第二章 騎士ルウェン(1)
東の空が、ゆっくりと白み始める。
その気配を感じてか、西へと足を進めていた旅人はその歩みを止め、緩慢とした動きでその顔を背後に向けた。
夜通し歩いてきたのか、その顔には隠しきれない深い疲労があった。
淡い朝日に浮かび上がるその顔は、半分を薄汚れた包帯で覆われている。それだけではない。見ればそのような包帯は、全身のいたる所で見受けられた。
部分部分に赤黒い染みがある所を見ると、その傷は最近負ったもののようだ。完全に止血が出来ていないままに、それが巻かれたのは明らかだった。
もし、その有様を医師などが目にしたならば、すぐさま応急処置の包帯を取り去り、傷の手当てをしただろう。
それほど、彼の傷はどれもこれもひどいものだった。
(…また、一日が過ぎちまったか……)
旅人は眩しげに太陽を見つめながら、ぼんやりとそんな事を考えた。
思考力が麻痺してしまっているのだろう、現実感がひどく乏しい。ただ思うのは、一日でも早く目的地に着かなければという思いだけだ。
(早く……、南領へ、行かないと……)
思考すら途切れかける状態で再びふらつく身体を西へと向け、旅人は歩き出そうとした。
だが重症を負い、更に疲労も積み重なったその身体は、もう言う事を聞かない。歩き出そうと踏み出した足がもつれ、そのまま不様に大地へ転がる。
──限界なのは、明らかだった。
(チクショウ、動けよ……!)
憎々しげに動く事を拒否する自分の身体に毒づく。
この十日ほどほとんど不眠不休で動き続けたのに、なおまだ目的地──南領の都ライエは遠い。
旅立ったのは、現在も混乱の中にある東領の都アーダ。
そこから、本来なら十日かかる海路を時にはなだめ、時には脅して三日で済ませ、ひたすら陸路を進み続けている。だが、先日ようやく南領に入れたばかりだ。
普通ならどんなに早くても一月かかるその道を、重傷を負いながらもおよそ半分の時間で進む彼は、人知を超えた力が作用しているとしか思えない状態だった。
全身の傷といい、装備の貧弱さといい、普通なら途中で行き倒れても不思議ではない有様なのだから。
「こんな…所で、寝てる場合じゃ…ねえ……っ」
唸るような声で呟き、彼は両腕に持てる限りの力を込めて、まるで錘でもついているような重い身体を持ち上げる。
ぎしぎし、と身体が軋むような感覚。
歯を食いしばり、彼はゆっくりと起き上がる。膝を曲げ、それを支えにするようにして、長い時間をかけてよろりと立ち上がった。
あらわになっている片側の目に、狂気めいた焦燥の念が浮かぶ。
(うご…け、動け──!)
一歩、そして、また一歩。
僅かな距離だが、確実に前に進む。行く手には、まだ夜の中にある豊かな緑の広がる大地。その先にある都へ辿り着き、ある人物に会わねばならない。
そして──。
ゆっくりと昇る太陽が、傷ついた旅人を照らす。
──彼が目的の地へと辿り着くのは、それからさらに十日程の時間が過ぎての事だった。
+ + +
「お、おい……!」
「何だよ」
「あれ、見てみろ……」
「あ? ──な、なんだ、あれ!?」
南領の都ライエの中心部に置かれた領館の主門を守る兵士達は、その日、とんでもないものを目の当たりにした。
とんでもないもの、としか表現は出来なかったが、それはたった一人の人間だった。
生きて動いているのが不思議なほどに傷ついた男が、よろめきながらも真っ直ぐに門へと向かってくる。
明らかに不審者である。通常ならば、彼等はすぐに得物を手に誰何したに違いない。だが──彼等はその場に立ち尽くし、その行動を見守る事しか出来なかった。
その全身から立ち上るのは、さながら殺気。
触れれば触れた側が傷つきそうな、鬼気迫る気配を背負い、男は一歩一歩近付いてくる。
衣服は着の身着のままと表現しても差し支えがないほどにボロボロで、その身に寸鉄も帯びていない。にも関わらず、彼等は手出しが出来なかった。
やがて男は門の前に辿り着くと、息を飲んで彼をまじまじと見つめる兵士達を、じろりと赤紫の瞳で睨みつけた。顔の右側半分は薄汚れた包帯で覆われ、片方だけだというのにその眼力は半端ない。
「……。ここが、南の…領館、だな? ……」
掠れてひび割れた声に、彼等はただこくこくと人形のように頷く事しか出来なかった。
その反応に男の持つ空気が僅かに緩む。しかし、その目にある狂おしいまでの意志はいささかも薄れない。
男はよろめく身体を鞭打つようにその場に跪くと、上位の者に対する礼を取り、予想外の行動に驚く兵士達へ告げた。
「──申し上げる。東……、東領の地は、現在…魔物が横行する……混乱の地と、なった。もはや、そこを統率する者は、なし……。皇子殿下であられる、ソーロン様は、今より半月前の未明──絶命、あそばされた……」
途切れ途切れに告げられた言葉の内容を理解し、兵士達は己の耳を疑った。
「な、何だって!?」
「それは真か!?」
男の言葉に血相を変えて、ようやく役目を思い出した兵士達が詰め寄ると、男は懐から一通の書状を取り出した。
「これが、証」
強行軍だったであろう道中で汚れる事すら許さなかったのか、その書状は傷だらけの手にあって、何処か不自然なほどに折り目一つなく白い。
差しだされたそれを兵士達の中で一番上司に当たる者が受け取り、表書きを確かめると、それは東の主神殿の印が入ったものだった。
特殊な透かしが入ったそれは、おいそれと偽造が出来ない物。少なくとも、男が東から来た事は事実だと証明されたも同然だった。
──だが。
人の足では東の果てからここまで、一月はかかる道のりだ。それをその半分で踏破したなど、にわかには信じがたい事だった。
「これを届けに来たのか。…半月で?」
疑わしさを隠さないその問いに、男はただ薄く笑った。そして不敵な口調で言い放つ。
「それは、ついでだ」
「ついでだと?」
東の主神殿からの書状以上に重要な用件とは何なのか──怪訝さを隠さない彼等に、男は不敵に言い放った。
「──皇女ミルファに、会わせろ」
「…なに!?」
その無礼な口調に、彼等はただ絶句した。この場にはいないとは言え、仮にも皇女に対してそのような口を利くなど、不敬罪に問われてその場で処罰されてもおかしくはない。
だが、男はうわ言のように繰り返す。
「皇女ミルファに会う為に、俺はここまで来たんだ……」
その口元に浮かぶのは、狂気にも取れる自嘲するような歪んだ笑み。
彼等がそれに恐れにも似た感情を感じたその直後、男の身体はそのままぐらりと傾ぎ、兵士達の見守る中でどさりと音を立てて崩れ落ちていた。
「──え?」
「お、おい、大丈夫か!? しっかりしろ!!」
「誰か! すぐに医師か施療師を呼んで来い……ッ!!」
ようやく深い眠りに就く事を自分に許した男の周囲は、にわかに騒がしくなる。
だが彼はその騒ぎの中、硬く目蓋を閉じたままいつ覚めるともわからない夢の中へと沈んでいった。