第二章 騎士ルウェン(10)
「で、結局散歩をする事にした訳ですか」
並んで廊下を歩きながら、事と次第を聴いたジニーはぷ、と小さく吹き出した。
「──お前、あの笑顔のフィルに逆らえるのか?」
対するルウェンは、明らかに不本意そうながらもジニーの言葉を肯定する。余程、寝台と仲良くなっている間に恐ろしい目に遭ったらしい。
「それにまだ、この南の領館の中もろくに歩いてなかったしな」
不承不承と言わんばかりの言い訳にこみ上げる笑いを噛み殺しながら、ジニーはふと目についたように視線をルウェンの右目に向けた。
「……傷、残ったんですね」
「これか」
言いながら右手の指で、右目から頬にかけて走る赤黒い傷をなぞる。
深く肉を抉ったそれは、最初に治療を受けた東の主神殿でも傷が確実に残ると言われていた。最悪──失明しているかも、とも。
失明を免れた今、傷跡に関しては別に嫁に行く訳でもないからと本人は深刻に受け止めていなかったが、第三者から見ると随分と痛々しく見えた。
「魔物に、やられたって言ってましたよね……」
まるで自分が傷付いたような痛そうな顔をされ、ルウェンは苦笑する。
フィルセルとは反応がまったく逆で笑える。フィルセルなど、『傷は「男の勲章」って言いますものね』の一言であっさり流されたというのに。
「箔がついただろ?」
その時のやり取りを思い出して軽くそう言い放つと、ジニーは驚いたように目を丸くし、やがて再び笑顔を取り戻した。
「ええ、いかにも百戦錬磨の戦士です」
「だよな? フィルは何て言ったと思う? 『これくらいの傷、あってもなくても変わりませんよ♪』だぞ。慰めているんだか、貶しているんだか……」
「フィルはルウェンさんの事を、まだ普通の兵士のようにしか受け止めていないですからね。──その内、その認識も変わるんじゃないですか?」
くす、と意味ありげに笑ってジニーは言うと、こっちにいいですか? と建物の奥へと続く廊下を示した。
「運動禁止の頃と大して変わらない状況ですけど、あと十日もしたら進軍しますからね。…フィルには内緒ですよ?」
「おう?」
ジニーにしては珍しい、何か企むような笑顔に首を傾げながらその後に続くと、やがて警備兵に守られた一室へと辿り着いた。いかにも頑丈そうな鉄製の扉が物々しい。
「ここは?」
「まだ秘密です。あ、ちょっとここで待っていてくださいね」
言い残すと、ジニーは扉を守る兵士に歩み寄り、懐から許可証のような紙片を取り出して示した。
それを検分した警備兵は確認すると頷き、次に離れた場所で所在なさげに立ち尽くすルウェンに顔を向けると好意的な表情で一礼した。
その態度に驚き、慌てて居住まいを正すルウェンの元に戻ると、ジニーはじゃ行きますかと彼を促す。
「中に入っていいのか?」
何となく不安になって尋ねると、ジニーは笑顔で頷いた。
「本来は南領に仕官した者でないと入れないんですけど、特別です」
相変わらず目的を語らないジニーに、何なんだと思わずにはいられなかったが、楽しげな様子から悪い事でもないだろうと判断し、その後に続いて鉄扉の中へと足を踏み入れる。
その瞬間、彼はそこがどういう場所なのかを本能的に理解した。
「…なるほど、確かにフィルには秘密、だな」
地下へと伸びる階段を降りながらぽつりと呟くと、先を降りていたジニーが振り返って悪戯っぽい笑みを見せる。
乾燥した空気に混じるのは、金属特有の匂いと皮の匂い。しかして彼の予想が正しかった事が、階段の終焉で判明する。
「今から馴染ませるには時間がなさすぎるかもしれませんが。お好きなものを、と──ミルファ様からのお言葉です」
彼等の目の前にあるのは、大中小さまざまな武器の山だった。
どれも未使用なのは明らかで、薄暗い中、鞘に収められていない小型のナイフが鋭利な光を放っている。
「剣のない剣士なんて、様にならないでしょう?」
「まったくだ」
ぶっきら棒に言いながらも、ルウェンの顔は喜びを隠せないものになっている。ぐるりと一通り眺めると、その足は剣が立てかけられた一角へと向かう。
その前でしばし思案し、やがて彼が手に取ったのはそれまで愛用していた切れ味重視の剣ではなく、切れ味は二の次の頑丈な両刃の大剣だった。
切り裂くというよりは、叩き切る事を重点に置いたそれは、当然ながら相当の重量がある。それらを一つ一つ、鞘から抜いては軽く振ってみる。
まだ包帯が取れていない左肩の傷と胸に響いたが、気にしない。否、気にもならなかった。
ジニーはそんな彼の様子を、黙って見守っていた。彼から見ても、ルウェンが集中している事がわかったからだ。
やがてその中から一つを選ぶと、ルウェンは鞘から抜き払ったままジニーに目を向けた。
「こいつを貰っていいか?」
その表情と言えば、まるで新しい玩具を手にした子供のように無邪気で──だが、同時にその裏に獣のように餓えた物騒な空気をも有していた。
(──ザルーム様の言われた通り、この人は剣を持って初めて本来の自分になるんだ)
その表情に、ルウェンを武器庫へ案内するよう指示した者の言葉を思い返す。
『今の彼は、本来の姿ではないからね……』
ミルファの名で指示は出されているが、実際に采配を振るったのはこの南の領館でも一部しか知られていない人物──呪術師ザルーム。
彼の名を口に出来ない事を残念に思いながらも、ジニーはルウェンに頷いた。
「それは仮の鞘ですから、すぐにちゃんとしたものを作らせます。──明後日には出来るかと」
「そうか。皇女ミルファに礼を言っておいてくれ。この恩は…戦場できっちり返すと」
言いながら手にした剣の感触を確かめる。
少々、手に馴染ませるには時間が足りないが──一番、重さも使い勝手も良いものを選んだ。後は実際に使用するまでに、何とか折り合いをつけるだけだ。
(よろしく頼むぜ、『相棒』)
剣は彼の気持ちに応えるように、澄んだ光をその刃に浮かべた。
+ + +
セイリェン進軍を三日後に控えた夜、最終的に決定した任務がそれぞれに指示された。
派遣される人間は、その任務で大まかに三つに分けられた。
一つは現在駐留中の友軍に合流する部隊で、これは主に現在もセイリェンで暮らす住民を帝軍から守る事が任務だ。
古くからの交易拠点であるが故に民のその地への執着と思い入れは他より深く、退去を勧告しても守らない者が多いと推測されたからだ。
先祖代々伝わる看板を守る事が、商人である彼等の誇り。
しかしそれが危険な事が明らかで、中には強引にでも退去させるべきではという意見もあったが、ミルファはそれを退けた。
現在、限られた兵で何とか均衡が保たれているのは、セイリェンの民がその独自の情報網で助力してくれているからだ。
そんな彼等を無理強いして事を運べば、今後のセイリェンの民の協力が得にくくなるのは目に見えて明らかだった。彼等は南領の民である前に、信頼を大事とする商人なのだから。
そして決して少なくない彼等が移動するとすれば、帝軍に行動を起こす絶好の機会を与えかねない。
現在駐留している兵だけでは、セイリェンの民を全て守る事は不可能だ。
圧倒的に民の方が多く、下手に刺激して戦闘が始まりでもしたらそれに多くの人間が巻き込まれる。場合によっては、民から少なくない数の犠牲者も出るだろう。
そして帝軍にセイリェンの民を盾に取られるような事は、絶対に避けなければならない。
ならば──現状を維持し、差し向ける主力部隊を全て彼等の防衛につけ、可能な限り犠牲を少なくする。それがミルファの──実際には、表に出る事のない『影』の出した案だった。
戦闘能力をほとんど持たない民を防衛するとなると、どうしても自身の防御が遅れ、味方に負傷者が出る。
それを援護する支援部隊は、その場その場ですぐに対応出来るよう、元々いる医師・施療師だけでなく、セイリェンの住民からも応援を得るよう、セイリェンの実力者達に密かに話をつけていた。
攻撃手段こそ持たないが、彼等の武器は正にその知識に他ならない。
医師と施療師はその専門性によって兵士と比べ数が限られている。重傷者優先に治療をする為にも、迅速に且つ妨害なく移動する必要性があった。
──地の利は、南にある。
長くその地で暮らしている者が多いセイリェンの民は、当然ながらその街の隅から隅まで把握している。それこそ、地図にも載っていない道すらも。
その知識を提供して貰う。戦力を持たない民を守る代わりに、協力を依頼したのだ。貸し借りを嫌う彼等はその申し出を快く受け入れた。
これで、民の防衛とその支援は何とかなる。だが防戦一方では当然ながら事態は動かない。
そう──こちらからも攻撃しなくては、帝軍から完全にセイリェンを奪回など出来はしないのだ。
その攻撃を任された部隊が、三つ目。けれど、それは南領の重臣達をひどく驚かせる提案だった。
それは──……。