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天秤の月  作者: 宗像竜子
第一章 皇女ミルファ
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第一章 皇女ミルファ(16)

 東の空が僅かに明るくなる。

 闇が薄れ、その光は少しずつまだ眠りの中にある世界を、明るく照らし出して行く。

 ── 夜明けの訪れだ。

 清々しいその光は、一人、南の領館の中でもっとも高い建造物── 物見の塔に立つローブ姿の人影をも闇から浮かび上がらせた。


 …バサ……ッ


 無音の世界にそんな軽い羽音が響くと、その人影ははっと弾かれたように音のした方角へと顔を向けた。

 視線の先にいたのは、一匹の蝙蝠。

 それを確認した彼はしばらく呆然と立ち尽くし、やがて我に返ったように骨のように痩せ細った腕を天へと伸ばす。

 蝙蝠はひらりと宙で身を翻したかと思うと、自分を見上げる人物── ザルームの差し出した腕に止まるり、何かを語りかけるように鳴き声を上げ始めた。

 キィキィと少々神経に障るその声に耳を傾けていた彼は、一瞬びくりとその肩を震わせると、やがて暗く響く声で呟いた。

「…わかって、おります……」

 その声は衝撃の為か、それとも別に理由があるのか、まったく感情のこもらないものだった。

 蝙蝠はひとしきり何事かを訴えるように鳴くと、やがて再び舞い上がり、暁闇ぎょうあんの空へ吸い込まれるように姿を消す。それを見送り、ザルームは再び東の空へと目を向けた。

 天にあるのは、これから世界を支配する太陽と── 間もなく眠りに就こうとしている月。果たして彼は、そのどちらを見つめていたのか……。

「── 生き残った皇帝の血を引く者は、これで二人……」

 呟いた声に混じるのは、何処までも苦い自嘲。

「…『契約を忘れる事なかれ』── か……」

 その微かな呟きは誰の耳に届く事なく、静寂の支配する空気に溶けて消えた。


+ + +


「兄上が…亡くなられた……── ?」

 ザルームからもたらされた知らせに、ミルファは呆然とその言葉を口にした。その白い顔には疲労が色濃く漂っている。結局、ザルームの部屋を辞した後、一睡も出来なかった為だ。

 兄の死── それは、実際に東で何事かが起こっていた場合、十分に可能性があるとミルファも考えていたこと。

 だが、いざそれが現実になってしまうと、やはり信じられずに自分の耳を疑った。

「…本当に……?」

 確認を取る声が、自分でも驚く程に震えていた。

「…実際に現場を確認した訳ではございませんので、確証は得られておりませんが…生存の可能性は、限りなく低いかと」

 対するザルームの言葉も常より暗い。その事が余計に事実だと強調しているようで、知らずミルファは自分の胸元を縋るように掴んだ。

 半分とは言え血が繋がっているからだろうか。ザルームは断言していない。兄が生きている可能性もあるはずなのに、心の何処かがその死を理解している。

 虫の知らせというのは、こういう事を言うのかもしれない。

(…── いつかは、分かり合えると思っていたのに)

 胸に湧き上がったのは、そんな後悔だった。

 今は無理でも、全てが終われば血の繋がった兄妹として、手を取り合う事も出来ると思っていた。兄が皇帝の座に就く暁には、その手助けが出来ればとも思っていた。

 ── でも、もうそれはただの夢。もはや、ソーロンと直接言葉を交わす事も、誤解を解く事も出来ないのだ。

(甘かったのか? …あの時、警告だけではなく、こちらから兵を派遣すれば良かったのか……?)

 十日という期間では、東領に入るのがやっとで、変事には間に合わなかったかもしれない。

 けれどもそうする事で敵方に重圧をかけ、事を未然に防ぐ事も出来たのではないか── そう思い始めると、心は千々に乱れた。

「…ザルーム」

「はい」

「── 済まないが、一人にしてくれないか……?」

 ようやくの思いで口にした言葉に、ザルームは何も言わず、一礼するとそのまま退出して行く。

 見慣れた赤黒いローブが扉の向こうに消えるのを見送って、ミルファはぎり、とその唇を噛み締めた。

 なぐさめの言葉を言わずにいてくれたザルームに、心の中で感謝する。今、そのような事を言われたら、おそらく自分はさらに自己嫌悪に陥っただろう。

 …命は、喪われたら二度と戻る事はない。

 取り返しのつかないその事実を、もうすでに知っていたはずなのに── ミルファは打ちのめされた。

 また自分は手を伸ばせば守れたかもしれない大切なものを、自分の心が弱いばかりにみすみす喪ってしまったのだ──。

(…── しっかり、しなくては……)

 心は切り裂かれるような痛みを訴えるのに、ミルファの頭は事態を冷静に解析する。

(兄上が亡くなられたとしたら、狂帝に抗う勢力はこの南だけ。── これから先の戦いは、もっと苦しいものになる……)

 今まで東と南とで二分されていた帝軍が、全てこちらに向かって来る。

 そして東領をまとめるソーロンが真実、志半ばで倒れたのなら、彼が率いていた兵士達がこちらへ流れて来る可能性は少なくない。

 そう遠くはない将来、南領の兵士のみならず、彼等の命をも預かる覚悟をしなくてはならないだろう。

 もう、この戦いはミルファ個人の目的を果たす為だけの戦いではなくなったのだ。この重責に耐えるには、もっと強い心が必要だ。そうでなければ── 兄も許すまい。

 だが、そう思ってもミルファの心は不安で揺れる。頭では事態の深刻さを理解していても、心はそれを受け入れきれない。

 簡単に受け入れられる、はずもない。兄の死すら、受け入れるだけでも精一杯だと言うのに。

「── 何故……!?」

 身を切られるような絶望の中、口をついて出たのはそんな疑問の言葉だった。

(何故、私達を殺すのですか。何故、心を乱されたのですか── お父様……!!)

 きつく、血の滲むほどに唇を噛み締め、ミルファは心の内で帝都にいる父へと訴えかける。

 今までに、何度も何度も、数え切れないほど繰り返した、届く事のない問いかけ。

 胸が張り裂けるようなそれは、けれどもやはり憎しみではなかった。哀しみと絶望からから生まれた、やりきれない感情。

 いっそ、憎めたらどんなに楽だろうと思えるほど、それはミルファの心をさいなむ。

 涙は、出なかった。自分に泣く資格はないと思った。

 この苦しみと痛みは、泣いて癒されるものではない。だからこのまま抱えて進む事を、ミルファは決意した。

 …涙を捨て、生きる事を。


+ + +


 第一皇子ソーロンの訃報が南領の地に正式にもたらされたのは、その明け方から半月が過ぎる頃だった。

 鳩すらも飛ばせない混乱状態に東領が陥っていた事が明らかになるのは、更にその少し後の事となる。

 やって来たのはたった一人の男。

 人の足なら一月はかかるその道程を、いかなる手段を使ったのか、人間離れした早さで踏破したその男は、満身創痍の身体を引きずりながらもソーロンの死を告げると、その有様に驚く南領の兵士に言い放った。


「皇女ミルファに会わせろ」


 理由も語らず、敬う態度も見せない失礼甚だしい言い草だったが、その鬼気迫る様子に人々は飲まれた。

 下手に逆らうとただでは済まない── そんな殺伐とした空気を、男は纏っていたのだ。

 だが、彼等がどう対処しようかと悩む必要はなかった。

 ほぼ不眠不休でここまで来た為か、全身に負った傷がひどかった為か、言うだけ言うと男は倒れ、そのまま意識を失ったからだ。

「── …そう、そんな事が」

 報告を受けたミルファは、静かな眼差しを控える伝令に向けた。

「その男の名は?」

 尋ねられ、伝令の少年は緊張した面持ちで顔を上げた。いつだったか、ウルテ襲撃を伝えたあの少年だ。

 少年は相変わらずの慣れない様子で、主の問いへ答える。

「それが、名乗る前に意識を失ってしまったそうです。現在、医師と施療士が共に治療に当たっております。…いかがなさいますか?」

 何処の誰ともわからない人間の上に、皇女に対し名指しで面会を求める遠慮のなさ。普通ならば、まず様子を見る所だろう。

 だが──。

「その男の話に興味がある。意識が戻り次第、知らせなさい」

「は、はい!」

 ミルファの言葉に少年は落ち着きのない様子で礼を取り、慌しく退出してゆく。

 その背が扉の向こうへ消えるのを確認してから、ミルファは彼女の『影』を呼んだ。

「…ザルーム」

「── こちらに」

 背後から聞こえた暗い声に振り向きもせず、ミルファは感情のこもらない声で告げた。

「私は決めたぞ、ザルーム」

 エメラルドの瞳を硬く光らせ、迷いを振り切った顔で彼女は宣言する。

「私は── 父を討つ」

 それは今まで迷い続けていた問いへ、彼女が出した結論だった。もはや、一目会って話したいという個人的な願いなど抱けない。

 背後の気配は、その言葉に動揺する事はなかった。その沈黙にようやく顔をそちらに向けると、ミルファは問いかける。

「もう、二度と戻れない道だ。間違っていようが、正しかろうが、私はその道を進む。…それでもお前は、私に従うか?」

 ── それは試すような言葉。

 しかしザルームは迷う素振りもなく、静かに頷くとその場に跪いた。

「何処へなりとも、お供いたします」

 やがて返ったその言葉に、ミルファはその表情を僅かに緩めた。

 その顔は、もはや自らの選択に悩んでいた十七歳の少女のものではなかった。



 挙兵してから二年。

 ここから、ミルファの真の戦いは始まった。

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