第一章 皇女ミルファ(13)
霞み始めた視界の中、身を翻して室外へ出るソーロンの背を見届けると、ルウェンはもはや役に立たなくなった愛刀から、床に転がっていた誰の物かもわからない剣へと持ち替えた。
当然ながら、手に馴染んでいない剣は心許ない。それでもないよりはマシだと、ルウェンは自分に言い聞かせた。
そのまま正面に立つ魔族に目を向けると、切り落とされた手首の傷の再生が終わったのか、今にも睨み殺さんばかりの形相になってこちらを見ていた。
真紅の瞳にあるのは、燃え滾る憎悪。
「…オノレ……タカガ、ヒトノブンザイデ……!!」
その口から飛び出した『言葉』に、ルウェンはぎょっと目を見開いたものの、すぐに自分を取り戻す。
思い出すのは先程、この部屋に戻る前に戦い、苦労の末に倒した魔物の事だった。
+ + +
光の直撃を免れたものの、左肩を負傷し、一度は死を覚悟した。普通ならとっくに死んでいる。
だが…彼の持つ強運は、その場においても如何なく発揮された。
…ガシャーン……!
遠くで響いた、硝子の砕け散った音。それと未だ舞い上がる土煙が、彼に勝機を齎した。
おそらく人よりも何倍も敏感な聴覚のせいだろう。ルウェンには微かにしか聞こえなかったその音に反応し、一瞬気が自分から反れる。
それはまさに、千載一遇の機会。それを逃すほど、ルウェンは甘くはない。意識するよりも先に身体が動き、魔物に向かって土煙を味方に一気に詰め寄る。
左肩の傷は深く、思うように動かなかった。だが、それでも右手に握る剣を支える事くらいは可能だ。
当然ながら魔物はすぐに気付き、応戦しようとするも、彼が振るった一撃が僅かに早い。
── ザシュッ!
その剣が切り裂いたのは、首でもなく、心臓でもなかった。
…その、一対の眼。
横一線に切り裂かれた両眼を押さえ、痛みと突然視界を奪われた事による混乱で防御が疎かになったそこを、返す刃で更に一撃を加える。
次は── 首へ!
魔物も本能的に身を守ろうと、見えない目で腕を振り回した。その鋭利な爪が顔の右側を切り裂き、かっと熱が走るが、構わず剣を叩き込む。
ガキッと、途中首の骨で一度その刃は止められたが、ルウェンはそのまま全体重をかけて剣を進め──。
ごとり、と首が落ちた音がするまで、ルウェンはその手に力を加え続けた。相手の動きが完全に止まってさえ、ルウェンは最後の最後までその勝利が信じられずにいた。
魔物の首を一人で落とした。
それは普通なら十分人に誇れる事だ。けれどあまりにも強大な相手過ぎて、その実感はなかった。
(…── 殿下)
傷からの出血はひどく、意識が軽く飛びそうになるのを踏みとどまったのは、その存在を思いだしたからだ。
「…まだだ……」
魔物はこれ一体だけではない。そしてきっと、相手の狙いはかの人の命に違いないのだ。意識を奮い立たせ、ルウェンは応急的に左腕の傷の止血をすると元来た道を引き返したのだった。
+ + +
そして── 何とか、ルウェンは間に合う事が出来た。
剣の主の危機を阻む事が出来た事に安堵する。実際、あと少し遅かったらソーロンの命はなかっただろう。
まだ完全に安心出来る状況ではないが、それでも自分の本分を果たせる事を誇らしく思えた。
手慣れぬ剣を手に、魔物と向き合う。
先程の相手はこうしている今でも、よくぞ倒せたと思える相手だった。素早さ、攻撃力、そして── あの、光の玉。生きているのが不思議なくらいだ。
知能的な部分は今目の前にしている魔物の方が随分と高いようだが、それがなんだというのか。
そう── 少々喋ろうが、それで攻撃力が増す訳ではない。むしろ、その程度なら可愛いものではないか。
あのような呪術まがいの技を使ってくるモノがいたのだ、言葉くらい話しても何の不思議もない。…その声が、聞いていて気持ちの良いものではない事は確かだが。
それに先程の攻撃を受けた限りでは、この魔物は大型だけあって反射速度などは先程より幾分劣る。その代わり、破壊力は先程の魔物よりは上のようだ。
ちらりと、先程持ち替えた愛刀の成れの果てに目を走らせる。今まで一度も刃こぼれした事のなかったそれは、たった二度の戦闘でボロボロになってしまった。
…これが、魔物なのだ。
だが、もはや彼に恐怖はなかった。たった一人で魔物を倒した事、それが彼に希望を与えていた。
── 恐ろしい相手なのは事実。だが、倒せない相手ではない……!
「ユルサジ!!」
魔物の怒声と共に、先程切断された側とは反対側の腕が振るわれる。鈍い唸り声とと共に、それは一瞬にしてルウェンの元へと伸ばされた。
…もう、受け止めるだけの力はない。彼は、一気に勝負に出た── 自分の強運だけを信じて。
元々、足止めが出来ればと思ってここに残ったのだ。今さら惜しむ命などない。
「!?」
魔物が狼狽したような表情を一瞬見せる。それを目の端で確認し、彼の口元に知らず笑みが浮かんだ。
(…勝つのは、俺だ……!!)
右側から飛んだ腕の動きなど、右目の見えない今は捉えられるはずもない。
そう判断したルウェンは、その爪が彼を捕らえる前に前に飛び出し、残った力を振り絞って一息に懐に飛び込んだ。
身体に対し、長すぎる腕が仇となった。魔物の反撃が僅かに遅れる。
…そこを。
「うるぁああッ!!」
全気力を総動員し、ルウェンはその一撃に賭けた。
狙うは── 心臓!!
…── ドスッ!
防御など何も考えない、捨て身の体重をかけた一撃により、剣は魔物の身体に柄まで埋まった。同時に魔物の動きが止まる。
それは正に、戻ったその爪が彼の背を切り裂かんとした寸前。
ここで剣を引き抜けば、すぐさま再生が始まり、魔物が甦る。ルウェンは動きが止まってもなお、貫く腕に力を込めた。
…二度の激闘で、もはや限界を迎えた体が動く事もままならなくなっていた事も理由の一つだったが。
…グラ……ッ……
窓枠を取り除いた場所にしがみ付くように立っていたその巨体は、支えを失い、重力の支配を受けて窓の外側へと傾く。
心臓を貫かれ、仮死状態にあるはずのその身体が、まるで反応したように腕を動かし、空を掻く。だが、それよりも落下の方が早かった。
三階の高さから、背を下にその身体は落ちる。
ルウェンはその手を離さなかった。そのまま大地に魔物の身体を縫い付けんばかりに、肉に食い込んだ剣を握り、魔物と共に落下する。
…やがて闇の中に、重い何かが地面に叩きつけられる音が響いた。
+ + +
ルウェンを残し、部屋を後にしたソーロンは、一路地下へと向かっていた。
そこには、この館が建てられた時に有事の際を考えて作られた非常脱出路がある。この館が東の反乱軍の本拠となる以前、一度として使用される事のなかった場所だ。
おそらく、この館はすでに魔物に取り囲まれている。地上から脱出するのは、困難である以前に無謀と言えるだろう。そう判断した結果だった。
無人の廊下を走り、階段を一気に駆け下りる。まだここまで魔物は進入していないらしく、途中で襲われる事はなかった。
…ズゥ……ン……
息を切らせながら、ソーロンが地下へ向かう階段へ辿り着いた時、外で大きな物が地面に叩きつけられた音が響いてきた。
「……!?」
もしやと反射的に足を止め、振り返りかける自分を、自制心を最大に働かせて押し留める。
耳に甦ったのは、先程後を任せた彼の剣の言葉。
『あんたさえ生きてくれれば、ここで死んだ奴等も浮かばれる…!』
掴まれた時の腕の痛みと共にその言葉を思い出し、ぎり、と奥歯を噛み締めた。
自分は── 無力だ。あまりにも。
命がけで自分を守る彼等に、してやれる事が生き延びる事だけだとは。己の不甲斐なさに情けなくなる。しかし結局の所、今の自分に出来る事はこれしかないのだ。
今、自分が剣を片手に戦いに参入したとしても、事態を悪化させる可能性が高まるばかりなのだから。
ソーロンとて、この五年を無為に過ごした訳ではない。自ら戦いの場に赴き、剣を合わせた事も幾度もある。
…だが、今回は勝手が違う。
相手は人間ではない。しかも、今までの常識とされていたものが悉く覆えされた異常事態だ。
果たして現在、どれ程の人間が生き延びているかわからないが、彼等の動揺は相当のものだろう。
そんな所に自分がのこのこ出てゆけば、彼等は自分を守ろうとするが故に己の身を守れず、無駄に命を落としかねない。
そんな危険を犯す訳には行かなかった。何より、それは彼等を代表して彼に逃げる事を訴えたルウェンを裏切る行為になる。
何も出来ない…しかしその代わり、自分がここを去れば、もしかしたら魔物をこの館の外へ引き付ける事が出来るかもしれない。
そこまで行かなくても、注意を惹く事くらいは出来るはずだ。…魔物達の狙いが、この命ならば。
今は、それだけが彼の心を支える僅かな希望の光。そう信じなければとてもやり切れなかった。
(…済まない)
ソーロンは心の内で詫び、迷いを振り切るように一度頭を振ると、地下へと足を踏み入れた。