第五章 皇帝カルガンド(7)
その目が驚いたように見開かれ、じっとルウェンの顔を凝視する。一体何事かと思った、その矢先。
「お、お前……ッ! まさか、ルウェン!?」
「へっ?」
思いがけずその口から出てきたのは、まさにルウェンの名前だった。
「ルウェンだろ!? そのツラ忘れるものか……! 生きてやがったのかよ、この野郎ーッ!!」
先程の友好的な笑顔は何処へやら、鬼気迫る形相でそのまま掴み掛かられ、ルウェンは心底慌てた。何しろ相手に覚えがないのだ。
「ちょ、ちょっと待て!? あんた、一体……!!?」
予想外の展開に、周囲も呆気に取られている。
やろうと思えばそのまま振り払う事も出来たが、男の様子とこちらが名乗る前に自分の名前を知っていたという事実から人違いという訳でもなさそうである。結果的にルウェンはおとなしく掴み掛かられるままになった。
「え、えっと……、その、何処かでお会いしましたっけ……?」
何となく、火に油を注ぎそうだなと思いつつも尋ねてみる。
キーユを訪れたのは初めてで、今まで一度も来た事がないのは確かだ。という事はそれ以前に会った事があるという事で──問題は何処で会ったか、である。
そこまで物覚えは悪くないはずなのだが、何故か思い出せない。
「テメエ、忘れたのかよ……」
予想通りこめかみに青筋を立て、至近距離からぎろりと睨んで来る。ドスの聞いた声といい、ガラの悪い口調と言い、先程の様子とはまるで別人だ。
「オレとの真剣勝負の最中に逃げやがっただろうが……!!」
「あ……?」
その言葉と鋭い視線が記憶を刺激した。
勝負と名のついた事でルウェンが逃げを打つ事は有り得ない。だが、過去に一度だけ結果的にそうなった出来事があった。
おぼろげに残るその時の喧嘩相手の面影が、目の前の男の顔に重なる──。
「お前、あ、あの時の……!?」
「思い出したか?」
「あ、ああ……」
思い出した。確かに、知った人間だ。思わず、心の中でルウェンは呻いていた。
(うあ、最悪……)
その時の事と次第を思い出すに辺り、一番思い出したくない記憶までも甦ってしまったのだ。つい先程、再封印したばかりと言うのに。
ルウェンの思い違いでなければ、おそらく間違いはない。フェード・ツェスク・バルザーク、あの男に不本意ながらも拉致られた時の喧嘩相手だ。確か名前は──。
「セ、セイハッド……?」
ようやく思い出した事で気が済んだのか、男──セイハッドはルウェンの胸倉を掴んでいた手を離した。
「クソッ、よりにもよってお前に礼を言っちまうとはな……!」
吐き捨てんばかりの言葉に、ルウェンは呆れた。正直、そこまで嫌われるほど接点はなかったと思うのだが。何より、今はそんな昔の話を蒸し返している状況だろうか。
「そんな事言ってる場合か? ……ほら、早く嫁さんの所へ行ってやれよ」
「はっ! そうだった、イルニ!!」
急かされてようやく現実を思い出したらしい。セイハッドが再び血相を変えて妻の元へと走る姿に、ルウェンは心の底からのため息をついた。
(すげえ二重人格野郎……)
せいぜい顔と名前を知っている程度の付き合いだったが、まさかこんな男だとは。果たしてイルニという女性は知っているのだろうか。
知らないのだとしたら、おそらく一生知らないままの方が幸せだろう。
ルウェンが何となく覚えているセイハッドという男は、少なくとも身重の妻の身を案じて駆け参じるような人間ではなかった。あの界隈で暴力的な方向で特に素行が悪い事で有名だったと記憶している。
それが何らかの理由でここまで変わったのだとしたら──それはきっと妻となったイルニと無関係ではないに違いないのだから。
「ルウェンさん……知り合い、だったんですか?」
何も知らないフィルセルが不思議そうな顔で尋ねてくる。しばし返す言葉に悩みつつ、結局ルウェンは頷いた。
「知り合い……。まあ、そうなるの、か……?」
──果たして知り合いの範囲に、『暴力沙汰を通しての顔見知り』が含まれるのか激しく疑問ではあったけれども。
+ + +
「本当に、うちの妻がお世話になりました」
ルウェンに掴みかかって来た時の様子の片鱗も見せず、セイハッドは深々とリヴァーナに頭を下げた。
「ばたばたして申し遅れましたが、私はセイハッド・エバン・リンデルと申します。このキーユで酒屋を営んでおります」
場所は変わって、現在はセイハッドの自宅に移っていた。具合の悪いイルニを下手に動かす訳にも行かず、酒場の従業員にも協力を仰いで何とか運び、先程自室に休ませたばかりだ。
リヴァーナが付き添う気でいるのは明らかだったし、フィルセルもそれが当然のような顔をしていた為、一人残る訳にも先に戻る訳にも行かずにルウェンもここまでついて来たが何となく居心地が悪い。
あれからリヴァーナ達の目を気にしてか、セイハッドが突っかかってくる様子はないものの、時折目が合えばぎろりと睨み返して来る始末で、居心地が良いはずもなかった。
「医師様がいなかったら、イルニは一体どうなっていたか……」
想像したのか、その顔が苦しげに歪む。感謝の言葉にも偽りは感じられない。本気で妻の身を案じているのだろう。
かつての彼しか知らないルウェンから見れば驚くべき変わり様だが、自分自身も昔の自分からすれば想像も出来ないほど変わったのだから人の事は言えない。
「医師として当然の事をしたまでです。お気になさらず」
「いえ、気にしますよ!」
リヴァーナの言葉を謙遜と取ったのか、セイハッドはとんでもないと首を振った。
「実は……、この街に限らず帝都では医師や施療師が何処も減っていて……。いたとしてもかなり高齢だったりして、気軽に呼びにも行けないんです。ですから偶然とはいえあの場に居て下さって助かりました」
「何だと?」
セイハッドの言葉に、思わずルウェンは口を挟んでいた。
今の言葉は聞き捨てならない。医師や施療師はその役割から、人々の生活にはなくてはならないもの。その数が減ると言うのは本来ならあってはならない事だ。
そもそも人命を預かる職業柄か、彼等は危険だからと我先に逃げるような者は少ない。それなのに数が減っていると言うのか。
──皇帝が乱心し、まともに都市機能が動いていない上、魔物すら現れるこの状況で?
「それは自分から街を出たのか? それとも……」
ルウェンの問いかけに虚を突かれたように絶句していたセイハッドは、我に返ると心底嫌そうに口を開いた。
「知るかよ。……と言うか、知っていたとしてもなんでお前に答えなきゃならん。関係ないだろ?」
「関係あるから聞いてるんだ!」
「……何?」
何処か切羽詰った様子に思う所があったのか、そこでようやくセイハッドはまじまじとルウェンを見た。過去の確執からか、今まではルウェン自身を見ようとはしていなかったその目が、僅かに驚いたように見開かれる。
「お前……、もしかして反乱軍の兵士なのか?」
今更のように尋ねられた問いかけに、答えたのはそのやり取りを不思議そうに見ていたフィルセルだった。
「ルウェンさんって結構有名なんですけど、知らなかったんですか? 知り合いなんでしょう?」
「し、知り合いったって……、その、特別親しかった訳じゃ……」
流石にセイハッドも何も知らないフィルセル相手に全てを話す気にはならないのか、戸惑ったように口ごもる。そんな二人を交互に眺め、何となく察したのか、リヴァーナがフィルセルの言葉を補足した。
「──この帝都でも『返り血のルウェン』という二つ名くらいは聞こえているのでは? 反乱軍でもおそらく一、ニを争う実力者ですよ」
リヴァーナの意図はわかるが、初対面の時に『何処にでもいそうな普通の男』扱いをされた身としては、持ち上げられても何だか素直に喜べない。
「……リヴァーナ、それは言いすぎだと思うんだが」
「実際はさておき、それが一般論になりつつある事は事実です。あなたもあなたで少しは自覚した方がいいと思いますよ」
自分の事に無頓着すぎると言外に言われて、ルウェンは二の句が継げなかった。実際、今まで自分に対する評価など気にした事もない。セイリェンの戦い以降、反乱軍の中で受ける英雄視も一時的なものだろうと軽く考えていた位だ。
しかし、リヴァーナの言葉に対するセイハッドの驚きを隠さない表情が、彼の思うよりも世間が己の名を知っている事を証明していた。
「こ、こいつがあの、『返り血のルウェン』だって……? 皇女殿下に剣を捧げたって言う、あの……? まさか……冗談、だよな?」
呆然と呟き、まじまじとルウェンを見るその瞳には、もう先程までの刺々しさはなかった。信じられないと言う気持ちが半分、事実だと感じる気持ちが半分といった所だろうか。
後押しするようにフィルセルも頷く。
「冗談じゃないですよー。ルウェンさんは一人で魔物を倒しちゃう位、すごい剣士様なんです!」
我が事のように胸を張るフィルセルに、セイハッドも流石に疑いを捨てる気になったようだ。
実際、ルウェンという名はどちらかと言うとそこまでありふれた名でもない。別人と考えるよりは本人であると考える方が自然だろう。
幾分ぎこちない沈黙の後、疲れたように肩を落とすとセイハッドは感想を漏らした。
「──世も末なこった……」
「どういう意味だ、コラ」
気持ちはわからなくもないが、本人を前にしてそれは正直過ぎると言うものだ。思わずむっとして問い返せば、セイハッドは小馬鹿にするように鼻先で笑った。
「だってそうだろ? あの頃のお前を見て今のお前が想像出来る奴がいたら、そいつは予見で飯が食えるぜ。しかし、そうか……。お前が皇女様の騎士か……。世の中わかんねえなあ」
それは確かに否定出来ない。その事はルウェン自身が一番不思議に思っている位なのだから。だがしかし、それをよりにもよってセイハッドに言われたくはない。
(お前こそ、変わりすぎだろーが!?)
余程言いたくて堪らなかったが、このままでは話が脱線したまま進まない。ルウェンは咽喉元まで出かかった言葉を無理矢理飲み込み、話を戻した。
「ともかく、先程の質問に答えてくれ。医師がいないというのは?」
ルウェンの言葉にセイハッドも何を話していたのか思い出したらしい。軽く咳払いすると、幾分深刻そうな口調で口を開く。
「正確に言うなら、医師や施療師だけじゃない。前触れもなく人が行方不明になる事件があちこちで起こっているんだよ」
「行方不明だって?」
前触れもなく人が消える──それは何だか不吉な響きの言葉だ。予想もしていなかった答えに、思わずルウェンは横にいたリヴァーナと顔を見合わせた。