第二章 騎士ルウェン(4)
医師が来る時間には早い。一体何事かと思っていると、フィルセルが身軽に椅子から立ち上がり扉に向かった。
「はい、どなたですか?」
先程までの屈託ない表情をいくらか改めてフィルセルが扉を開くと、扉の向こうから黒い官服を持て余し気味に身に着けた少年が顔を見せる。
初めて見る顔だ。南領では比較的一般的な黒髪のフィルセルに対して、少年の髪は随分と明るい。
赤い髪はどちらかと言うと北や西に多い色だ。片親のどちらかがそちらの出身なのだろう。服が黒いせいで余計にその赤は眼についた。
「あら、ジニーじゃない」
「えっ、フィル?」
扉を挟んでお互いに顔を見た瞬間、揃って驚きの声を上げる。どうやら顔見知りらしい。
「何か用?」
途端にまた態度を屈託のないものに変えてフィルセルが尋ねる。だが、ジニーと呼ばれた少年は傍で見ていて面白いほどにうろたえた姿を見せた。
「何かって…え、え? あの、フィル? な、何でここに……!?」
「何でって……。この方の看護を任されたからに決まっているじゃないの。ジニーこそ、ここに何をしに来たの? 今はザルーム様付きの伝令なんでしょう?」
(…『ザルーム』……?)
何気なく発せられたフィルセルの言葉に、ルウェンはぴくりと反応した。
だが、何故その言葉(おそらく人名だろう)に反応してしまったのか自分でもわからず、自分で首をかしげる事になった。
何処かでその名前を耳にした事でもあったのだろうか。南領に来るまでの記憶が混沌としているので、その道中なのだとすると何処で聞いたか判別がつかない。
気になったものの、ルウェンは結局口を挟まず、彼等のやり取りを見守る事にした。
「そ、そんなんじゃないよ! まだ、そんな…僕は見習いみたいなものだし……」
もそもそと自信なさげに言いながらも、ジニーの言葉にはそうなりたいという願望と意志が確かにあった。
気弱そうな外見と性格のようだが、向上心は高いようでルウェンの目には好ましく映った。
こういう目標に対して真っ直ぐな気性の人間は好きだ。多分、自分がそんな風に生きたいと思っているからだろう。
──などと考えていると、ルウェンの耳にとんでもない事が飛び込んできた。
「それより、ここに運ばれた東領の兵士殿の面会謝絶が取れたって聞いて来たんだけど……」
(──はあ!? 面会謝絶!?)
ジニーの何気ない言葉に愕然となる。
(そんなの初耳だぞ、オイ!)
思わず自らの身体をまじまじと見つめてみる。
ぐるぐる巻きにされた胸や肩や腕に、そんなにもひどかったのかと他人事のような感想を抱く。何しろ、こんなにもズタボロになったのは生まれて初めてなのだ。
それと同時に、身元も怪しい自分の元に何故、医師とフィルセル以外の人間が姿を見せなかったのかも理解する。『面会謝絶』の言葉で全て門前払いをされていたという訳だ。
フィルセルはジニーの言葉に、ちらりとルウェンの方へ視線を走らせると軽く肩を竦めた。
「見ての通りよ。医師様と施療師様の見立てじゃ十日は満足に喋る事も出来ないって話だったのに、この間なんてここから抜け出そうとしてたんだから」
呆れたような口調は、後になるにつれて笑いが混じる。
…言いながら、例の『獣並みの回復力』という表現でも思い出したのだろう。そんなフィルセルに怪訝そうな顔をしながら、ジニーはそれじゃ、と室内に入ってきた。
「初めまして……、体調はいかがですか? 話しても?」
「ああ、問題ない」
それでも律儀に体調を気遣う言葉に、ルウェンも表情を改める。
仕事意識からだろうか、ジニーの表情から先程までのおどおどした感じが抜けていた。それを確認してルウェンも頭の中を切り替える。
フィルセルに対するようなものではなく──一人の兵士としてのそれに。
「私はこの領館内の伝令を勤める、ジニー=ナイジェ=ベリルと申します。まずは、貴方のお名前を伺っても宜しいでしょうか」
その質問におや、と思う。
ちらりとフィルセルに目を向けると、彼女は済ました顔で部屋の隅に控えていた。どうやら彼の名をフィルセルは他には漏らさなかったらしい。
何故かと考えてすぐに理由が思い当たった。
──『面会謝絶』。
おそらくそれが取り払われるまで、口にしてはならないと思ったのだろう。実際、意識を取り戻した直後に尋問されては敵わない。その心遣いにルウェンは感謝の念を抱いた。
「俺は…ルウェン=アイル=バルザーク。東領では、皇子ソーロン様の騎士をしていた」
それが過去形である事に内心歯噛みしつつ答えると、途端にジニーの顔に驚きが広がった。
一体何事かと思いつつ様子を見ていると、ジニーはまじまじとルウェンの顔を見つめながら、彼自身はすっかり忘れていた呼び名を口にしたのだった。
「あなたが? あの──『返り血のルウェン』……?」
「ああ、そうとも呼ばれていたな…そう言えば」
何しろ自分でその呼び名をつけた訳ではないし、しかもどちらかと言うとあまりいい意味の二つ名ではない。
愛着も何もない呼び名だったが、この南の地にもその名が届いていたのかと思うと、何だか不思議な気がした。自分の事なのに、自分ではない別の存在のような、そんな違和感。
「…そう、だったんですか。あ、済みません。話が脱線してしまいましたね」
生真面目に謝罪すると、ジニーは気を取り直したように彼に尋ねた。
「倒れる寸前に、御自分が口にした事を覚えていらっしゃいますか?」
「──何?」
倒れる寸前ともなると、記憶はかなり曖昧だ。
だが、考え込む必要はなかった。彼の反応に覚えていないと判断したのか、ジニーがその問題の言葉を口にしたからだ。
「……。『皇女ミルファに会わせろ』、そう言っていたそうですが」
「──……」
その時のルウェンの心境を言葉で表すならば、『うわ、やっちまった』が一番近いだろう。事実、彼は心の中で呻いていた。
元々、礼儀やら敬語やらは得意ではないのだが、この南領において最も地位の高い人間である皇女に対して、その言い草が暴言以外の何物でもないのは彼にもわかる。
よりにもよって、苦労して辿り着いた先でそんな事を言ってしまうとは。余裕もなく切羽詰っていたとは言え、無意識とは怖いものだと実感したルウェンだった。
確かに自分は皇女であるミルファに
会う為に、はるばる南領まで来た。現在、唯一の狂帝に対抗出来る勢力を率いる彼女に会う為だけに。
だが、これでは皇女に会う以前に不敬罪で牢屋行きという事態になってもなんらおかしくはない。自分のしでかした事に、目の前が暗くなったような気がした。
──しかし、彼のそんな心配は杞憂に終わった。
「皇女殿下は動けるようになり次第、話を聞くとの事です」
「……、へ?」
最悪の事態まで想像していたルウェンは、聞こえた言葉を受け止めきれずに思わず間抜けな声をあげた。
「話を聞くって…つまり、それは、その……?」
「はい、お会いになられるそうです。ですから、十分に身体を休めて、一日でも早く回復なさって下さいね」
「──本当に……?」
にわかには信じられず、思わず確認を取るルウェンにジニーははっきりと言い切った。
「本当です」
「…そう、か……」
途端に肩から力が抜ける。どうやら皇女ミルファは、結構度量の大きな人物らしい。
──そう言えば皇子であったソーロンもルウェンのそうした所には寛大だった事を思い出し、母親こそ違ってもやはり兄妹なのだな、と変な所で納得した。
「わかった。一日でも早く動けるよう努力するとお伝えしてくれ」
言いながらも、努力でどうにかなるものでもない事に気付いたが、ジニーはただ笑って頷いた。
「確かにお伝えします」
そして一礼すると、ジニーはフィルセルにも軽く会釈をしてから退室していった。
その背が扉の向こうに消えるのを待ってから、フィルセルがルウェンの方へ歩み寄ってくる。再び寝台の横に置いた椅子に腰掛けながら、不思議そうな顔で彼に尋ねた。
「もしかして、ルウェンさんってすごい人だったの?」
「もしかしてって、どういう意味だ」
何となくばかにされているような気がして問い返すと、フィルセルはだって、と軽い口調で言い返す。
「あたしから見たら、年の割りに無茶をする要注意人物って認識しかなかったんですもん」
「…オイ」
どうやら先日の一件を根に持っているらしい。大いに反省すべきだとは思うが、『年の割に』は余計だ。
「でもジニーが名前を聞いて驚く位だから、割と有名な人だったんだーって思って。南領まで名前が知られているって事は、かなりすご腕だったって事でしょう?」
口調は軽いものの感心している事は伝わってきて、ルウェンは苦笑いを浮かべた。
「──すごくなんかないぜ。買い被りだ」
非常時とは言え、人を傷つけあるいは殺す事は、いい事でも誇れる事でもない。逆に傷付いた人を助けそして癒す、施療師を目指すフィルセルの方が立派だろう。
実際、彼は東領でそれなりの戦果を上げた。
そういう意味ではおそらく彼女の言う『すご腕』という表現は、あながち間違いではない。けれど──すごいと言われても、素直に受け取れはしない。そんな権利もない。
(だって、俺は──結局、守りたかったものを守れなかったんだからな)
謙遜でもなんでもなく、自分がその言葉にふさわしくない事を知っているから。