第二章 騎士ルウェン(9)
自由を手に入れたはずながらも、結局運動厳禁の処置を取られて暇を持て余すルウェンの元へ、ミルファからの召喚がかかったのは、それから三日後の事だった。
呼ばれるままに向かった会議室。
現・南領主を筆頭に何処か不審そうに彼を見る重臣達がずらりと並ぶ中、その中心にいたミルファは、跪き礼を取る彼へと声をかけた。
「ルウェン=アイル=バルザーク」
「はっ!」
まだ正式な騎士ではない彼を、あえて『兵士』とは呼ばずにミルファは命じた。
「そなたに命じる。…現在、膠着状態にある貿易都市セイリェンを、帝軍より完全奪還せよ」
それは一人の兵士──それもまだ仕官すらしておらず、部下の一人もいない人間に命じるには、あまりにも規模の大きな命令だった。
本来ならば応の人数を束ねる指揮官に相当する人間が拝命すべきもの。それこそ、その場にいる重臣などから無茶なと反論が返る場面だ。
だが、彼等も何も言わずにルウェンの反応を見守っていた。それはすなわち、ミルファの命令についてはすでに彼等の中で何らかの決着が着いているということ。
途方もない命令。
──ここで受けるか、否か。そこからもうすでに、己の未来を左右する選択が始まっている。
その事を理解し、やがて顔を伏せた彼の口元ににやりと不敵な笑みが浮かぶ。
(……、面白いじゃねえか)
決して容易な事ではない。むしろ不可能な事だ。だが、それは今まで眠っていた彼の闘志を甦らせた。
「謹んで拝命いたします」
きっぱりとそう答え、ミルファに応えるように顔を上げたルウェンは、そこに満足そうに目を細めるをミルファを見つけた。
それは心からの笑顔ではなかったが──無表情よりは余程いい、と彼は思った。
+ + +
セイリェンを帝軍より完全奪還せよ──。
ミルファの命を受け、南領を預かる南領主の館はたちまち慌しい雰囲気に包まれた。
東の異変の直前に兵を派遣したものの、セイリェンは今なお帝軍と睨み合いを続ける緊張状態にあった。
南領と帝都の境を流れるシェリス河は、間もなく乾季を迎え減水期に入る。
元々豊かな水量を誇る河で、渡るには船を使用するのが普通だが、その期間は泳いで渡れる程に流れも弱まり、河を渡る事が今まで以上に容易になる。
──それはこの南から帝都へ入る事が容易になると同時に、相手もこちらへと侵入しやすくなるということ。
帝軍が今も表立って大きな動きをせずにいるのは、それを待っているからではないかというのが、南側の大部分の意見だった。
流れが弱まるのを待ち、一気に主力部隊を投入してくるのではないか、と。
何しろ、今は皇帝に歯向かうのはこの南だけ。北は滅びの一途を辿り、東は混乱の只中にある。西はかろうじて平穏を保っているが、その平穏を守る為に自ら攻撃に出る事はない。
…彼等が叩くべき場所は、一箇所だけなのだ。
だが、だからと言って簡単に潰れる訳には行かない。その為にも、セイリェンを奪還する事は、今後の戦略的にも非常に重要な鍵を握っていた──。
+ + +
ミルファに召喚され、奪還命令を受けてから更に十日あまり。
ルウェンが南領に来て、まもなく一月になろうとする頃、ようやく彼は全身をぐるぐる巻きにされていた包帯の一部から解放されていた。
「はい、ゆっくり目を開いてみて下さい」
顔の右半分を覆っていた包帯が外され、ルウェンは言われた通りにゆっくりと右目を開いた。
「…見えます?」
心配そうに覗き込むフィルセルの顔を見つめ、数度瞬きしてみる。まだ傷が引きつるが、その顔ははっきりと見る事が出来た。
「大丈夫だ。ちゃんと見える」
「良かったあ……!」
ほっと、まるで自分の事のように胸を撫で下ろし、フィルセルはまだ手に握っていた包帯をくるくると巻き始めた。そうしながら、にこにこと笑ってルウェンに話しかけてくる。
「戦ってなんぼの兵士様が、片目が見えないってかなり不利ですもんね。結構、傷が深かったからどうだろうって思ってたんですよ」
「…戦ってなんぼってな……」
流石にもう、フィルセルの悪意があるのかないのかわからない物言いには慣れたものの、そんな身も蓋もなく言われると立場がない。
思わず不満そうな声を漏らすルウェンを気にした様子もなく、フィルセルは明るく言い放ってくれる。
「もし、最悪──失明なんて事になってたら、本当にどう慰めたらいいんだろうって昨日一晩、夢の中で考えていたんですよ!」
「……。それって思いっきり寝てたと言わないか?」
「寝ますよ、そりゃ。いくらあたしが若くても身体が資本ですもの」
「オイ」
「それにしても、ルウェンさんって本当にすごかったんですねー。ミルファ様から直接命を賜ったんでしょう?」
何か言いたげなルウェンを無視して、ころっとフィルセルは話題を変える。
「セイリェンを奪還せよ、なんて──すごく大変そう。そりゃあ、他にも当然兵士様がたくさん行軍するんでしょうけど……」
フィルセルの言葉にルウェンはふうと疲れたため息を一つつくと、胸の中に渦巻く文句を追い出し気持ちを切り替えた。
「大変に決まってるだろう。相手だってばかじゃないからな」
今回の奪還戦には、ルウェンの他にも兵士が派遣される事が決まっていた。現在駐留している友軍と合流後、しかるべき指揮官の下で動く事が決まっている。
──彼等の役目は、第一にセイリェンの民の安全を確保すること。
皇女ミルファは帝軍からセイリェンを取り戻すだけではなく、そこに住む民の命を何よりも守るよう指示したのだ。
「結局、ルウェンさんは南領の兵士の一員になるんですか?」
「いや……、今回はどちらかというと傭兵だな」
「傭兵?」
聞きなれない言葉だったのか、フィルセルが首を傾げて反芻する。
平和な時代が長く続いたこの世界において、その名詞はそう頻繁に耳にする言葉でもなく、ルウェンは簡単に補足した。
「皇女ミルファに個人的に雇われた剣士、という扱いだ。つまり俺は単独行動を許されるし、南の指揮官の指示に従う必要もないって訳だな」
それは同時に、彼が最悪野垂れ死んでも南側は責任を持たないという事でもある。そういう条件だったからこそ、重臣達はミルファの言葉に異を唱えなかった訳だ。
(ま、俺としてはそっちの方が好きにやれるから気楽だがな)
つい最近まで、身体を軽く動かす事も満足に許されなかった身である。この南領にはまだ馴染みも薄い。
一つの指示の下で集団で戦う場合、乱戦になる場合は特にお互いの認識と信頼が必要となってくる。
今の状況では、下手をすれば敵と間違われて味方に攻撃されかねない。かと言って、認識を広げるにはあまりにも時間がなさすぎる。
今は何よりもまず人と親睦を深めるよりも、この一月で鈍ってしまった身体を何とかする事が大事だ。
──そんな事を考えていると、まるでその考えを読んだようにフィルセルがしっかりと釘を刺した。
「包帯が取れたからって、いきなり激しい運動なんてしたら駄目ですからね?」
「えっ。…激しいって……ちなみにどの程度までなら許されるんだ?」
ここに及んでの釘刺しに、ルウェンは恐る恐る確認した。何となくすごく嫌な予感がする。
フィルセルは手を持ち上げると一本指を折り、まるで聞き分けのない子供に諭すような口調で言い放った。
「そうですね……。取り合えず、剣を握って振り回すとかはまず駄目です」
「何ィッ!?」
今日からしっかり素振りするつもりでいたルウェンは、その言葉に目を限界まで見開いた。包帯が取れたばかりの右目の瞼が引きつれるような痛みを訴えたが、それも気にならない。
そんな彼を尻目にフィルセルはさらに指を折り、禁止事項を口にする。
「更に全力疾走なんかも駄目ですよ。骨にひびが入ってますから重いものを抱えて動くとかもやめた方がいいですね。それから──」
「……待て。待て待て待て。それじゃ何も出来ないだろう!?」
青褪めながらその言葉を遮ると、白衣の天使の姿をした悪魔(にルウェンの目には見えた)はにっこりと笑った。
「大丈夫。その辺りをのんび~り散歩するくらいなら出来ますよ。これも一応運動の内ですから問題なしです!」