第一章 皇女ミルファ(12)
ぶぅんっ!
重い物が空を切る音がしたかと思うと、次の瞬間、ソーロンの身体は床へと叩きつけられていた。
「ぐうっ……!」
苦痛に顔をしかめながら、今、何が起こったかを分析する。
魔物は窓の所から一歩も動いていない。室内にかろうじて残った僅かな光源で、その全貌がようやくわかる。
── 一番近いのは、やはり人なのだろうか。
二本の足で立つその姿は、それ以外のいずれの生き物にも似てはいない。だが、人の形に近いだけで、人そのものではない。
まず、その背にある翼。羽のように見えたそれが、実際は鱗なのだと気付く。全体の形は蝙蝠の羽に似ており、そこに羽のように鱗がついているのだ。
そして── 異様に長い、腕。
一体どういう構造なのかわからないが、その腕が一瞬にして彼等の元まで伸び、薙ぎ払ったのだとソーロンは分析した。
その巨体に似つかわしくない俊敏な動きだった。しかもその威力はすさまじく、彼の前には数人の人間がいたというのに、その全てを難なく跳ね飛ばしたのだ。
他はと目を向けると、その数名は皆ぐったりと床に転がっていた。生きているのか、死んでいるのか──。
「…コレデジャマ、ナクナッタ」
魔物は何処か楽しげに軋んだ声を上げた。
耳障りな声。
人と異なる声帯で、無理矢理人の言葉を話しているからなのだろうか。発音が不自然というだけでなく、ざらついたその声は聞いていて神経に障る。
そもそも、魔物が人の理解出来る言葉を発している事自体、驚きに値する事だったが、もはやソーロンに驚きはなかった。
今夜はきっと、何が起こっても驚かないだろう。すでに彼の精神も飽和状態に達していた。
魔物はゆっくりとその腕を持ち上げた。そして──。
「シスベシ」
それは、死の宣告。
何とか身を起こしたものの、魔物の方が動きは速い。
ブォン!
「…っ!!」
先程よりも速く、腕が動く。
避けねばと思うが、先程の衝撃で身体の自由がまだ利かない。魔物の腕は伸び、その大きな手が彼の首を狙って──。
ガッ!!
激しい衝撃が身体に走り、次いで鈍い、何か硬いものがぶつかり合う音が、すぐ耳元でした。
「……ッハァ、ハァ……ッ」
至近距離で、荒い呼吸音。
鈍痛に支配された身体を捻り、彼は見た。
まさに彼の首を跳ね飛ばそうと伸ばされた手の、鋭い爪。それを受け止めている、ボロボロに刃こぼれした剣と、肩で息をしながらその柄を握る男の姿を。
感じた衝撃は乱暴に突き飛ばされたもので、その男が彼の『剣』だという事を理解するのにしばし時間が必要になった。
「…── 生きてっか、殿下……っ」
無理矢理とも言える形で間に割って入った男の口から、ひどく掠れた声が零れ落ちる。その姿といえば、満身創痍という言葉をそのまま形にしたかのようだった。
ここを出て行った時には無傷だった左の肩当ては無残に千切れ、その下の肉までも抉られている。
自分で止血したのだろう、出血は止まりつつあるようだが、それでも彼の腕は真っ赤に染まっていた。そこだけではない、それ以外にも大小さまざまな傷を彼は負っている。
この男がここまで傷を負った姿は今まで見た事がなく、その事が余計に現実感を失わせた。
「…ルウェン……?」
呆然と名を呼ぶと、男── 彼の剣は、疲労困憊といった様子ながらも、その顔ににやりとした笑みを浮かべた。
「よう、殿下。…ご無事で何より……──!」
言い放つと同時に受け止めていた爪を弾き返し、そのまま裂帛の気合を込めて戻りかけるその手首に自らの愛刀を振るった!
「うおおおおおぉぉ──っ!!」
ザンッ!!
それは正に奇跡の為せる技だった。
すでに切れ味を失い、刃こぼれまでしたその刃に、切り裂く力などありはしない。
だが、ルウェンの気迫が込められたその一撃は、魔物の肉に食い込み、岩石のように硬い骨を砕き、手首から先を切り離す事に成功する。
ギャアアゥアアアアァァ……!!!
ごとりと、重い物が落ちる音に重なって、身の毛もよだつ絶叫が上がった。
流石の再生力も、その身体から切り離されれば及ばない。床に転がった手首から先は、しばらく痙攣していたものの、やがて動かなくなる。
「…ハァッ…ハ、ハァ…ッ…」
呼吸をする度に、咽喉の奥が微かにヒューヒューと乾燥した音を立てる。
その身体が、よろりとよろめいた。
「ルウェン!!」
慌てて立ちあがり駆け寄ると、助け起こす前に恐ろしい力で腕を掴まれた。
痛みに顔を顰めながら、何事かとルウェンの顔を見たソーロンは、はっと息を飲む。
「…ッ、お前、目が……!?」
「──……」
ソーロンの指摘に、忌々しげにルウェンが唇を噛んだ。
先程ではよく見えなかったルウェンの顔の右側── そこには左肩と同様、無残な傷があった。爪か何かだろうか、目蓋の辺りから頬の辺りまでざっくりと走る傷。
果たして右目が無事なのか、この状態ではわからないが、少なくとも今は見えていないはず。この傷を何処で負ったのか、語られずともソーロンにはわかった。
同時に、もはや打つ手がない事も。
そんなソーロンに、ルウェンは掠れた声で告げた。
「逃げるんだ、殿下…もう、ここは駄目だ」
「…ルウェン、だが……」
「いいから、逃げろ。あんたさえ生きてくれれば、ここで死んだ奴等も浮かばれる……! わかってるんだろ…ッ、こいつ等の狙いがあんたの命だって事は……!!」
おそらくその身には激痛が走っているだろうに、ルウェンは必死の形相で言い募る。
腕を掴んだ手はその意志を表わすように、食い込まんばかりだった。
「大丈夫…俺はそう簡単にくたばらないからさ。あんたも言っただろうが、剣を預けた以上、あっさりと死んだりしねえ。だから、ここは俺に任せてあんたは逃げろ!」
それは何の根拠もない言葉。今までならばその言葉はいつだって現実になった。
けれど── 満身創痍の姿で告げられるそれは、明らかに虚勢でしかない。
言うだけ言うと、ようやくその手は彼の腕を放した。…その必死の言葉を、どうして無視する事が出来るだろう。
きっとルウェンはこの言葉を伝える為だけに、ここまで引き返して来たに違いないのだ。
ここで彼の意志を無視して、共に魔族に立ち向かう事も選択の一つだろう。
だが、ソーロンは身を切られる思いで、彼の意思を尊重する事を選んだ。ルウェンから離れ、傷を再生しつつある魔物を流し見る。
魔物の狙いは、この命。ならば── この場を離れる事が、彼等の命を救う鍵になるかもしれない。
その可能性に気付き、ソーロンの目に決意が宿った。
「…死ぬなよ、ルウェン」
おそらく、この状況でこれほどそぐわない言葉はないだろう。だが、敢えて彼はそう言った。
── 祈りを込めて。
「それは…こっちの台詞だっつーの」
彼の心情を知ってか知らずか、疲れを隠せないながらも、彼の剣は満足そうに笑った。
その笑みを心に刻み、ソーロンは階下に向かう扉へと走る。こうする事でしか、彼を守ろうとする人々に応えられない事実を、苦く噛みしめながら。