第二章 騎士ルウェン(3)
「…ッ」
「──あ。目が覚めました?」
重い目蓋を開くと同時に、すぐ横から明るい声が飛んできた。
つい先程まで重苦しい悪夢に苛まれていた彼は、面食らってその目を見開いた。
開けた視界は片方が塞がっていて益々彼を混乱させたが、その事に関してはすぐに負傷していた事を思い出す。
──これは魔物にやられたのだ。
そこで数度、開ける方の目だけで瞬きを繰り返し、それからようやく詰めた吐息を吐き出すと、声が再び話しかけてくる。
「ごめんなさい! もしかして、驚かせちゃいました? …心臓、ちゃんと動いてますかー?」
「……」
口調と声はきゃぴきゃぴと少女特有の明るさに満ちていたものの、その言葉には微妙に似つかわしくない言い回しが混じっていたような気がして、彼は眉根を寄せた。
声に聞き覚えはまったくない。
一体何者だ、と声のした方へ無事な方の目を向けると、そこにはまだ十代前半と思われる少女が、にこにこと笑って寝台の上の彼を見下ろしていた。
首の中頃で切り揃えられた黒髪に、緑がかった薄茶の瞳。やはり面識はない。白を基調とした飾り気のない服装からして、医師の手伝いか何かだろうか。
見覚えのない顔に、見覚えのない部屋。
今、自分が置かれている状況がわからずに彼は顔を顰めた。
「…こだ……?」
ここは何処だと問いたかったが、からからに乾いた咽喉からは掠れた声しか出て来ない。
だが彼の言わんとする所は伝わったのか、少女はその大きな目を細めて、はきはきとした口調で彼の疑問に答えてくれた。
「ここは南領の都ライエですよ、兵士様。ライエにある南領主の館の一室です」
「…イエ……? じゃ…お、れは……」
──目指す場所へと、辿り着けたのか。
言葉の後半は言葉にならず、半ば信じられない思いで、彼はそろそろと自分の右手を持ち上げた。
腕一本持ち上げるだけなのに──しかも自分の腕だというのに、それは錘でも詰めているかのように重く、彼は心の内で軽く舌打ちする。
一体どれ程寝ていたか知らないが、すっかり身体が鈍ってしまっているようだ。
傷だらけだったそこは今はきちんと手当てされ、清潔な包帯が巻かれている。その白さにようやく現実感を取り戻すと彼は再び少女に尋ねた。
「…俺は──どれ位、寝ていた?」
まだ僅かに掠れる声で尋ねると、少女は三日です、と答えた。
「医師様も施療師様も驚かれていましたよ? 獣並みの回復力だって」
くすくすと笑いながらの言葉に、彼は眉間に皺を寄せる。果たしてそれは褒められているのか、それとも貶されているのか。
だがそう言われるのは初めての事でもなかった為、そこまで腹は立たなかった。むしろ自分でもよくぞ三日で目を覚ましたものだと感心する。
──目を覚ますまでの記憶はあやふやで、ろくな事を覚えていない。ただひたすらに、ライエを目指していた以外には。
「それだけ話せるのならもう大丈夫ですね。ここに痛み止めを置いてあります。もし、痛みをひどく感じたら一粒飲んで下さい。いくら痛くても、飲みすぎは厳禁ですよ? 包帯も絶対に自分で勝手に外さないこと。あと、医師様の許可が下りるまでは絶対安静! …わかりました?」
年齢に似合わない、実にてきぱきとした口調で指示してから、少女はようやく思い出したように自分の名を名乗った。
「あ、忘れてました。あたしはここで施療師見習いをしているフィルセルといいます。フィルセル=リッド=マグリス。顔見知りは皆、フィルって呼びますから、お好きな方をどうぞ」
そう言って、少女──フィルセルはにっこりと笑った。
それは随分と久し振りに見る好意に満ちた笑顔で、彼は知らずそれに見入っていた。よく考えると、フィルセルくらいの少女と言葉を交わすのも相当に久し振りだ。
「あなたが動けるようになるまでお世話をします。何かあったら気軽に呼んで下さいね。…兵士様のお名前も伺っていいですか?」
無邪気な言葉に、彼もつられたようにその強張った顔に笑みらしきものを浮かべた。笑い方を忘れていなかった自分に少し驚きながらも、彼は自分の名を口にする。
「俺は、ルウェン、だ。ルウェン=アイル=バルザーク。しばらく、世話になる。…よろしくな、フィル」
「ルウェンさんですね。こちらこそよろしくです!」
こうして、彼──ルウェンの南領での生活は満身創痍の状態で始まった。
+ + +
フィルセルは一見おとなしそうな感じのする外見に似合わず結構活発な性格なようで、ベッドに縛り付けられて退屈を持て余すルウェンの良い話し相手になった。
「そういや、フィル。何でまた、施療師になろうなんて思ったんだ?」
ふと疑問に感じて尋ねると、フィルセルはきょとんとした表情になってルウェンを見つめた。
「え? 何でって…変ですか?」
「いや、そこまでは思ってねえけど……。でも女の医師は結構いるけど、女の施療師ってのは珍しいだろ?」
医師と施療師。この二つは共に医療を担う重要な職業だ。医師は主に内科的な分野を、施療師は主に外科的な分野を専門とする。
出産などは医師の分野の仕事に当たる為、結果として女性の医師は数多いが、時として壊死した腕や足を切断したり、目を覆わんばかりの重症を目の当たりにする事もある施療師に女性は非常に少ない。
特になってはならないという規則はないので、これは必然的にそうなったという事だろう。
ルウェンでもその程度の知識がある程に一般的な事だ。その疑問を抱いたのは不思議でも何でもないだろう。
フィルセルも気を悪くした様子もなく、あっさりと答えてくれた。
「あたしの父が施療師だったんですよ。母は医師で…いつも一緒に働いていました。その姿を横に見て育っている内に、施療師の仕事に興味を持つようになったんです」
「医師じゃなくて?」
「はい。…だって、あの山ほどある薬草の一つ一つの効用と組み合わせ方を覚えなきゃならないんですよ? 無理ですよ、そんなの。それにあたし、お裁縫は得意だし♪」
「──そういう表現はやめてくれ……」
傷口を裁縫感覚で縫うフィルセルの姿を想像して、ルウェンは思わずげっそりとした顔で唸る。
どうもフィルセルには微妙に黒い表現をする癖があるらしく、彼がこういう思いをするのもすでに珍しい事ではなくなっていた。
そんなルウェンの顔にくすくすとフィルセルは遠慮なく笑う。──明らかにわざと、だ。
わかっていて言うのだから余計に性質が悪い。彼女が施療師になるには適性以前にこういう言動をどうにかすべきだと、ルウェンは思った。
この調子ならちょっとの痛みを『死ぬほど痛い』と表現して、徒に人の恐怖を煽りかねない。
直接言おうものならうっかりを装って傷口を『撫で』られかねないので、あくまでも心の中で思うに留めるが。
というのも先日、すっかり鈍ってしまった身体を少し動かそうとフィルセルの目を盗んでベッドから抜け出そうとして、正に部屋を出ようとした所を見つかってしまった事があったのだ。
焦るルウェンにフィルセルは不自然なまでの笑顔で歩み寄って来ると、そのまま傷口の上を容赦なくスパーンといい音を立てて叩くという凶行に及んだ。
普段の彼であれば難なく避けられた一撃だったが、完全に鈍りきった身体とまったく予想外の行動に対応が遅れ、もろにその一撃を受けてしまったのである。
当然ながら洒落にならない激痛が走り、ルウェンは涙目で何をしやがると抗議したのだが。
その抗議に対し、フィルセルは悪い事など一つもしていないかのような笑顔できっぱりと言い放ってくれた。
『それはこちらの台詞ですよ? 動けるようになるまで安静にって、あたし言いましたよね? 動けるって事は、傷が治ったという事です。ほんのちょっと「撫で」たくらいでそんなに痛いんだったら、まだまだ治っていない証拠です。──大人しく寝てて下さい!』
──フィルセルは良い話し相手でもあったが、良い監視人でもあった訳だ。時として対応に困る事もあるが、こんな他愛のないやり取りをしていると気持ちが和むのも事実だった。
(こういう妹がいたら、毎日が楽しいかもな)
妹などいなかったが、想像してそんな事を思う。
フィルセルの屈託のない明るさは、極限まで張り詰め、ささくれだっていた心を癒してくれる。随分長い事、こんなやり取りから遠ざかっていたからだろうか。
今の時間がとてつもなく貴重なものに思えて仕方がなかった。いつまでもこうしていられるなどとは、当然思ってはいなかったが。
ふと会話が途切れたその時、扉が控えめに叩かれる音がした。