第二章 騎士ルウェン(6)
ジニーの後に続きしばらく歩き、やがて辿り着いたのはありふれた扉が並ぶ一角だった。
廊下には同じような木製の扉が並び、それはどう見ても個人の部屋の扉でルウェンは少々驚いた。
会う相手は仮にも皇女である。会談を持つにしても、会議室や広間みたいな場所で、身辺を守る警備兵や重臣などに囲まれての物になると思っていたのだ。
そう思えばこそ、必要以上に気を張っていたのだが──もしやこの様子だと、皇女ミルファは彼に個人的に会ってくれるという事なのだろうか。
もしそうなら願ってもない事だが、同時に少々警戒心が薄いような気がして変な心許なさを感じてしまう。自分で言うのもなんだが、後ろ盾も何もない自分は明らかに不審人物である。
「──なあ、ジニー」
「はい?」
声をかけると、先を歩いていたジニーが何事かと足を止めて振り返る。
「どうかしましたか?」
「もしかして……、皇女殿下の私室に向かってたりしないか……?」
「え? ああ、そうですよ」
半ば否定されるのを期待した言葉は、実にあっさりと肯定された。
「ミルファ様の御意向です。『個人的に話したい事があるのだろうからこちらに通しなさい』と……。それが?」
「──いや、俺が言うのもなんだけど、ちょっと警戒心薄くねえ? 身元もはっきりしない男と二人で会うなんて、危険だとか思わないのか?」
ただでさえ、皇帝に命を狙われている身のはずだ。
そうでなくても、年頃の女性が男と二人きりで会うなど普通なら避けられる事だ。ルウェンの言わんとする所を理解したのか、ジニーの顔に納得した表情が浮かんだ。
「そういう事ですか。だったら心配はないですよ。…ミルファ様には、守り手がついていらっしゃいますから」
「守り手?」
何の事だかよくわからず首を傾げるルウェンに、ジニーはそれ以上の詳細は語らず、ただ何処か誇らしげな笑みを浮かべるだけだった。
そして再び歩き出しながら、後ろに続くルウェンに一言だけ付け加える。
「…一般には、知られていない事ですけどね」
その答えに何か追求してはならない気がして、ルウェンはそのまま口を噤んだ。
気にならないと言ったら嘘になる。
だが、何処にでも『秘密』というものはあるものだ。大抵身分が高ければ高いほど、抱える秘密は重い物だと相場が決まっている。
下手に突いてこれからの会談に差支えが出ても困るし、ジニーに迷惑がかかっても大変だ。
そうこうする内に、一つの扉の前に辿り着く。他の部屋とは区別がつかないが、どうやらそこが目的の場所らしかった。
ジニーがその扉を叩き、声をかける。
「失礼いたします。ルウェン殿をお連れいたしました」
部屋の中から微かに入室を許す女性の声がした。
(…──皇女ミルファだ)
一度も顔を見た事がないばかりか、東領にいた頃は会う事もないままかもしれないと思っていた人物がこの扉の向こうにいる。
…果たして、彼女は自分の願いを聞き届けてくれるだろうか。だが、この機を逃しては自分の願いは叶わない。
戦場ですら感じた事のない緊張が彼を支配した。無意識に拳を固め、そんな自分に気付いて苦笑する。
そしてルウェンは皇女ミルファと対面を果たすべく、一度深呼吸をするとジニーによって開かれた扉の中へと足を踏み入れた。
+ + +
ルウェンの皇女ミルファに抱いた第一印象は、『全然、殿下に似てないな』だった。
窓辺に立つ姿は思ったよりも小柄で、華奢なその姿に彼女がまだ十七歳の若さである事を思い出す。
彼よりも、七つは年下という事だ。ルウェンから見ると、フィルやジニーと大して変わらない。
彼がかつて仕えていたソーロンは、栗色の髪に琥珀色の瞳という、どちらかというと明るい色彩の持ち主だった。
対してミルファは、長い黒髪に飾り気のない黒いドレスといい、それを引き立てる肌の白さといい、全体的に無機質で暗い色彩を有していた。外見的な印象だけなら見事に正反対と言える。
唯一、宝石を思わせる淡い緑の瞳が色を有していたものの、そこにある光は何処か鋭く、硬い表情が一層彼女の冷たい印象を強めている。
一般的な『美人』の範疇に十分納まる容姿ではあるが、人の温もりに乏しい気がした。──まるで、よく出来た作り物のように。
せめて笑顔でも浮かべればその印象も大きく変わるように思われたが、言われるまでもなく『余計なお世話』だと彼もわかっていたので心の中で思うに留めた。
「…あなたが、ルウェン=アイル=バルザークですか?」
彼が部屋に入るのを確認してから、ミルファが彼に声をかける。静かな声はその落ち着いた口調とは裏腹に、強い存在感を伴って彼の元へと届いた。
その一言で、ルウェンの意識が切り替わる。
目の前にいるのは、ただの十七歳の少女ではない。一つの軍を束ね、多くの命を背に日々戦っている人間だ。
そう──かつて仕えていた、かの人と同じく。
その場に跪き、頭を下げた最高位の礼を取る。…自然と身体が動いた結果だった。
「ルウェンと申します。お目にかかれて光栄でございます。ミルファ皇女殿下」
「東領では兄に仕えていたとか。重傷を負った身体で、遠いこの地まで兄の訃報を届けてくれた事を感謝します。──面を上げなさい」
許しが出て顔を上げると、ミルファは真っ直ぐにその視線を彼に向けていた。心の奥底までも見透かすようなその目に、身が引き締まるような思いを抱く。
正直な所を言えば、こうして会うまではミルファの事をただの『お姫様』だと思っていた。
もちろん、十七という年齢もあるだろう。
東へ伝わる噂を耳にしては感心していたものの、間にいくつもの人が入った話だ。何処まで本当かわかったものではない。
彼女の兄のソーロン程過小評価はしていなかったが、実際には『お飾り』である可能性もあると思っていた。
だが──今、彼の目の前にいるのはそんな生易しい存在ではない。
人の上に立つべくして生まれた人間だけが持つ、人を圧倒する存在感。それをミルファは持っている。
視線、言葉、雰囲気──そのいずれにも、付け焼刃では出しようのない重みがあった。『覚悟』と言ってもいいかもしれない。
流されてではなく、自分の意志でここに立っている事が伝わってくる。
「いろいろと聞きたい話はありますが、まずはあなたが私に会いたいと言った、その理由から聞きましょう。──私に何の話があるのですか?」
その声は何処までも穏やかなもの。だが、ずばりと核心を突いてくるそれは、誤魔化しを許さない威圧感があった。
会う事が決まってからどうやって話を切り出そうと考えていたルウェンだったが、その言葉に迷いは消えた。率直に思う事だけを口にする。
「皇女殿下にお願いがあって、この地へと参った次第です。どうぞお聞き届け下さい」
「…何です?」
本音しか求めないその目に促され、ルウェンは覚悟を決めると彼が南を目指したその目的を口にした。
口にすればもう取り返しがつかない。
──脳裏を無残な最期を迎えたソーロンの姿が通り抜けた。
「──……。皇女殿下、我が剣を貴方様に預ける事をお許し頂きたいのです」