第二章 騎士ルウェン(12)
サアアアア……
深夜に、耳を打った雨音。
決して激しくはなかったその音を耳にした瞬間、ミルファははっと飛び起きていた。
──イソイデ・アメヲシノゲルバショニ・ユカナクチャ──
頭を支配していたのは、そんな焦り。
しかし飛び起きると同時にそこがむき出しの地面や木の根元ではなく、きちんと綿と羽毛の詰まった布団の中だと気付き、ミルファは呻くように声を漏らした。
「…ああ……」
肩から一気に力が抜ける。
ここは、南領の領館。刺客に怯えながら眠り、泥と傷に塗れながら遅々として進まない道を歩いていた頃とは違う。
刺客の危険はなくなった訳ではないが、獣や魔物に不意を突いて襲われる事はないし、暖かく柔らかな布団も、風雨から守ってくれる屋根や壁がある。
──あの日々から四年の月日が流れたのに、まだこんなにもその頃の記憶が生々しく残っている。
ミルファは夜の闇の中、そっと自分の手を持ち上げた。
うっすらと浮かび上がるのは、今では傷一つ見当たらない白い──以前、幸せだった頃と変わらないような手。けれど、この手もかつては小さな切り傷やすり傷だらけになり土で汚れていたのだ。
寒さに凍え、暑さに倒れた事もある。
足も最初の頃はすぐに豆が出来、時として出血し腫れあがり、歩く事もままならない事すらあった。
──その事を、これから先も忘れてはならないと思う。
逃亡の日々の中、共にいたザルームは余程の事がない限り、手を貸そうとはしなかった。有事の際はその力でミルファの命を守ってくれたけれど、南へ下る道中、決してミルファを甘やかす事はなかった。
おそらくあの頃は、たとえ彼が親切心から手をさし伸ばしたとしても、はねつけたに違いないけれど。
自分の力で、自分の意志で歩くこと。それはあの時の自分には必要な事だった。あの、一年に満たないが決して短くはない時間はミルファにとってそれ程大きな意味があった。
ただ『歩き続ける』事がどんなに大変か、『生きる』事がどんなに苦しい事なのか、身を持って知る事が出来たのだから。
それはきっと、帝宮での暮らしが続いていたなら、一生気付かずにいたであろうこと。
十二の自分は無知で、そして傲慢だった。与えられていた恩恵の大きさを知らずに、ただ日々を無為に過ごしていただけ。
あれから五年が過ぎて十七になった自分は、あの頃よりは少しはまともになっているだろうか。この自分に命をかけて戦ってくれる人間が、誇れるだけの人間になっているだろうか──。
──自分はまだ年若く、そして無力だ。
それは客観的な目で見ても明らかな事実。かと言って、その事実に甘える事は決して出来ない。
明日、夜が明けたら南の軍は進軍する。北へ──そしていつかは、その先にある皇帝のいる帝都へ。
出来るだろうか。小さな力を一つにまとめ、大きな力へ導く事が。
『皇帝の御座につかれませ』
あの日、ザルームが自分へ告げた言葉を現実に出来るだろうか。見つめる手はあまりにも小さく、ミルファは苦笑する。
(それでもやらなくては。もう、今更止める事など出来はしないのだから……!)
最後まで諦めない心も、あの一年で身に着いた。今はそれだけが唯一の武器。それだけを手に、先へと進むしか道はないのだ。
心はもう、決まっている。
兄が死んだと知った日に決めたのだ──父をこの手で討つと。
「…そこへ、行きますから」
遠い昔の父の面影を思い浮かべ、ミルファは挑むように呟く。
「──必ず」
ぎゅっと手を握り締め、ミルファはその目を、まだ夜の闇に支配された窓の外へ向けた。
+ + +
「なんですと……!?」
軍議の最中、ミルファが発言した言葉は重臣達に波紋を投げかけた。
「ミルファ様も従軍なさるなど……、本気で仰っているのですか!」
彼等の動揺を前に、ミルファはもう一度投げかけた言葉を繰り返した。
「もちろん本気です。私もこれから出立し、先程進軍した友軍に加わります。すでにその準備もしています」
「危険です! もっと御身を大事になさるべきです!!」
「そうとも、貴女の身に何かあったら、我々はどうすれば良いのですか!?」
口々に反対意見を述べる重臣達はいずれも必死の形相だった。
それが本心からの言葉であるのはその目を見れば一目瞭然で、その事をミルファはありがたいと思った。思った──けれど。
「ではあなた方は、このままずっとここで睨み合いを続けているつもりですか」
「…ッ」
突きつけるようなミルファの問いに、彼等はぐっと言葉に詰まる。子ほどに年の離れた皇女の言葉は、彼等の迷いを的確に突いていたからだ。
このままセイリェンを取り戻せたとしても、このまま均衡状態を続けていればまたいつか帝軍はこの南の地へ手を伸ばす。皇帝が諦めない限り、ずっとそれは続く。そしてそれが、一体いつまで続くのかわからないのだ。
「──皇帝の狙いは、私のこの命。私がこの地を出れば、南への侵略はおそらく避けられるでしょう。私がこの地から動かない限り、罪もない南の民に犠牲が出てしまう。もうこれ以上必要のない血が流れる事を避けなければ」
「で、ですが……!!」
ミルファの言わんとする所は理解出来るが、はいそうですかと頷ける事でもない。そんな困惑する場を治めたのは、それまで黙って彼等の言動を見守っていた人物だった。
「──皇女殿下がそこまで覚悟を決められているのなら、従おうではないか」
動揺する彼等の中へ放り込まれた言葉に、彼等は一斉にその言葉の持ち主へと目を向けた。その目はいずれもまさかと物語っている。
「もう、挙兵してから二年。そろそろ動く頃合では? 皇女殿下が仰る通り、このまま睨み続けても埒が明かない」
そう言って穏やかに微笑むのは、まだ三十をいくらか超えた辺りの男だった。
男の名はジュール=アッダ=カドゥリール──この南の領主を務める、ミルファの実の叔父である。
「叔父上……」
思わぬ援軍に、ミルファも驚きを隠せなかった。
母の弟である彼は以前から彼女の言動を肯定的に受け止めてくれていたが、流石に今度ばかりは反対するのではと思っていたのだ。
そんなミルファと予想外の事で絶句する重臣達を交互に見ると、ジュールは笑顔のまま言葉を重ねる。
「あと一月もすれば、殿下も十八になられる。もう子供ではいらっしゃらない。そしてこのまま守りに入っていても事態が動かないのは確かでは? …この南領を預かる領主として、私は殿下に南の兵を預けようと思う」
それは名実共に、南領の命運自体もミルファに委ねるという事も示していた。
「ジュール殿、それは……!」
「何か異存でもありますか? …この期を逃せば、次にいつ機会が回って来るかわからない。東領の兵士が加わり、士気が高まっている今を逃す手はないのでは?」
まだ若いながらも堅実に南の地を治める男の言葉に、反論出来る人間は誰もいなかった。物言いたげな顔をしつつも、彼等もまた今が絶好の機会である事がわかっていたからだ。
「皇女ミルファ、我等を率いて下さいますか?」
叔父の言葉に、ミルファは表情を改めるとしっかりと頷いた。
「助力は決して無駄にいたしません」
その言葉にジュールは満足そうに目を細める。
帝都を離れて五年──挙兵して三年。こうしてミルファはついに南領から動く事になった。