第二章 騎士ルウェン(5)
ルウェンが動けるようになったのは、それから七日後──彼が南領に辿り着いて十日目の事だった。
当然ながら完治した訳ではなく、『走らない・暴れない・興奮しない』の条件が付いた仮初の自由だ。
それでも普通なら少なくとも一月はベッドと仲良くしていて不思議でない重症を負っていた身としては、有り得ない回復の早さである。
我ながら治療に当たった施療師や医師が言った『獣並みの回復力』という表現が否定出来ない。
だが、いつまでも寝ている訳には行かない理由がルウェンにはあった。
とんでもない不敬を働き、下手したら門前払いだったかもしれない状況で、皇女ミルファが面会を許可してくれたのだ。
怪我を押してここまで来た目的が果たされるかもしれない今、悠長に寝ていられない。
何度もしつこく許可を求めた結果、七日目にしてようやく看護人兼監視人のフィルセルは頷いてくれた。
「いつまでも皇女殿下を待たせ続けるのも失礼ですしね」
ため息混じりの明らかに渋々といった様子だったが、担当の医師もさほど反対はせずに許可を出した所をみると、ある程度こうなる事は予測されていたのかもしれない。
何はともあれ、こうしてルウェンは寝台に寝たきりの生活からひとまず解放された訳だ。
──もっともそれは条件付きでも許可を下ろさないと、この重傷だという自覚のない怪我人が『脱走』という強硬手段を取りかねないと考えた末の決断だったのだが、ルウェン本人が知る由もなかった。
ルウェンにしてみれば、傷はまだ多少痛むものの実際の怪我のひどさの度合いがわからないので、どうしてそこまで行動を制限されねばならないのか逆に尋ねたい位だった。
何となく知らない方がいいような気がして──得てして、傷の深さを自覚すると痛みというものは増すものだ──聞かなかったが、結構ひどいらしいという認識ならある。
だからこそフィルセルが出した条件にも頷いたのだが──。
「東領の状況は、どの程度伝わっているんだ?」
皇女と対面するに当たり、当然ながら適当な服装で会う訳にも行かず、その場凌ぎで用意された服を身に着けながら尋ねると、フィルセルはそれを手伝いながら自身の知る所を教えてくれた。
「一般の民にはほとんど伝わっていません。ジニーから聞いた話だと、領主様辺りはルウェンさんが東領から持って来た東の主神殿からの書状で概要だけはわかっているようですけど」
南領の女官が彼に用意してくれたのは、この領館に仕官する人々が身に着ける官服の一揃えだった。
温暖な南領らしく、厚手に見えた生地は見た目に寄らず通気性がよく軽い。ゆとりのある縫製は、包帯が未だ取れていない彼でも必要以上の負担をかけない。
「まだライエには来ていませんけど、随分と東から南へと流れて来る民が増えたみたいです。そちらから流れて来る噂話だと、東はかなりひどい状況みたいですね」
「……。だろうな」
まだ取れない左肩や胸、そして顔の右半分を覆う包帯からその元凶を思い出し、ルウェンは小さくため息をつく。
あの夜以降、東領の魔物の出現率は一気に上昇した。
東の領館を襲撃してきた時のような集団での出現でない事だけが唯一の救いだが、満足な攻撃手段を持たない一般の民にしてみれば脅威以外の何物でもない。
ルウェン自身は幸運にも南への道中にそれに遭遇する事はなかったが、南領に入るまで、行く先々でその手の話を耳にしない場所はなかった。
北にも中央にも逃げ場のない東の民が、安全を求めてこの南の地へこぞって流れて来るのもおそらく時間の問題だろう。
幸い、南領は平野部こそ東領のそれとあまり変わらないが、大地は豊かで気候も安定している。多少難民が流れてきても、しばらくは持ちこたえられるに違いない。
(…だが、ずっととなると無理だ)
東の民だけで済むならいいが、東の民が流れた後は無法地帯となった東を経て、北や中央からも人が流れて来かねない。
東領が安定していた頃ですら、その二つの地から流れて来る人は途切れる事がなかったのだから──。
きっとその事は南領を預かる領主も、そこを拠点とする皇女ミルファもわかっているはず。となれば。
(──近い内に、皇女は行動を起こす)
そう読んで、満身創痍の身体に鞭打ってここまで来た。
ソーロンの訃報を一早く伝える事も確かに目的では会ったが、彼自身の目的は他にあった。その目的を果たす為に皇女ミルファとの面会を求めたのだ。
──ただ一つ、自身が抱く望みの為に。
その場凌ぎで用意された物ながら、黒い官服は誂えたようにルウェンの身体の大きさに丁度良かった。その着心地に満足していると、横で見ていたフィルセルもにこにこと笑って感想を口にする。
「ルウェンさん、すごく似合ってますよ!」
「…そうか?」
褒められて悪い気がするはずもなく、ルウェンの顔にもつられたように笑みが浮かぶ。だが、その笑顔は次の一言で微妙なものへと変わった。
「はい。同じ服なのに、ジニーのとは違う服みたい!」
「──…そりゃどうも」
何となく素直に喜んではいけない気がするのは何故だろうと、内心首を傾げつつ、それだけを口にした時、噂をすればで外から軽く扉を叩く音がした。
「ジニーです。ルウェンさん、準備は出来ましたか?」
言いながら、今ではすっかり見慣れた赤い頭が顔を出す。
「おう。丁度終わった所だ」
「…わあ……。ルウェンさん、よくお似合いです。背が高いと黒って映えますね」
にっこり笑って言われた言葉はフィルセルと違い、純粋混じりっけなしの称賛の声だった。しかし、その顔はすぐに心配の滲んだものに変わる。
「でも、本当に大丈夫なんですか? 包帯だってまだ取れていないのに……」
「大丈夫だって。何なら、今ここで誰かと試合……」
をして見せたっていいぞ、と続くはずだった言葉は、ルウェンの口の中で中途半端に途切れた。何だか冷ややかな視線が背に突き刺さるのを感じたからだ。
「『走らない・暴れない・興奮しない』、でしたよね?」
視線の方を見ると、フィルセルがにっこりと笑顔を湛えて例の条件を口にする。
──顔は笑っているのに目は笑ってないという実に器用な表情に、ルウェンの顔は心なしか青褪めた。
「あたしは有言実行ですから。そこの所はお忘れなく♪」
「…──はい」
止めとばかりに言われた言葉に、ルウェンは引きつった顔で『良い子のお返事』を返す。
──どうやら条件をつける際に、彼を素直にさせるような何らかのやり取りがあったらしい。
どちらが子供かわかったものではない二人の様子に、その辺りの事情を汲み取ったのか、ジニーは追求はせず口元に苦笑を浮かべるに留めた。
「それじゃあ、ルウェンさん。行きましょうか。皇女殿下がお待ちになっていますし」
「あ、ああ」
促す言葉に頷きながらも、ルウェンは気を取り直したように表情を改める。
ついに皇女ミルファと顔を合わせる。果たしてどんな人物なのだろう。ソーロンに、少しは似ているのだろうか。
寝台に縛り付けられている間に、フィルセルから少しは話を聞いておけばよかったと思ってもいまさらである。
──ここからが、正念場だ。
ルウェンは気を引き締めると、少し心配そうなフィルセルに見送られ、ジニーの後について歩き始めた。