済みです!」
齎された報告は思うより深刻なものでなく、ミルファを安堵させた。特にまだ死傷者が出ていないというのは大きい。
──一人でも犠牲者は少ない方がいいのだから。
「ご苦労でした。では、現在待機中の者へすぐにセイリェンへ突入し、友軍へ合流するよう指示を。作戦通りに動くよう伝えなさい」
「はっ!」
ミルファの指示に伝令は頭を下げると、弾かれたようにその場を後にする。
その指示はすぐさま軍全体に行き渡った。
「進軍せよ!!」
それぞれの指揮官からの号令を受け、一斉に彼等は戦いの場へ身を躍らせる。
それは皇女ミルファが挙兵してから、まもなく三年目の夏が訪れようとする初夏の頃。
後世にその名を残す事になる、貿易都市セイリェンの戦い──皇女ミルファが帝都への第一歩を踏み出す戦いの幕が開いた瞬間だった。